暫く、歌舞伎を観に行っていないうちになんてことになっていたんだ。
ミュージカルかオペラか、軽快なリズムの音楽から始まる。そして、それとは一転した緊張感のある場面。暗がりの中に男が出てきて、刀が空を舞う…。
歌舞伎座・国立劇場なら花道を使って出てくる登場人物。花道がない代わりに、客席の通路をふんだんに使いながらの演技。
歌舞伎座・国立劇場ならイヤホンガイドで説明される部分を巧みに台詞に入れながら舞台が進んでいく。
えっ?私は歌舞伎を翻案した現代劇を、映像に収めた作品を観に来たの? あれ?
だが、歌舞伎役者が、特に主役の三人が出てくるや、世界は歌舞伎ワールドへ。
チャンバラとは違う殺陣・立ち回り。日本舞踊を観ているよう。
流れるような七五調の言いまわし。おなじみの台詞。
そしてパシッと決まる見得。
おお!やっぱり歌舞伎だ!!!
パンフレットを読むと、普段の歌舞伎に比べて、殺陣・立ち回りもかなり崩しているらしい。七五調の台詞もわざと崩しているらしい。でも、さすが御曹司達。すべてが崩れるわけではなく、崩れた箇所が良いメリハリになって、適度に緊張感・臨場感満載。それぞれの型を演ずるのなら予定調和の世界のはずなのに、思わず手に汗握ってしまう。
笹野さんの演技は秀逸。好々爺から極悪人への様変わり。手だけ、脚だけで、顔の半分であんなに盛り上げてくれるとは。さすが千両役者。
勘九郎丈、声から台詞の言い回しからお父さんそっくり。
でも、今回の一押しは七之助丈。昔拝見させていただいた時は、失礼ながら、品は良いけどあまり深みのない女役というイメージしかなかったけれど。今回は、娘役の艶と、若衆の本性現した時のメリハリ、そして役柄はしょせんチンピラなんだけど、どことなく品と華があって、見惚れてしまいました。「よ!中村屋!」
松也丈は、二人に比べるともう一歩かな?悪くはなかったけどね。
そんな江戸の歌舞伎をアレンジした新歌舞伎の舞台。客席も使い、回り舞台もふんだんに使い、セットも歌舞伎座のように固定ではなく自由自在に動く。歌舞伎座や国立劇場で観る歌舞伎も良いけど、なんて躍動感にあふれているんだ。
いや待てよ。映画用の演出がそう感じさせるのか。
この映画は単なる、舞台を映像化したものではない。
舞台なら、長々と続く間も、映画では一瞬に場面が切り替わる。アップとアップの切り代わりによって生れる緊張感。そして舞台全部を収めた画、一部だけを切り取ったような画、上から見下ろすような画、下から見上げるような画。大立ち回りの中に差し込まれるスチール写真のような映像。
これってどこから撮っているんだと言う角度もあり、何回かの上演を、観客入れないでこの映画の為だけに上演したものを組み合わせて編集した?と思ってしまうほど、多彩な画を見せてくれる。(パンフレットによると、セットをくりぬいてとか、上演中にカメラマンが黒子等にふんして舞台の上で撮った画もあるとか)
そして、音楽。こういう音楽を合わせるかと言う選曲。歌舞伎ならではの効果音が効果的に響くかと思うと、無音。(舞台とは別の音楽?・音響?)
なんていうメリハリ。画、音楽、演技。勢いがある。
舞台としても魅せてくれるが、それを映画として完全に昇華している。
物語は下世話物。古典”鑑賞教室”のノリで行くと、なんだこりゃとなると思う。決して学校お墨付きの品行方正な話ではない。だって主役はチンピラ、大半の登場人物は自己中だもん。(それでも自分が悪いことやっている自覚はあるし、彼らなりの筋の通し方は知っているけどね)
要は「悪いことをしたら罰が下るんだよ」という話なんだが、盗み・殺し、しかも生首まで出てくるし、登場人物は自分達の正義に酔ってはいるけど、なんちゅう自己中なと共感できにくい物語ではある。
「実は」の人間関係が複雑で、百両と名刀があっちこっちに動いて、頭がこんがらがる。この映画では、ストーリーを比較的わかりやすくしているが、それでもなんだこりゃになりやすい。
しかも、家宝を盗まれて切腹・お家断絶とか、よたかとか、今の感覚と違う当時の風習とかもある。
そんな、なんだこりゃと言う話や登場人物を、観客が魅力的と感じる、もしくは少しでも感情が揺さぶられるように如何に演じるかが、役者の腕の見せ所。
親子二代にわたる因縁話に時間が割かれているので、キャッチコピーの「三人だから生きられた」や、パンフレットにある「(主役)三人の孤独」はあまり感じられなかった。
けれど、華のある主役三人の勢いと親世代の笹野さんの侘びの対比が面白く、和尚吉三の難しい役どころも見応えある。
あっという間の2時間15分。
舞台、映画の可能性を拡げた作品だと賞賛してもしきれない気分です。