機動戦士ガンダムNT
劇場公開日:2018年11月30日
解説
2010~14年にかけてOVAと劇場上映で展開され、16年にはテレビシリーズとして放送もされた「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)」の続編となる劇場版アニメ。「ガンダムUC」のストーリーを担当した小説家の福井晴敏が脚本を手がけ、「ガンダムUC」から1年後となる宇宙世紀0097年を舞台に、ユニコーンガンダム3号機フェネクスをめぐる物語が描かれる。ニュータイプの存在と権利に言及した「宇宙世紀憲章」の存在が明らかにされた「ラプラス事変」から1年。争乱の中心にあった「ユニコーンガンダム」と呼ばれたフルサイコフレーム仕様の2機のモビルスーツは最後の戦闘で人知を超えた力を発揮し、それゆえに危険視され、封印された。しかし、2年前に消息を絶っていたユニコーンガンダム3号機が再び地球圏に姿を現し、同機をめぐる争奪戦が勃発。この戦いに、新たなモビルスーツ「ナラティブガンダム」が投入される。
2018年製作/90分/G/日本
配給:松竹
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2022年7月23日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル
ラプラスの箱が開かれてからの1年後。
ユニコーンガンダム3号機をめぐっての話。
ニュータイプもよくわからない方向までいくなぁとだんだん追いついていけなくなりそうだけど。
戦闘シーンは楽しめました。
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ガンダムは戦争の話だが、この映画では戦う意味が感じられない。大勢の人が住むコロニー内で戦闘を行うのが、1人の暴走する軍人によって始まり、最後は彼の暴走を止めるために皆で戦う。鍛えられた軍人があんなめちゃくちゃな戦いしたらあかんやろ。罪のない大勢の人が死んでるのに、その描写も少ない。私が思うにこの物語では、失敗作である彼が1番の悲劇の人物だ。もっと彼の戦う意味をわからせて欲しかった。
2022年6月29日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD
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OVAで全7巻、それを再編した地上波アニメで全22話あった「機動戦士ガンダムUC」、その1年後の世界を90分の映像で描く。
UCの頃には影も形もなかった「ユニコーンガンダム第三号機 フェネクス(フェニックス)」の捕獲を巡る物語。連動して、3人の幼なじみの物語のようでもあり、UCに続いて「ニュータイプ(以下NT)とは何だったのか」に対する物語でもある。
主題や物語を描くための手段としてNTが登場するのではなく、「ガンダム世界におけるNTとは、どういうものなのか」を定義・解説することが目的となっている作品のため、独立した活劇として観ることが困難な作品。なので、「ガンダムというシリーズ作品としては」という見方しかできず、感想もその中でしか生まれない。
その上で感想を述べるとしたら、自分としては終始うんざりが続く90分となった。
その理由は
①旧作の主観的、比喩的な表現を「客観的事実」として1つ1つ解説することにセンスを感じない
②その「客観的事実」をフル活用して描かれるかつてない大スケールの戦闘(?)が、宇宙世紀作品として受け入れがたく、シリーズが積み上げてきた数々の風味を台無しにしていると感じる
③上の二つについて、非シリーズ原作者が公式の宇宙世紀正史作品でやるべきことでないと感じる
④主要人物たちに魅力がない
⑤人物の作画も、2018年の映画としては非常に弱い
という5点から成る。
それぞれについて、具体的に言及する。
【①旧作の主観的、比喩的な表現を「客観的事実」として1つ1つ解説することにセンスを感じない】
ガンダムUCの頃からそうだったが、福井氏の悪癖であると感じる。
