天空の蜂のレビュー・感想・評価
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ストーリーがしっかり
ストーリーがしっかりしていて、期待以上の出来に大満足。ここまでの作品が作れるのはすごいけど、けっこう前の原作ながら、設定に古さを感じさせない脚本も良いですね。
邦画の間違い完全網羅
入り口の母親から無理だったけれど、原作も読んでないけれども、ニュース報道もイラッとするけれど…するけれどするけれど、な作品。
要所要所は原作の良さも含めて良いのでしょうけれどもね。
近年まれに見る、原作的にも映画的にも、なんだかなーな作品。あ、原作が悪いではなく、映画として調理出来てないなぁ、と思ってしまった次第です。
けれど、だらけの珍品です(笑)
とても面白いです。
とても良かったです。
前半は子供救出で後半はヘリを止める。
前半はとても緊張感があってハラハラして面白かったが後半すこしグダッていた。でもヘリを止めるラストシーンは圧巻でした。
CGが少しショボいかな。
原発について何か訴えかけているようでなかなか面白かった。
三島の子供の話は考えさせられます。
問題提起
江原さんの訴える言葉がとても重くのしかかる映画でした。
国は原発を財源にするため、危険とわかっていながらも決して止めることはないのです。
電力を賄うためなら、国民の命も惜しくはないのだとしたら、私たちはあくまでエネルギーを生み出すための駒でしかないのでしょうか。
東日本大震災で大打撃を受けた福島第一原発も、未だに放射線が漏れ続けている現状ですが、「喉元を過ぎれば暑さを忘れ」、国の原子炉は稼働し続けています。
ドイツは脱原発を発表したのに、甚大な被害を受けた日本は現状維持。
全てに蓋をした政府が信じられないですね…!
大作ってかんじ。これを2時間でまとめるのはムリがあるような気がする...
大作ってかんじ。これを2時間でまとめるのはムリがあるような気がする。
後半の動機が判明するあたりをもうちょっと丁寧に描いてくれないと、頭の悪いボクはついていけない。
反原発ということで見に行ったけど、それを通して日本人全体が見捨てた命、無関心な命を描こうとしたということでいいんかな。
この世のハリボテ感の中で生きていく
朝映画。
この世界や人生はとても綺麗に見える時があるけど、自分たちが目を背けていることから、逃げてはいけない。
東京の華やかな高層ビルとその下のボロボロの街並みを見た時の感覚に似ている。
ハリボテ感。でも、その中で実感を持って生きていく。
●刺されてはじめて蜂の恐ろしさを知る。
原作は‘95なんだね。’11以降かと思ってた。先見の明があるというか。
当時はまだタブーだったんじゃないだろか。清志郎が東芝つついたのが’88。チェルノブイリが’86か。
‘95は阪神・淡路大震災やら、地下鉄サリン事件があった年だね。まあ時代検証はおいといて…
臨場感がスゴイ。劇場で観たかった。ただ、ちょっと欲張りすぎな感じ。
ひとつひとつ切り取ると、迫力あるし考えさせられるのだけれど。
’刺されてはじめて蜂の恐ろしさを知る’ってのはその通り。
あんな痛ましい事故があったのに、我々はもう忘れてる。
堤
江口洋介は全然悪くないのだけれど、出てきた瞬間に萎える稀有な俳優。織田裕二では、始めから見る気が萎えるから見ないから、やっぱり江口は特殊。よくわからないのだけれど、ミサイルで粉砕って選択肢なかったのかしら。動機も薄過ぎるし、とくに綾野が元自衛官の元原発ジプシーなのは分かったんだけどなぜ凶行に走ったのかよく分からず。
預言書
今現在、Tという大企業がアップアップの状況に陥っている。原因はアメリカにおける原子力投資が裏目に出た事に因る。記憶にも新しい福島の原発事故といい、原子力に対する社会の信頼は、20年前のそれとは明らかに悪い意味で違ってきている。
原作者東野圭吾はこの作品を20年前に出稿している。当時世間では原子力産業に対し、否定的意見はあったものの「もんじゅ」は1994年に臨界到達し、どちらかといえば追い風に乗っていた中、彼は原子力の信頼が落ちた今の現実を予見していたのだろうか。まるで預言書のようなクーデターの話。
しかし、日本政府の原子力産業へのアンチテーゼというより、某企業への皮肉が強い気もする。
ストーリーの重厚さに比べて演出は過剰、蛇足のオンパレード。
レポーターの説明はマジでウザい。緊迫する場面でのBGM垂れ流しもウザい。
ストーリーも後半はいいけど、前半はうーんて感じ。
あと1995年当時としては役者陣が頑張ってない。
あんな昔にあごひげ生やしているサラリーマンいませんよ本木さん。
仲間由紀恵も20年前の女性には見えないしなあ。
携帯電話もそんなに普及してたかなあ・・・。
原作は間違いなく面白そうだと思える作品でした。
原作も読んでみてください。別の作品として。
あれ?なんか原作を読んだ感じと、違う。
原作の完全なトレースで、めちゃくちゃ楽しめた「真夏の方程式」との違い、この違和感はなんだろう。なんか薄まっちゃった感じ。
堤監督?脚本の人?
