男はつらいよ お帰り 寅さん
劇場公開日:2019年12月27日
解説
山田洋次監督による国民的人情喜劇「男はつらいよ」シリーズの50周年記念作品。1969年に第1作が劇場公開されてから50周年を迎え、97年の「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」以来、22年ぶりに製作された。倍賞千恵子、前田吟、吉岡秀隆らに加え、シリーズの看板俳優であり、96年に亡くなった渥美清も出演。さらに、歴代マドンナからは後藤久美子、浅丘ルリ子と「男はつらいよ」でおなじみのキャストが顔をそろえる。柴又の帝釈天の参道にかつてあった団子屋「くるまや」は、現在はカフェに生まれ変わっていた。その裏手にある住居では車寅次郎の甥である満男の妻の7回忌の法事で集まった人たちが昔話に花を咲かせていた。サラリーマンから小説家に転進した満男の最新作のサイン会の行列の中に、満男の初恋の人で結婚の約束までしたイズミの姿があった。イズミに再会した満男は「会わせたい人がいる」とイズミを小さなジャズ喫茶に連れて行く。その店はかつて寅次郎の恋人だったリリーが経営する喫茶店だった。
2019年製作/116分/G/日本
配給:松竹
スタッフ・キャスト
全てのスタッフ・キャストを見る
2020年9月16日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会
当然ながら、寅さんこと渥美清さんは鬼籍に入られているわけなので、不在であることは先刻承知。ただ、そこかしこに寅さんの存在を残していること自体が、渥美さんの偉大さといえるかもしれない。今作の主人公は渥美さんから吉岡秀隆にバトンが完全に受け渡されている…などと明記することほど野暮なことはない。
50年の重みは半端じゃない。いまだ健在の倍賞千恵子、前田吟はもちろん、後藤久美子、浅丘ルリ子、夏木マリというかつてのマドンナたちの現在の姿が本編を彩っているのもファンにはたまらないだろう。
ましてや吉永小百合、八千草薫さん、香川京子、田中裕子、竹下景子ら歴代マドンナたちの美しい姿までも網羅されている。日本映画ファンにとっては、宝物ともいえる1本ではないだろうか。
2019年12月28日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会
新収録パートへのデジタル合成による渥美清の“出現”、満男の回想シーンとしての歴代名場面の挿入など、全体に極めてよく練り込まれた構成と演出から、山田洋次監督のただならぬこだわりとシリーズへの愛情が伝わってくる。寅さんの熱心なファンではないが、喜劇人としての渥美清の格別な語り、表情、身体表現に改めて感じ入った。実質的な主演、吉岡秀隆の成長を幼少期から振り返る余禄も楽しめる。
ただ、主題曲をカバーして歌う桑田佳祐を音楽ビデオ風に延々と映す冒頭には失望した。彼のファンは嬉しいだろうが、桑田の声や顔が苦手な人にとっては苦痛でしかない(音だけなら映像で気を紛らせるのに)。もう一点難を挙げると、後藤久美子の台詞回し。長く演技を離れていたので仕方ないが、実力派が揃った豪華共演陣とは歴然とした差があり、気の毒なほどだった。シリーズ集大成のお祭り的な作品だが、山田監督の最高傑作とはならなかった。
2022年10月9日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル
過去作品の映像とストーリーを見事にリンクさせた作品でした。これは30年近く続いたシリーズだからこそできた、傑作ですね。
僕はそんなに寅さんシリーズを観ていたわけではないのですが、それでも若き日の大女優の映像はとても楽しめました。
この作品、寅さんシリーズにハマっていた人が観たらなお感激でしょうね。
ネタバレ! クリックして本文を読む
