ドライブ・マイ・カー

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劇場公開日:

ドライブ・マイ・カー

解説

村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」に収録された短編「ドライブ・マイ・カー」を、「偶然と想像」でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した濱口竜介監督・脚本により映画化。舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし、妻はある秘密を残したまま他界してしまう。2年後、喪失感を抱えながら生きていた彼は、演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさきと過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。主人公・家福を西島秀俊、ヒロインのみさきを三浦透子、物語の鍵を握る俳優・高槻を岡田将生、家福の亡き妻・音を霧島れいかがそれぞれ演じる。2021年・第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、日本映画では初となる脚本賞を受賞したほか、国際映画批評家連盟賞、AFCAE賞、エキュメニカル審査員賞の3つの独立賞も受賞。また、2022年・第94回アカデミー賞では日本映画史上初となる作品賞にノミネートされる快挙を成し遂げたほか、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞とあわせて4部門でノミネート。日本映画としては「おくりびと」以来13年ぶりに国際長編映画賞(旧外国語映画賞)を受賞した。そのほか、第79回ゴールデングローブ賞の最優秀非英語映画賞受賞や、アジア人男性初の全米批評家協会賞主演男優賞受賞など全米の各映画賞でも大きく注目を集めた。日本アカデミー賞でも最優秀作品賞はじめ、計8冠に輝いた。

2021年製作/179分/PG12/日本
配給:ビターズ・エンド
劇場公開日:2021年8月20日

スタッフ・キャスト

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受賞歴

第45回 日本アカデミー賞(2022年)

受賞

最優秀作品賞  
最優秀監督賞 濱口竜介
最優秀脚本賞 濱口竜介 大江崇允
最優秀主演男優賞 西島秀俊
最優秀撮影賞 四宮秀俊
最優秀照明賞 高井大樹
最優秀録音賞 伊豆田廉明 野村みき
最優秀編集賞 山崎梓

ノミネート

新人俳優賞 三浦透子

第94回 アカデミー賞(2022年)

受賞

国際長編映画賞  

ノミネート

作品賞  
監督賞 濱口竜介
脚色賞 濱口竜介 大江崇允

第79回 ゴールデングローブ賞(2022年)

受賞

最優秀非英語映画賞  

第74回 カンヌ国際映画祭(2021年)

受賞

コンペティション部門
脚本賞 濱口竜介 大江崇允

出品

コンペティション部門
出品作品 濱口竜介
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(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

映画レビュー

5.0私が正しく傷つくために

2024年4月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

知的

濱口竜介監督作品。
第74回カンヌ国際映画祭で脚本賞他4冠を達成したから観たわけでもなく、
『寝ても覚めても』がおもしろかったから観てみようと思った。
鑑賞日は8月21日なのだが、衝撃を受けた。本当に凄かった。その後、原作を読んでみたり、記事を漁ってみたり、自分であれこれ考えていたら4週間ぐらい経ってしまった。

本作は村上春樹の短編集『女のいない男たち』に所収された同タイトルの短編が原作である。そして『女のいない男たち』に同じく所収された「シェエラザード」で音の人物造形に肉付けを、「木野」で家福が音を喪失した後の回復の物語の手掛かりにしている。さらに「ドライブ・マイ・カー」で数行のみ登場した「ワーニャ叔父さん」を劇中劇で採用する。そしてその劇が出来るまでのキャスティングや本読み、演じることも映し出す。それは監督の方法論でもある。そのような監督の思想やオリジナリティも織り込み、映画として昇華させたのが本作である。
これらを精微に織り込み映画にしたのだから、凄くないわけがない。物語の重みが凄い。

最初のカットで一気に引き込まれ、アバンクレジットの入るタイミングに震えた。アバンクレジットはおそらく上映40分後ぐらいに入り、上映時間90分の作品であれば中盤のタイミングである。物語のエンジンがようやくかかったといわれているようで、口が半開き状態になってしまった。179分の作品だからできる技である。

私は本作を、〈私〉が〈他者〉を「演じること」、その過程で「正しく傷つくこと」に巻き込まれ、〈私〉を開く物語であると解釈した。以下、その解釈に至った道筋を述べる。

本作のおもしろいところは何か。それは、登場人物らが外部から到来した出来事に巻き込まれ、しかしその出来事を通して変化していくことである。
まず家福について。彼が妻の不倫を目撃するのも、予期せぬフライトの中止である。みさきにドライバーを任せるのも、招待された演劇祭の都合であり嫌々である。しかしこういった出来事に投げ込まれることで、音の不倫に傷ついた自分自身を見出し、傷を開示し、主体を変化させていくのである。
みさきも仕事という理由で家福のドライバーになるのだが、そこで母の死について語らざるを得なくなる。さらに故郷に戻るのも家福の依頼であるからだ。だがみさきもまたそれらの出来事を通して、母を追悼することができ、主体を取り戻していくのである。

