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よく出来た映画だと思う。
『ふたりはプリキュア』シリーズ2作目(3作目?)の劇場版。
約50分という短さでありながら、無駄なく作り込まれた傑作。
今回の敵はサーロインという、ダークフォールの一人。自分をパーフェクトな存在と言ってはばからず、世界の時間を止めることで理想郷を作り出そうとする困った悪役。
このサーロインに対して、珍しく仲違いした咲と舞が応戦する形となる。
結末は少女向けらしく、全てが解決してハッピーエンド。咲と舞も仲直りして、平和が戻る展開。
よく出来ていると言ったのは、時間内にまとめた綺麗な流れもさることながら、
少女向け、また「プリキュア」らしさの流れを汲んだ、自分と他者、世界との関係性の描き方である。
サーロインは強く、自身も宣言するような「パーフェクトな存在」だ。
対して咲、舞は、プリキュアとして強くはあるけれども、人間、それもまだ中学生というお年頃。
そんな彼女たちが仲違いという重荷を課せられては、パーフェクトであるとはどう考えても言い難いだろう。
息の合わないコンビネーションを付け込まれ、一度は敗北するプリキュア。
お互いがお互いを信じられなくなる中で、時間停止のピンチが迫る。
この時の彼女達が紡ぎ出す、ひとりの少女としての弱さと葛藤の表現は見事だ。
相手のことは好き。だけれども、受け入れてもらえるか自信が無い。
この揺れ動きは、見ている人にも現実味を持って迫ることだろう。
さて、一方のサーロインといえば。
時間を完全に停止させることで、自身の理想郷を作り出そうとする。
言ってみれば、『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画と似ているかもしれない。
他者が存在しない世界。すなわち、「自分」の存在が全てな環境。
それは他者という比較対象がいない時点で、絶対的にパーフェクトにしか成り得ない。
それがこの映画でいえば、時間停止によって切り取られた世界なのだ。
しかし、お互いに気持ちをぶつけ合い、受け入れ、再起したプリキュアと、
時計の里の精霊たちによってサーロインは敗北する。
その際、彼は言うのだ。「自分よりもパーフェクトな存在だったというのか」と。
洋画『グッド・ウィル・ハンティング』では、このようなセリフがある。
「大切なのは、(夫婦)二人でパーフェクトなのかどうか」。
この個人的名言に沿って考えれば、プリキュアである咲と舞は確かに個人個人は不安定であるが、二人がそろえば、まさに「パーフェクト」だと言えるだろう。
そして、この「プリキュアはなぜ二人なのか?」という問いの答えこそが、他者の存在する世界で一人立ち向かうサーロイン、つまりはどこまでいってもパーフェクトには成り得ない悪役を倒す、という綺麗なストーリーラインに繋がるのであり、世界の平和は守られるのである。
同時に、時間とは、他者との交流に必要不可欠なモノであり、
冒頭のカラオケ大会のように残酷な顔をして時が過ぎることもあれば、
かけがえのない存在として花開かせる、優しい一面もある。
という概念的な結論さえも連れてくるのだ。
ここに花鳥風月を根底に置く、『ふたりはプリキュア スプラッシュ☆スター』のらしさに結びつく。
劇場版として相応しい物語の拡張性と、
少女マンガ的、プリキュアイズムとしての自己他者との関係性がピースをはめるが如く、合致する。
だからこの映画は素晴らしい出来なのだ。
もちろん、劇場版としての作画の高さ、動きの躍動感だけを見ても個人的評価は高い。
他人に拒否されるかもしれない、という現実的な考えより、少女向け作品らしい、
「自分の存在が他者に受け入れられる」ことを前面に押し出していることも、もしかしたら
気になるかもしれないが、この映画ではこれでいいと思う。
この映画をコミカライズした漫画も、最高に出来がいいと考えている。
つまりは、本当によくできた作品なのだ。