「ニッポンの顔」と言っても過言ではなかった国民的邦画が姿を消して久しい。ていうか、「世代を越えて毎年の名物になっていた国民的な邦画があった」なんて、僕より下の世代に言って信じてもらえるだろうか(あえて現代人に似た経験を当て嵌めるなら「映画クレヨンしんちゃん」とかになってくるか)。僕らは親の膝の上で寅さんの悲喜劇を楽しんだ最後の世代である。しかしあれだけ好きだった「寅さん」の事を、僕達はどこまで克明に/具体的に覚えてるだろうか。
本作はシリーズ終盤でストーリーの牽引役であった満男、その相手役だった泉のその後が芯になって語られる。
*******************
この「終盤で」の記憶はよく覚えてる。寅さんは満男の恋愛指南役(のつもり)でアレコレ人生訓をボヤいて世話を焼く兄貴分、後見人キャラにシフトしていったわけだが、これは寅さん=渥美清が肝臓と肺を癌に冒され長時間の演技が困難になってきた事情がある。晩年近くでは「最近の寅さんは目に見えて辛い、早くシリーズを打ち切ってくれ」なんて声まで上がっていた。
*******************
という事情とは言えドラマ的な文脈で言えば満男がその後の語り部を担うのは筋が通っている。納得の選択だ。
満男の目を通して画面に移る日常は当たり前だが現代東京のそれで、カフェに変わったくるまやの裏にある畳の座敷が僅かな下町の残り香だ。で、「寅さん亡き後の寅さんの世界」なのだが、満男本人の忙しさと裏腹に兎に角ゆっくり、ゆっくりと映画が進んでいく。もともとテンポで言うと忙しないシリーズという程でもないのだが、立て板に水の寅さん節がコアにないだけでこうも印象が違うのかと静かなショックが僕を襲う。と同時に、体感として思い出す。僕達は寅さんのどういう人柄に、オーラに惹かれてたのか。
実際本作の語り口も、満男の行く先々で寅さんゆかりの人々(これが又必ずしも幸福ではなく、どちらかというとリアル・シビアな社会に当てられてる人が多い)との出会いがあり、落ち穂拾いが如く「寅さんとの思い出」が高頻度でフラッシュバックされ、あたかもそこに寅さんが座ってるように錯覚させる構造を取っている。そしてその場の思い出パートが終わるとまた常識的な東京の静けさに戻され、そのコントラストで「ああ、もう居ないんだった」とメランコリックになる。
で、これまた当たり前だが…本作は「お帰り」とは言ってるが言葉通り寅さんが物理的に蘇生してくるお話などではなく(こんな冗談を言ってしまうのも寅さんならそうなってもおかしくない、ぐらいの存在感が強烈に焼き付いてるからだろう)、満男がこれからを生きるヒントを瞼の中の寅さんに見出すような演出で映画は締めくくられる。
では、何を持って「お帰り」なのか。寅さんが帰ってきたのはどこなのか。スクリーンか柴又か、満男やさくら、リリーら登場人物たちの胸中か。
僕は、「僕たちの中に帰ってきた」のだと思う。本シリーズは49作目から今作まで、実に20年以上ものブランクがある。その20年の間、現実の関門に忙殺された人もいれば、別の楽しいものを糧に生きた人もいる。或いは空虚に時間だけが過ぎた人もいるだろう。何をしていたにせよそれは「僕たちの中の寅さん」が薄れていくには充分な長さだった。ここで「寅さんってどんな人だったっけ」を指差し確認する事で、僕達はその人となり、その人間的魅力を再インストールしたのではないだろうか。
本作は50本ある「男はつらいよ」でただひとつエンディングが流れるタイトルだ。言い換えればここで初めて幕を引いたともとれる。寅さんと生きたニッポンは50年間「男はつらいよ」という1本の映画を観続けていた、もっと言えば寅さんに魅せられた一人一人が「寅さんのいるこの世界」の登場人物だった…というクソデカ解釈は流石にひたりすぎだろうか。
でも、もしそうなら(勝手な展開で恐縮だけど)、僕達が寅さんに再会する方法も満男たちと一緒のはずである。ただ、思い出せばいい。人生に追われて何か大切なことを忘れたような気になった時、誰でもいつでも「男はつらいよ」を観ていいのである。正月に親の膝の上で見た時と同じように。