科学、技術は進歩するもの、使うのは人間。
不思議だったので、 原作を再読し、疑問は氷解。ちなみに映画の評価は上段、原作の評価は下段です。
<映画の評価>
••3••好/•••4•凄/••3••涙/•••4•固ゆで
••3••社会派/•2•••狂信
総評:損はしてない/知り合いには:黙っとく
俺の満足度:50点
<原作の評価>
••••5好/•••4•凄/•••4•涙/••••5固ゆで
••••5社会派/••3••狂信
総評:また読む/知り合いには:勧める
俺の満足度:100点
映画と原作(小説)は似たストーリーと設定だが、全く異なる作品でした。中心に置いたものを比較すると、映画は家族愛の回復、原作は犯人への理解と共感、(暗に匂わせる)日本人の義務。つまり両者はプロットだけ同じだが、全く異なるふたつの物語だったわけだ。
自分は、原作が持つ、ハードボイルドさ、犯人への理解と共感、日本人の義務にとても心酔し、「難しいだろうけれど、この冷たさをそのまま、映画化してほしいなあ」と、ずうっと希望していた。
そんな風に思っていた俺にすれば、本作は、とても残念。あくまで個人の見解ですが。自分は、後者(小説)に心酔したので、そっちの面の事前期待が高すぎてギャップがあり映画の評価が低い。そういう先入観なしで観ればちゃんと面白く観られますよ。
以下は、個人の見解としての放言です。
家族愛は、余計だったの一言に尽きる。結果的に原発について考えるチャンスが減った。この話に、"仕事にのめり込んで家族を顧みない" という点を要素のひとつにするのはあわないと思う。科学に対する東野さんの考え方と違う。別の作品だ。
原作の通りに描いた映画も是非見てみたい。原作の持つ、ひんやりした感じの主となるストーリーの映像化と、緊迫する救出劇、さらに原子炉へのヘリ落下というエンタテインメント、それをスクリーンで、大音量で観たかった。そして、その背後で伝えようとされている、原発に対する日本人の考え方の矛盾、都合のよさを、自分の中で、しっかり考えてみたかった。
自分が考えている、東野圭吾の最高傑作なだけに。
ちなみに原作では、三島は自信を持って、安全基準をクリアする原発を設計してきた技術者。しかし、国民は「不安だ」を繰り返す。実際に事故があれば、その安全性が、誰の目にも明らかな形で証明される、と考えている。
雑賀は、原発作業者だった兄弟を、雑で過酷な作業の結果の被曝で失っている。直接雇用していた会社はもとより、原発を、電力会社を、政府を恨んでいる。さらに、電気は便利に使うが、そういう事実には目も向けない国民も。
興味があれば、ぜひ、原作を読んでみてください。原作は、上記両者の対比をみてもわかるように、原発反対でも賛成でもない。ただ、科学技術と安全について、こんな風に考えてみる筋道があるよ、ということを指南してくれる本だと思う。そこから享受するメリット、それがあるためのリスク、その両方をある程度理解して、先のことを考える、全ての国民はそうあるべきだというのが、作者の声だろう。
加えて、原発作業員の待遇改善というか、抜本的に見直さなければならない点は、訴えたかったのだろう。
2019/11/19追記
以下の内容は、東日本大震災による未曾有の大惨事に、心から黙祷している者が記しています。その中で、原発事故によって、多大な被害を被られた方、今でも故郷を離れて暮らさざるを得ない皆様、本当に大変かと思います。以下の文章で、万が一、被害者の方の心傷に触ってしまうようなことがあってしまったら本当にすみません。
「自分がやった仕事(の安全性)を信じて、本気で原発にヘリを落とそうとする技術者三島と、原発作業で兄弟を殺された復讐を果たしたい元自衛隊員雑賀。
まず、犯罪理由が正反対のこの二人が手を組んで「原発にヘリを落とそう」という犯罪を実行しているという設定への驚き。
雑賀は、ヘリを落として大惨事とすることを心から願っており、一方の三島は、ヘリを落としてもビクともしない原発を心から信じている。
手段は一致しているが、目的は正反対という組み合わせが成立していることに身震いした。
お互いに薄々それを感じながらも、見事な連携で手段を実行していく「狂人である二人」と、阻止しようと奮闘する湯原、室伏に代表される「普通の人々」の争い。
普通に考えれば、普通の人々の側に立ち、狂人たちを追い詰める流れを堪能するものだろう。
しかし、この話では、狂人二人の背景がわかればわかるほど、いつの間にか、狂人側に感情移入してしまっている。
そこが、この原作の限りなくソリッドなところで、自分がほとほと感心したところだ。
原作を読んで感じたこの思いに対し、映画が描こうとしたのは普通の人々の活躍なので、自分の評価は低いわけです。
