ジョン・フォード

米メイン州の港町出身で、両親はアイルランド系移民。11人きょうだいの10人目に生まれ、映画俳優から監督の道に進んだ13歳年上の兄フランシスを追ってハリウッドに上京する。ジャック・フォードの名で兄の映画に出演し、米映画黎明期のD・W・グリフィス監督作「国民の創生」(1915)にも端役で出演。
10代の若さで無声映画の製作に乗り出し、西部劇「アイアン・ホース」(24)で長編映画監督デビュー。「男の敵」(35)でアカデミー監督賞を初受賞し、作品賞にもノミネートされた。「周遊する蒸気船」(35)ではコメディにも挑戦。
「駅馬車」(39)で再びアカデミー監督賞にノミネートされ、「怒りの葡萄」(39)、「わが谷は緑なりき」(41)、「静かなる男」(52)で史上最多となる4回の監督賞を受賞。一方、1930年代には海軍予備役となり、太平洋戦争時には記録映像班としてプロパガンダ映画「ミッドウェイ海戦」(42)と「真珠湾攻撃」(43)を手がけ、アカデミードキュメンタリー賞を受賞した。
戦争が終結して復員した後は「荒野の決闘」(46)や「アパッチ砦」(48)、「黄色いリボン」(49)、「リオ・グランデの砦」(50)、「捜索者」(56)、「騎兵隊」(59)、「リバティ・バランスを射った男」(62)、「荒野の女たち」(65)といった西部劇の製作に集中した。1973年、胃がんのため死去。同年、リチャード・ニクソン大統領から大統領自由勲章を受章。名実ともにハリウッド黄金時代を築いた伝説的功労者となった。