例えば、1stガンダムでララァが「時が、見える……」と言って散れば、福井氏はララァの心象としてではなくて「ニュータイプは、過去や未来が見えたんだ」と、「(ララァ以外でも)NTならできること、できるという事実」として受け取ってしまうらしい。
このような解釈が
「1stホワイトベース隊の、NTが多すぎる事実」=NTは感染するから
「1st最終話の、アムロとカツレツキッカの念話」=NTは能力を分け与えられるから
「ジ・Oのビームを弾き、動きまで止めたZガンダム」=NTはサイコフィールド・サイコシェード(シャード)を使えるから
「カミーユやジュドーに加勢した、死亡済みの面々の幻影」=思念体として別次元で次の生を得ているから」
「小惑星アクシズの落下を止めたνガンダムとアムロ」=サイコフーレムの共振で、意思を物理的なエネルギーに変換することができるから……
と、過去作の数々の超常的な決めシーンすべてに対して当てはめられ、解説される。
よく言えば、かつて主流だった独自解釈&独自解説主流の同人誌のノリ(妄念に入れ込んでいる作者以外はまず面白くないという点を含めて)なのだが、公式の正史の作品として語られるときつい。その「解釈・解説・事実定義」が面白くなる方向ならともかく、宇宙世紀やNTを巡る物語としては決して面白い方向に機能していないからだ。
執拗な癖ともいえるこの「定義癖」は、例えばある野球部員が甲子園決勝のマウンドで「昔亡くなった、エースピッチャーだった弟の声が聞こえた気がした」なら、「全てのエースピッチャーは、死者と交信できる能力を持つ。全てのエースピッチャーは死後に思念体として別次元で生きている」と解釈するようなものである。「個」の主観的体験として演出された事物を「法則」として解明するかのように物語るのは、本当に面白さに繋がっているだろうか。
【②その「客観的事実」をフル活用して描かれるかつてない大スケールの戦闘(?)が、宇宙世紀作品として受け入れがたく、シリーズが積み上げてきた数々の風味を台無しにしていると感じる】
①で挙げた内容はガンダムUC、ガンダムNTの作中ではすべて「やろうと思えばできること」として認定されるので、作中人物たちは敵も味方もそれらを「手段」として駆使した超常の戦いを行う。
ビームは強い意志を持ったサイコフィールドで弾けばいい。サイコシェード(シャード)で敵の装備を組み立て前まで時間を戻して無効化すればいい。念話で連携をとればいい。亡くなった者たちの思念体としての力や、人類の集合無意識を拾い上げる力を駆使して、物理エネルギーに変えて圧倒すればいい……など。特に本作では、(サイコフーレムで増幅されているとはいえ)、敵側がかめはめ波だけでなく何の捻りもないサイコキネシスで物理的破壊を行う。コックピットでふん、はっ、と念力的なポーズを取ると、超巨大なヘリウムタンクが見えない力にねじ切られ爆発するのだ。これは福井市の「現実世界を賑わせたサイコキネシスも、サイコなんだからNTで説明できる」という解釈だろう。ただ、それを実弾やビームを超えるより便利な武器として描かれると、宇宙世紀ものとしては観たくなかったという感想が勝る。
【③上の二つについて、非シリーズ原作者が公式の宇宙世紀正史作品でやるべきことでないと感じる】
ガンダムUCの頃からそうだが、福井氏のこだわりは「ガンダムという世界観を自分が包括する」ことである。シリーズ原作者である富野氏よりも自分の方がこの世界を理解している、それを表現するというベクトルがつきまとう。ガンダムユニコーンと銘打ってUC(ユニバーサルセンチュリー、宇宙世紀)の0年と原罪を描き、ガンダムナラティブと銘打ってNT(ニュータイプ)の解説と帰結を描く。「後発の、ファンの一人」にすぎないにもかかわらず、枝葉を描くのではなくて、幹を自分という塗料で塗り尽くそうと試みるのだ。しかもその手段が「思念体としてのシャアの亡霊がそうさせた(比喩ではない)」など、上述の通り70年代~80年代スーパーロボット感であり、私としてはセンスを感じない。結果、不遜を尽くしていると感じる。