もしも実際にヘリが原発の上に落ちていたら、どうなっていたのだろうか。雑賀が夢見たように大惨事だったのか、それとも三島が信じたように原発は耐え、そうはならなかったのか。
この原作で、作者が読者に投げかけた問いは、二つあると、俺には感じられました。
ひとつは、当時、ナトリウム漏れ、配管のヒビといったニュースがあまりにも大きく取り上げられる中で、「放射能漏れにつながる事故を防げているか、という点を真剣に議論すべきではないのか、起こる事故全てを致命的なように受け取ることは、本当に明日につながるのか」
そしてもう一つは、「やむなしと目をつぶっているかのように見えるが、それを維持するために必要な末端の原発作業員の健康問題をどうすればなくせるかを、真剣に議論すべきではないのか? 維持のための作業を安全かつ安価に行えるための技術開発も、原発の技術開発と同じ重みで進めるべきではないのか」
三島と雑賀がそれぞれ発しているこの二つの悲痛な叫び、と自分は捉えた。
日本人は、この二つを、みんなが、真剣に議論すべきではないか。
少なくともこの時、CO2削減のために、原子力は完成せねばならない技術だったのだから。
東日本大震災によって、「電源を全て失った原発は、大惨事を引き起こす」と証明されたので、作者が投げかけた問いは未来永劫解かれることはなくなったのでしょうが、
原発のかわりに、火力発電でどんどん石油を燃やす現在が、よいとも思えない。原発を止めるペースで再生可能エネルギーを(高くても)採用するか、あの時のような辛い省エネに国民と国全体で取り組むべきではないのか。
もちろん、やだけど。でも、失敗したから原発は止める、はい、おしまい、という話ではないことは確かだ。
ある大学教授が言った「コントロールできない(段階の)技術は、技術とは言えないのだろうな」という言葉が全てか。人類には、原子力は早すぎたのだろうか?
ならば、(そうでなくても)その出力すらコントロールしようともしない核兵器は、絶対に禁止されるべきだろう。「激しく燃やせば核兵器、ゆっくり燃やせれば原発」という後者への取り組みに失敗したのであれば。
三島談「いってみれば国全体が、原発という飛行機に乗っているようなものだ。搭乗券を買った覚えなんか、誰もないのにさ。(略)一部の反対派を除いて殆どの人間は無言で座席に座っているだけだ」(p.391)
当時、本当に議論すべきことだったんだなあ。俺も本作を読んだのに、相変わらず無言で座席に座っているだけだった…
災害は圧倒的で、考える機会も一緒に押し流していったように思います。
原作も含めて、上のような受け取り方をされていないように感じたので、つい熱くなってしまいました。この場にそぐわなかったら、ごめんなさい。
2023/5/3 追記
俺は、原作では、①「原発を支える労働者のひどい待遇への怒り」と、②「要求される安全絶対を実現しているのに、誰にも信じてもらえない技術者の怒り」という二つの怒りが、思いがけず交わり合うところに、この作品のスタート時点での凄さがあると考えた。
この二つは、原作当時の「日本人が原発について考えるべきこと」だったはず。① は、自分たちの電力のために、他人が放射能まみれで働くことを見て見ぬふりをしてよいのかであり、② は、どこまでやれば安全だと考えるか、だ。
そして、② に関して、原作者の東野さん(圭吾)は、「大型ヘリが落下しても、原発は無事だろう」と考えていたのではないか。
技術者が「大型ヘリを落とすぞ」と脅迫するということは、技術者には「大型ヘリが落ちても、びくともしない原発」という自負があり、それなのに繰り返し「危険、危険」と繰り返すばかりの世間に、「これくらい大丈夫なんだ。俺たちはここまでやってきたんだ」と見せつけたいという思いが、歪んだ形で露出してしまったのだろう。
しかし原作でも映画でも、(技術者の願い空しく)大型ヘリは原発を外れて落下する。ここは「どんな事情があろうと、悪事を行なった者は、償わねばならない」という東野作品の思想が貫かれている。
② に関しては、東日本大震災での全電源喪失下での致命的な事故により「原発の安全性」はさらに一つ上のレベルとなり、この原作で語られた点の検証は最重要ではなくなった。それでも俺は、② を忘れずにいたい。技術者は、望まれるものを作るので、望んだものか足りないのかを合理的に答える必要はあるはずだ(技術者が何をやっても、まだまだ足りないと言うのではなく)と。
1995年に
原作が書かれていたのに驚いた。
映画のラストに出てきた、3・11で実際に原発事故が起きた現代にはもはや、小説や映画の話しではなく、いつ起きても全然おかしくない。
(子供は蜂に刺さされて蜂の怖さを知る)
と、あったが、現代の国民の中で、すでに蜂に刺さされたのを自覚している人は何人いるのだろう?