このことはサーブのハンドルを握る主体の変化とも共鳴し、より重層的に描かれている。家福ははじめ自分自身でハンドルを握っている。そのことは主体性を固持しているように思える。しかしハンドルをみさきに渡すことで、主体性も手放す。だがそれが家福の主体に上述のような思わぬ変化を与えるのである。そして最後、みさきは家福からサーブを譲渡され、自分の車を自分がハンドルを握ってドライブするのである。なおみさきから家福にサーブが譲られたとの解釈は、監督の舞台挨拶の発言から可能となっている。

次にこのおもしろさを根源的に探れば、「演じること」とも密接に関わっている。つまり、主体が〈出来事〉を通して、主体を変化させる、この〈出来事〉に「演じること」も挿入される。

「演じること」については、原作でも言及されている。それは、演じることで、別の人格になること。そして元の人格に戻ること。しかしそれは前とは少しだけ立ち位置が変わる(p.46)、とういうことである。さらに、真剣に演ずることは別の人格と元の人格の境目が分からなくなる(p.48)、とも述べている。〈私〉が、〈他者〉を演じる。しかしその〈他者〉は演じている以上、〈私〉から出発する〈他者〉である。そして演じているうちに、〈私〉と〈他者〉の区別がつかなくなる。すると演じた後〈他者〉を内包した〈私〉が立ち現れる。その〈私〉は元の〈私〉ではなくなる。そんなことを言っている気がする。新たな〈私〉を生起する「演じること」。まさに「演じる」という〈出来事〉を通して、〈私〉を開いていくのである。

上述のことを家福に沿って考えてみる。音の不倫に傷ついたことを見て見ぬふりをした家福は、ワーニャ叔父さんを演じる。傷ついたことをみないことにする家福は、気が狂いそうになっても生きていこうとするワーニャ叔父さんを演じる。真剣に演じることで、ワーニャ叔父さんのセリフが家福の生身に到来し、また家福の心情がワーニャ叔父さんに反映される。そしてワーニャ叔父さんを演じた家福は、元の家福ではなくなってしまうのである。だがそれは否定的ではなく、傷から回復できた家福なのである。
このような「演じること」で〈私〉が変化していくことは、家福だけでなく、「ワーニャ叔父さん」の劇中劇に参加する登場人物にも起こりうる。それを劇中劇をつくる過程で映しているのである。

寄り道をすれば、「演じること」と区別することがらに「振りをすること」が挙げられるだろう。
「演じること」は、〈私〉が〈他者〉に徹底的に向き合い、〈私〉の位置を変えることである。しかし「振りをすること」は〈私〉が私自身に向き合うこともせず、〈他者〉に同化すること。いや私に都合のよい〈他者〉を仮構し、埋もれることである。これは音の不倫を目撃した家福、ワーニャ叔父さんを演じる前の家福である。傷ついたことに向き合えなかった家福は、「平然とする私」という〈他者〉をつくりだし埋もれる。それは逃避であり、疎外であり、正しくないのである。
脱線したが、もう少し「演じること」を考えてみる。

