夜に生きる : 映画評論・批評
2017年5月16日更新
2017年5月20日より丸の内ピカデリー、新宿ピカデリーほかにてロードショー
おかずは詰め込みすぎだが、背景描写に捨てがたい味が
ベン・アフレックの監督第1作は、デニス・ルヘイン原作の「ゴーン・ベイビー・ゴーン」(07)だった。ふたりはボストンでつながり、犯罪を扱ったフィクションでつながる。「夜に生きる」は、両者が10年ぶりに組んだ映画だ。ルヘインの書いた〈ジョー・コフリン3部作〉の第2部にアフレックが眼をつけ、自身の主演で映画化を実現した。
結論からいうと、映画はおかずがぎっしりの弁当のようになった。テレビのミニシリーズにすべきではなかったかと思えるほど、多種多彩な素材が詰め込まれている。では水ぶくれかというと、けっしてそうではない。奇妙な味が随所で感じられ、むしろ身びいきしたくなる。話の整合性や抜け目のないプロットにこだわる人は不平を唱えるかもしれないが、背景となった時代や土地の細部に惹かれる人ならきっと楽しめるはずだ。
ジョー(ベン・アフレック)は、禁酒法時代のボストンでギャングになった。父親はボストン警察の幹部。当時のボストン暗黒街は、アイルランド系のホワイトとイタリア系のマソが勢力を二分していた。ジョーはホワイトの配下だったが、ボスの情婦エマ(シエナ・ミラー)と恋仲になり、命を狙われる。
そこまでが話の導入部だ。このあとは、フロリダ州タンパやキューバのハバナに舞台が移る。時代も、20年代中盤から、30年代の大恐慌時代へと移行していく。時間の経過がこれだけ長いと、背景の描き込みも当然増える。KKKが暗躍したり、ポルノや売春と結びつきはじめたハリウッドの闇がほのめかされたり、といった具合で、煩雑な印象はたしかに強くなる。
ただ、アフレックとしては、話をこぢんまりとまとめたくなかったのだろう。ボストンだけ、あるいはタンパだけに舞台を絞ればバランスは取りやすくなるのだが、「夜に生きる」は「ゴッドファーザー」に対するオマージュの側面を持つ。密度やスケールではあの名作に及ばないものの、混沌のうねりはよく炙り出されている。とくに、タンパのイーボー・シティ(移民が築いた繁華街)を描いた場面。私はここで何度か身を乗り出した。
(芝山幹郎)