そもそも2002年の氏の出世作である『終戦のローレライ』の時点で、1996年の『ガンダムX』の言葉置き換え物語すぎて、「この人はガンダムが好きな人なんだなぁ」と苦笑いだったが…元より、「誰かになりたい人」でしかなかったクリエイターが、「その誰かを超えたと見えるように包括的な話を書いて、全力でそういうことにしたがる」という悪戦苦闘は、本作よりも物語として面白い。
【④単純に、主要人物たちに魅力がない】
観れば誰でもわかるので割愛。
【⑤人物の作画も、2018年の映画としては非常に弱い】
自分は作画を重視しない人間だが、それにしてもアップが多いミシェルの顔などは、もう少し美人にしないと画面が持たない。「最低限クリアしないと、お粗末さに笑われてしまう」水準のまま出ていると感じるので、これは制作進行のミスだろう。
【総評】
自分はガンダムUCの時点で氏の傾向を嗅ぎ取って「なんだかな」と思っていた人間なのでこの程度の落胆で済んでいるが、UCの大ファンで「4年後のUCの新作」として待ち遠しく思っていたファンには、より顕在化した氏の個人的嗜好傾向や格段に落ちた人物作画で、非常に苦しい思いをした人も多いのではないだろうか。
「正史として、宇宙世紀やニュータイプの包括」に執着する原作者であり、その目的のために作られた作品だが、とはいえ本作で描かれた「進化人類」たちのサイエンス・ファンタジーは、U.C105年の正史「閃光のハサウェイ」や、それ以降とはまったく繋がっていない。そういう意味で雑で半端な作りであり、ガンダムシリーズファンとしても、UC後半や本作の設定・定義を肯定する方が全体世界観の調和を損なうので、観ないでいい作品だったと思う。
2022年6月5日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
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これまで、ガンダムの2作目以降は「ジオンが何の悪い事をしたのか」というのは、台詞でしか説明されてこなかった。だが、近作は冒頭でコロニー落としの地獄絵図が描かれ、それによって宇宙世紀ガンダムの予備知識が無い人でも理解できる内容となっている。例えば、Zガンダムの劇場版1作目は「あのアムロとシャアが再開!」と描かれるが、宇宙世紀ガンダムを知らない人は「何のアムロで、何のシャア?」となり、一般観客に対しての映画としては、不親切だ。対し、近作の主要3キャラはオリジナルの為、以前の作品の知識は関係ない。
コロニー落としの描写も戦慄だ。あの地獄絵図は、過去に感性が鋭い年齢時に、大きな震災2回を経験した若い世代だからこそ出来た描写である。これに対し、安彦良和のジ・オリジンのコロニー落とし描写は、今だに太平洋戦争時代の戦場写真をアニメ絵に写し変えた物にしかなっていない。
人物描写も光る。昨今のアニメによくある、子供→純粋→善、大人→汚い→悪、といった、安易な構図で若者に迎合せず、大人の役割を、きっちり描いている。
物語中盤に「ニュータイプは生と死を超えた存在になる」と語られる。だか、ここで大人は「こうも思います。うげっ!こんな事を後10年も続けて生きなきゃいけないのかよ!?」「だな…永遠の命なんか人類が手にしたって、持て余すだけだ」と語る。
宇宙世紀の世界が、今の時代から300年後位、先の時代かどうかは不明だが、21世紀現在、人類は核の力・原子力エネルギーを完全にコントロール出来ていない。その為に、大変な悲劇の大惨事を起こしてしまった。現代で人間は核のエネルギーを完全にコントロール出来ていないのに、300年後に生死を超えた力など、自分の物に出来る訳がない。そんなメッセージを込められている。
過去のガンダム作品は、少年が主人公の場合、必ず最後に帰る場所というのを描いてきた。だが、近作の主人公は成人した大人。既に自分の意思で軍人を続け、飯を食ってる。ラストに主人公の帰る場所を明白にしなかったのは「もう大人なんだから、帰る場所は自分で見つけろ」という着地点を描いたのだろう。
ただ、終盤に観念的な描写が多い嫌いはあるが、それも★をマイナスにする要因にはならない。
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