「演じること」を徹底的に考えると「言葉」とは何かという問いが立ち上がってくるように思える。
パンフレットによると監督が一番心に残ったのは「高槻という人間の中にあるどこか深い特別な場所から、それらの言葉は浮かび出てきたようだった。ほんの僅かかなあいだかもしれないが、その隠された扉が開いたのだ。彼の言葉は曇りのない、心からものとして響いた。少なくともそれが演技でないことは明らかだった。」(p.61)という部分だそうだ。「演じること」を徹底すると、演技ではないとされる言葉が発せられる。そしてその言葉はその人の深い部分から浮かびあがってくる。ではこの「言葉」とは何か。「言葉」の性質を考えてみる。
言葉は〈私〉と〈他者〉のコミュニケーション手段と考えられる。そのように考える場合、言葉の意味が相互に分かっており〈私〉と〈他者〉が対称性を帯びていることが前提である。しかし本作をみれば分かる。日本語や韓国語、英語、手話と多言語で展開されることによって言葉の意味が相互に分かっている状況や対称性は前提でもなんでもないことを。それが象徴的なのは、高槻とジャニス・チャンのオーディションのシーンである。高槻とチャンは、お互いの言語が分からないまま演じる。その状態での演技は嚙み合わず、最後には高槻がチャンに「暴力」を振るってしまい終わるのである。それは二人が分かりあうことができない非対称的な関係であることも暴く。しかしこれは高槻の無謀な演技が帰結させた結果ではない。そもそも言葉はコミュニケーション手段ではないからこのような事態が起こるのである。では何か。レヴィナスを論じた熊野(2012)の言葉を借りれば、「ことばとはまず、声じたいが聞きとどけられることへの呼びかけであり、祈りなのだ」(p.88)。つまり祈りなのである。このように言葉を捉えると言葉と他者の関係が転倒する。私と他者がいて言葉を交わすのではなく、私が言葉を発し、届くよう祈るとき、他者が現前するのである。

祈りとしての言葉は脆く、儚い。なぜなら私が言葉を発しても他者が現前するとは限らないからだ。そしてこのような祈りの言葉を発し、演じるとき失敗することが多い。それは最初の高槻とチャンのセッションの様子で明らかである。ではどうするか。徹底的な本読みである。

本読みを反復させ、〈私〉の言葉を、抑揚のない言葉それ自体の言葉で、〈私〉に受肉させる。祈りの〈他者〉の言葉を〈私〉に受肉させる。そして〈私〉の肉体を構築させるのである。
この作業を通して行われる演技は〈私〉の肉体から発せられ、また〈私〉自身の深い特別な場所から言葉が発せられるのではないだろうか。そして〈他者〉を「振り」ではなく、「演じること」を可能とさせるのではないだろうか。さらにこのような「演じること」は、奇跡のショットを立ち現わせる。まさにチャンとユナのエチュードの場で起こったような。それを映画にすること、これが監督の考えていることではないだろうか。そしてこのような考えに至っているから監督は本作をつくれると確信したのではないかと思われる。

〈私〉が「言葉」を徹底的に受肉し、〈他者〉を「演じること」。その過程で〈私〉が「正しく傷つくこと」に巻き込まれてしまう。本作のラストである。
家福は、「ワーニャ叔父さん」の言葉を徹底的に受肉し、ワーニャ叔父さんを演じる。その過程で、家福はワーニャ伯父さんに自分の肉体を、その身に起こった出来事を差し出す。つまり音の不倫の出来事を、その不倫について見て見ぬ振りをした自分自身をである。これはまさに自分の傷口を開く行為である。主体的にはやりたくないはずなのに、巻き込まれてしまうのである。これが「傷つくこと」である。では「正しく」とはなにか。

家福は傷つきながらも「ワーニャ伯父さん」の言葉を受肉しようとする。気が狂いそうでも生きていこうとするワーニャ叔父さんの言葉が家福に取り込まれる。すると自分が辛かったこと、音に会いたいこと、家福が見て見ぬ振りをした〈私〉が立ち現れる。向き合える。まるで傷口を回復させるように。このように傷つきながらも回復に向かうことそれが「正しく傷つくこと」なのである。

「正しく傷つく」ことは簡単な作業ではない。誰しも傷つくことは避けたいはずだ。だが、家福のように避けるならば、〈私〉は〈私〉自身から遠ざかる。〈他者〉にも出会えない。「振り」から逃れられない。だから痛みを伴ってでも〈私〉の肉体を裂き、〈他者〉を迎え入れ、「正しく傷つくこと」。そして「演じること」。そうすれば〈私〉の位置はずれ、開かれていくのである。

以上のことを本作を通して、私は解釈した。私が私を開くために、正しく傷つかなくてはいけない。

このように私に引き付けてしまうのも理由がある。それは広島が登場することとみさきを自分に投影するためである。
私は今、広島にいる。それもみさきのように。身寄りが全くいない、23歳として。
このように考えることも、ラストのシーンが、巧みだからかもしれない。ラストシーンでは、みさきがマスクをして韓国のスーパーマーケットで買い物をする。そしてみさきが家福から譲られたサーブを運転する。マスクをすることで、新型コロナウイルスの災禍にいる現在に物語が結び付く。
だからこそ本作の言葉は私に強く響くのである。

