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子供の頃から座頭市シリーズはテレビでいやというほど見てきた。1970年代の時代劇といえば勧善懲悪――悪人が悪事を働いているところへ正義の味方が現れ、バッサリ斬る。そんな痛快アクションが定番だった。だから座頭市も、原作からしてそういうものだろうと思い込んでいた。だが初めてこの映画『座頭市物語』を観たとき、その内容に驚かされた。
まず、座頭市は正義の味方ではなく、はぐれヤクザのように描かれている。盲目であるがゆえに軽んじられ、時にはたかられる。だからこそ、生き残るために強くなければならず、その強さが人斬りを呼び、ヤクザの抗争に巻き込まれていく。そのリアルさと哀しみが全編を覆っているのだ。さらに、盲目でありながらも卓越した聴覚で敵を斬る。その力はほとんど超能力めいているが、映画ではすべてがリアルに描かれているため、不思議とその「超能力」にもリアリティが宿り、むしろ不気味さすら漂わせている。
その不気味さを最もよく示しているのが、平手との魚捕りのシーンだ。2人はすでに死闘を避けられぬ運命を感じながらも、どこか打ち解けている。だが平手は重い病を抱えており、それを座頭市に知られたくない。咳を必死に抑え込む彼の姿に、座頭市が気づいているのかいないのか――平手には判然としない。その曖昧さが画面全体を不気味にし、この映画の独自性を高めている。
日本映画は初期から無数のチャンバラを作ってきたが、実際に世界的に通用するほど成功した作品は少ない。黒澤明の『用心棒』(1961)がその嚆矢であり、斬新なドライさを持っていた。『座頭市物語』(1962)はその翌年に作られ、逆に人情の線で成功を収めた。この二作以後、それを超えるヒーロー時代劇がほとんど生まれなかったのは実に不思議である。
『用心棒』はシリーズ化されなかったが、『座頭市』は国民的人気を得てシリーズ化され、テレビを通じて庶民の心に深く刻まれることになった。