仁義なき戦い 完結篇
劇場公開日:1974年6月29日
解説
「仁義なき戦い」シリーズ第5部・完結篇。警察の“頂上作戦”で一応終息したかにみえた広島やくざ抗争は、服役していた組長・幹部などの出所をきっかけに、組織の再編成にともなう流血の縄張り争いを再然させた。脚本は「ザ・カラテ」の高田宏治、監督は「仁義なき戦い 頂上作戦」の深作欣二、撮影は「殺人拳・2」の吉田貞次がそれぞれ担当。
1974年製作/98分/日本
配給:東映
劇場公開日:1974年6月29日
ストーリー
警察の“頂上作戦”で幹部連中が大量に検挙された後、大友組が勢力を回復、広島やくざ組織は、山守組、打本会、大友組の三巴の対立となっていた。だが、彼らは警察の目を欺くために山守義雄を会長に、傘下の武田組、江田組、早川組(元打本会)、大友紙、呉の槙原組、さらに徳山、福山など近郊都市の組織までも大同団結させて、政治結社「天政会」を発足させた。昭和41年春。天政会々長の二代目を継いだ武田明は、警察の取締りに対処し、会の再建強化を図るが、反主流派の大友、早川らの反発にあう。41年4月3日。天政会にすっかり抑えられていた呉の市岡組々長・市岡輝吉(広能昌三の兄弟分)は、天政会の混乱に乗じ、天政会参与・杉田佐吉を襲撃し射殺した。この事件で不穏な動きを察知した県警は、天政会壊滅のため、武田以下首脳を順次検挙する方針を打ち立てた。保釈の身であった武田は、再逮捕される前に先手を打ち、腹心の若頭・松村保を三代目候補に推薦した。しかし、この処遇を快く思わない大友、早川は激しく反発、松村殺害を企てるが未遂に終る。その頃、網走刑務所に服役中の広能昌三は、獄中ひそかに過去の抗争を記録した手記を綴っていた。刑務所を訪れた市岡は、大揺れの天政会の現状と、今こそ広能に広島をとるチャンスが到来したと告げた。43年秋。市岡は、かねてより親しかった早川英男を介して、大友勝利と兄弟分の盃を交し、広島進出の足掛りを掴み、松村組の縄張り内に組員を送り込み挑発。44年11月15日。遂に腹に据えかねた松村は、市岡を殺害、これを期して、政治結社としての天政会を解散させると同時に傘下各組をも解散、自分の直属にした。45年6月、武田が出所し再び会長に復帰。四ヵ月後に出所する広能を恐れていたのは、呉の槙原政吉だった。羽振りのいい槙原組に対し、広能組は先に殺された市岡輝吉の報復もできず肩身の狭い思いをしていた。45年6月30日。呉市繁華街で広能組組員・清元が槙原組々長を射殺。45年9月18日。広能昌三が七年振りに出所した。武田は直ちに広能に天政会との関係を円満に運ばせるべく説得、松村も秘かに広能と会い、武田引退の旨を知せると同時に、広能にも引退を迫った。この時、既に広能は引退を決意していた。45年11月18日。三代目就任の決まった松村が、その挨拶に江田省一を伴って関西を訪れる途中、反対派の襲撃を受け、江田は即死、松村は重傷を負った。45年11月24日。松村は重体のまま、県警の中止警告や市民の批判を無視して、予定通り襲名披露を強行した。一方、広能は若頭・氏家を伴い式に参列、松村に組員たちの進退を依頼した。広能組が天政会の傘下に入ったため、槙原組は浮き上ってしまった。46年1月16日。追いつめられた組長なき槙原組々員は、広能組々員を襲撃、一人は即死、一人は重傷を負った。すでに、広能昌三の手の届かぬところで若者たちは流血を繰り返していた……。
スタッフ・キャスト
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〈呉・広能組〉広能昌三菅原文太
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〈呉・広能組〉氏家厚司伊吹吾郎
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〈呉・広能組〉水本登野口貴史
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〈呉・広能組〉清元忠麦人
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〈呉・広能組〉佐伯明夫桜木健一
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〈呉・市岡組〉市岡輝吉松方弘樹
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〈呉・市岡組〉神戸泰男唐沢民賢
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〈呉・市岡組〉完方良三白川浩三郎
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〈広島・武田組〉武田明小林旭
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〈広島・武田組〉松村保北大路欣也
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〈広島・武田組〉織田英士西田良
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〈広島・武田組〉藤村勇吉曽根晴美
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〈広島・武田組〉丸山勝成瀬正孝
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〈広島・大友組〉大友勝利宍戸錠
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〈広島・大友組〉間野豊明山田吾一
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〈広島・大友組〉金沢茂久誠直也
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〈広島・早川組〉早川英男織本順吉
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〈広島・早川組〉久保田市松高並功
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〈広島・早川組〉加賀亮助八名信夫
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〈広島・江田組〉江田省一山城新伍
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〈広島・江田組〉金田守木谷邦臣
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〈呉・愼原組〉愼原政吉田中邦衛
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〈呉・愼原組〉鶴達男国一太郎
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〈呉・愼原組〉守屋等川谷拓三
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山守義雄金子信雄
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常岡元次岩尾正隆
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杉田佐吉鈴木康弘
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河野幸二郎天津敏
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大久保憲一内田朝雄
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かおる野川由美子
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寿美子藤浩子
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村田静子中原早苗
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光子橘麻紀
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江里賀川雪絵