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出演 片岡仁左衛門、坂東玉三郎
昨年の4月大歌舞伎の第3部『桜姫東文章 上の巻』を仁左衛門と玉三郎のコンビによる36年ぶりの共演で観られたのは幸運でした。四世鶴屋南北の傑作『桜姫東文章』は国立劇場において昭和42年に郡司正勝の演出により復活上演されました。それ以来、玉三郎以外にも桜姫を演じる女形はいましたが、玉三郎を超える桜姫はとうとう出現しませんでした。お姫様であるのに刺青があったり、赤ん坊を抱いたり、お姫様から安女郎に成り下がらせたり、姫と女郎が入り交じった台詞を言わせたり、圧倒的な美しさを誇る玉三郎以上の適役は考えられないのです。
初めて玉三郎主演の『桜姫東文章』を観たのが1978年10月の新橋演舞場でした。清玄と権助は当時の海老蔵である團十郎。歌舞伎座も同時に大幹部が公演をしていたけれどガラガラ。演舞場はチケット入手困難で花道が見えない3階席の隅っこで観ました。
次は1981年3月の歌舞伎座での上演。清玄は海老蔵(團十郎)、権助は孝夫(仁左衛門)。3回目は1985年3月の歌舞伎座。孝夫(仁左衛門)が今回と同じく清玄と権助の二役。4回目は2004年7月の歌舞伎座で段治郎(喜多村緑郎)の二役。
玉三郎の当たり役とはいえ、実際に観る事ができたのは4回だけなのでした。本来は通し狂言で4時間半かけて上演するものですが、コロナ禍による興行時間の制約と二人とも高齢ゆえ4月と6月に分けて上演することになりました。昨年の四月の上の巻の感想は以下の通り。
『桜姫東文章・上の巻』「発端・序幕」36年ぶりに実現した仁左衛門と玉三郎の顔合わせ。今も美しい二人だけれど若さは流石に感じ取れない。何もかもが濃厚で重く感じられるのは芸歴から言って当然なのだけれど失われたものは少なくない。コロナ禍での夢の共演に感謝だが伝説としてとっておきたかった想いもありました。
『桜姫東文章・上の巻』「二幕目」広い舞台に仁左衛門と玉三郎の二人だけになる「三囲の場」に満足感がある。雨に濡れ零落した高貴な人が放つ気品。若手が到底及ばない境地。心地よい台詞に耳を傾けると両花道だったらとも思う。劇場の外は雷雨だったとか。六月の下の巻までの待ち時間も桜姫の転落とリンクして贅沢だ。
シネマ歌舞伎では、上記の感想がより鮮明になりました。「桜谷草庵」で繰り広げられる濡れ場の妖艶だったこと場内になんともいえないため息がもれました。剃髪の時を待っていた桜姫が手紙を届けにきた権助の二の腕に釣鐘の入れ墨があることから、権助がかつて屋敷に忍び込んで自分をレイプし、あろうことか妊娠して、密かに男子を産み落としてしまいます。そして自分を犯した男であるにもかかわらず同じ釣鐘の入れ墨を自分の腕に入れ再会を願っていたのです。そして当然のごとく二人は再び結ばれるのですが、若さが失われた分、男女の性愛の濃厚さが強調されていたように思います。36年前はもっとエロティシズムは希薄だったような。
濡れ衣ではあるものの清玄は出家の身でありながら女犯の罪で、桜姫は許婚のある身での不義の罪によって、ともに非人の身分に落とされます。そして幕切れとなる「三囲堤」では、赤子を抱いた清玄と古蓑を身に包んだ桜姫が偶然に通りかかりますが、お互いに確かめる間もなく、すれ違いに別れていきます。書いてしまえば何でもないような場面も仁左衛門と玉三郎にかかれば、詩情あふれる名場面となるのです。シネマ歌舞伎によって、より強調されたように感じました。
仁左衛門が冒頭のインタビューで語っていた通り、観客の期待は大きく膨らみます。かつての輝くばかりの若さを求めたとすれば、それは芸格の向上によって補われた芸の力に置き換えられていることにシネマ歌舞伎を通じてより思い知らされます。かつては輝くことのできなかった地味で暗い場面も芸の力によって、見事に再生していることに気がつきます。
たった1年前の舞台なのに、実際の舞台と映像では違う時間が流れているのか物語の展開の遅さがもどかしく感じられました。仁左衛門の言葉通り観客の中に理想の桜姫、清玄、権助が生きているからかもしれません。華麗で妖艶な舞台面より三囲の場の尾羽うち枯らした姿に36年で培われたものを観た思いがしました。