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まぬままおま

4.5それぞれの旅、それぞれの物語

2021年8月28日
iPhoneアプリから投稿

 映画を観ることは、小さな旅に出るようなものだ。濱口監督の作品は、果てしない旅。観終えたとき、帰り着いたような、まだ続いているような、不思議な感覚に襲われる。本作もきっと…と、おそろしくも心躍る想いで暗闇に身を沈めた。
 いきなり冒頭から引き込まれる。不穏な物語を語る主人公の妻・音の顔は、逆光で翳っており、表情が全く読み取れない。顔を失ったようなルネ・マグリットの肖像画を思わせる。そこには生気がなく、空虚が広がっている。
 そんな彼女を突然失った演出家の主人公・家福は、演劇祭に招かれ広島を訪れる。(作品では特に触れられないが、瀬戸内海は源平の戦いの舞台でもある。娘と妻と死の影を引きずった家福が、たどり着く場所に相応しく感じた。)そして彼の元に、様々な言語を操る多様な年代の俳優たちが集まってくる。「親密さ」や「ハッピーアワー」同様、演劇を作り上げていくワークショップやその舞台が、主人公を含めた登場人物たちの物語と絡み合い、響き合う。これは絶対に面白くなる、とぞくぞくした。
 淡々とした台本の読み合わせ、家福が愛車の中で聴く妻が吹き込んだセリフの練習テープの繰り返しの中で、少しずつ奇妙な感覚に襲われていく。多言語の芝居は、自分のセリフはもちろん、相手のセリフや全体を把握していなければならない。相手が話し終えたことを合図に喋り始めるのでは、タイミングにズレが生じる。分からない言語でのやり取りだからこそ、言葉を超えた、息遣いや気配にさえ感覚を研ぎ澄ます姿勢が求められる。では、言葉が分かる同士はどうなのか。家福は、死んだ妻とあうんの呼吸で言葉を交わし続けるが、心は満たされない。
 そんな中で異彩を放つのが、家福が主役に抜擢する若い俳優・高槻だ。妻の浮気相手(のひとり)だった彼は、怯むことなく家福に接近してくる。トラブルを重ねる彼を、家福は「自己コントロールが出来ないのは、社会人失格だ」と断じる。結局高槻は、いとも簡単に大きな事件を起こし、舞台を去っていくのだが、その抑制した姿は圧巻だった。彼が単なる血気盛んな若者ではない、という凄みを残す。家福と高槻は、表裏一体の関係にあり、だからこそ互いを意識し、引き付け合ったのではないだろうか。
 感情をほとばしらせる若い俳優との別れののち、家福は寡黙なドライバー・みさきと長い北への旅に出る。死の影を引きずった2人が徐々に距離を縮めていくくだりは、言うまでもなく素晴らしい。2人の姿は、声を失ったダンサー・ユナが、家福演じる「ワーニャ伯父さん」に手話で語りかける終盤になだれ込み、深い感慨を残す。
 言葉の限界、ことばの豊かさ。話したり書いたりするものが全てではなく、それはことばの力のごく一部、と改めて気付かされた。様々な語りに耳をすませ、目を凝らし、イメージを膨らませる。期待を超える、至福の3時間だった。

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cma

4.5多言語の読み合わせで物語が少しずつ動いていくワークショップ

2022年3月30日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

約3時間ある映画ですが、冒頭から引きこまれて楽しめました。ふだん邦画を見ない方にもお勧めできます。
西島秀俊氏演じる主人公が広島の国際演劇祭に行くまでの前段、演劇祭でのワークショップ、演劇祭で出会った運転手みさき(三浦透子)との旅、の大きく3つに分けられて、中盤のワークショップ部分が特に面白かったです。手話をふくめた多言語で、チェーホフの戯曲の読み合わせが淡々と続くなかで少しずつ物語が動いていくのにドキドキさせられました。

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五所光太郎(アニメハック編集部)

4.52020年代を代表する、“事件”ともいえる1作

2022年3月30日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD、試写会、映画館

公開前、公開直後、そしてアカデミー賞授賞式を終えたこのタイミングで改めて鑑賞。
同時代を生きることに幸せを感じる映画人は数多くいるが、「ドライブ・マイ・カー」もまたその1つ。
濱口竜介という映像作家の緻密さを見事に理解して体現してみせた、西島秀俊をはじめとする俳優陣の芝居もまた見事というほかない。
この後、どんな光景を見せてくれるのか、並走を続けたいと観る者に思わせることができる1作ではないだろうか。

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大塚史貴