最近手に入れた原作を読むのが楽しみ。
とっても面白かった。
当然★4つ以上はついているだろう思ったけどそじゃなかったのは、映画の出来というより原発云々という所にひっかかってるのだろうか。私は原発云々も含めてとてもとても面白かった。考えさせられた。考えさせられて良かった。いろいろつらい現実を少し忘れて尚且つ見た後元気になった。堤監督ってこんなにいいのねって思った。リアリティという意味で「シン・ゴジラ」みたいな感じで見たいなと思ったが途中でそんなのはふっとんだ。
とにかく。
今年見た映画で3本の指に入る充実感だった。
映画のジャンルとしては、パニックサスペンス映画だと思いますが、パニックだかサスペンスだかわかないところが難。
原作は読んでいませんが、東北の大震災以後に書かれたものだと思っていました。
1995年に書かれていたとは、びっくり。
誰も言わなかったし、言えなかったけれど、原発の危険性はわかっていたことで、それを取り上げた原作者、東野さんは先見の明があるし、勇気がある。
当時はたぶんそんなことありえない。小説上の作り話だと思われていたのだろうと思います。
ラストで東日本大震災の原発事故と絡ませるところがよかったです。
映画のジャンルとしては、パニックサスペンス映画だと思いますが、パニックだかサスペンスだかわかないところが難。
小説としては、これでいいのかもしれませんが、映画にするなら、もっとパニック度を上げれば面白かった。
これを見ていて思うのは、映画として面白いのはあるのだけれど、同時に原発問題も考えること。
日本に原発は54基もあって、『天空の蜂』みたいな人か国が実際に存在し、場所にもよるけどそのうち2基か3基壊されれば、日本はおしまい。
日本国民の住むところはなくなる。
そんなことはありえない大丈夫だと、言う人が多いだろうけど、そのありえないことが、多少なりとも起きているし、実際に起きたら取返しがつかない。
そうならないし、なるわけないので、大丈夫と言った人は責任とらないし、刑務所にも入らない。
エネルギーは、自然エネルギーでなんとかなりそうだし、存在意義は核兵器の製造技術保全ということしかない。
国会で戦争法案が通しているけれど、戦争なんてできるわけない。
アメリカにくっついて行って、遠くで戦争するなど絶対無理。
投げられない手榴弾を54発ぶら下げた小人が、巨人と撃ち合いをするようなもの。
ちょっとでも手榴弾にかすれば大怪我、もしくは即死。
抑止力強化というのなら、せめて手榴弾を捨てる(原発廃止)、もしくは投げられる(核武装)してからにしてほしいです。
他国が自国の兵器を使うことなく、テロリストを使って間接的に日本の原発を破壊したら、アメリカは助けてくれるのかな・・・?
原発問題を提起・・
東野圭吾の小説が原作。小説は読んだ。20年程前に原発問題を提起していて驚きだ。映画はまぁ面白かった。江口洋介や仲間由紀恵が出ていて新鮮さは無かったが邦画もここまで来たかと・・CG技術は素晴らしかった。あんな形のヘリが空を飛ぶのかな?という疑問はあったが(笑)2015年の邦画。公開と同時に観た。
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