コラム:清水節のメディア・シンクタンク - 第13回
2015年8月5日更新
第13回:原爆投下後の広島をカラー撮影した映画キャメラマン三村明の軌跡
日に日に戦争の記憶が風化し、広島・長崎への原爆投下の日付を知らない20歳以上の日本人は約70%に及び、被爆者の平均年齢が初めて80歳を超えた、あれから70年目の夏。筆者は、BS放送局WOWOWのドキュメンタリー「ノンフィクションW」の終戦70年特別企画「撮影監督ハリー三村のヒロシマ ~カラーフィルムに残された復興への祈り~」[初回8月8日(土)13時/再放送8月10日(月)24時]を企画し、制作に関わらせて戴いた。
「ノンフィクションW」という番組は、映画をモチーフにしたものだけでも心に刻まれた回は枚挙にいとまがない。順不同でざっと挙げるならば――黒澤明「デルス・ウザーラ」シベリアでの苦闘、イデス・ヘッドの衣装デザイン哲学、谷垣健治「るろうに剣心」アクションの現場、「戦場のメリークリスマス」30年目の製作秘話、シド・ミードのデザインの源泉、高畑勲「かぐや姫の物語」2年半密着、円谷英二が最後に情熱を傾けたテレビ、チャップリンのNGフィルム、早坂文雄「七人の侍」幻の音楽テープ、「東京オリンピック」164人のキャメラマン秘話……。そんな番組の1ページを飾るべく企画したのが、映画キャメラマン三村明の生涯とその仕事である。
■夢の都ハリウッドから、地獄の業火で焼かれたヒロシマへ
被爆の惨禍を次世代へ伝えることが大きな課題になる今。当時を記録した映像の力は、ますます重要性を帯びている。被爆直後の映像は、そのほとんどがモノクローム。しかし原爆投下から半年後の廃墟や被爆患者の様子を、当時としては稀少なカラーフィルムで撮影した鮮烈な映像が残されている。写したのは、敵国への爆撃効果を検証するために編成された米軍の組織、アメリカ戦略爆撃調査団の撮影チームだ。その中に、1人の日本人映画キャメラマンがいた。“ハリー三村”の愛称で呼ばれた彼の本名は、三村明(1901~1985年)。
18歳で渡米した三村は、排日運動が激しい苦難の時代に、映画を通して日本の真の姿を伝えたいと志を立てた。努力と執念の果て、トーキー映画黎明期のハリウッドで名撮影監督の下、撮影助手として活躍したが、夢半ばにして帰国。日本映画界に招かれ、旧態依然としていた撮影をハリウッド仕込みの技法で大胆に改革していく。珠玉の時代劇「人情紙風船」(1937年)や戦時下の国策映画「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)など多くの名作を手掛け、「姿三四郎」(1943年)では黒澤明の監督デビューを支えた。従軍体験を経て敗戦を迎えた三村は、ハリウッド時代の友人の紹介でアメリカ戦略爆撃調査団に加わり、日本各地の爆撃の爪跡を撮影して回ることになる。夢の都ハリウッドから、地獄の業火で焼かれた街ヒロシマへ。日米の架け橋となった三村は、廃墟を記録したカラーフィルムにどんな思いを込めていたのか。それを検証するのが本番組のテーマだ。
■原爆投下から半年後の広島カラーフィルムがHD画質で甦る
われわれ取材班はLA郊外へ飛び、三村明の長男ケネス・ミムラを訪ねた。彼は、父が亡くなってから、遺された膨大な枚数の手記に出会った。その数、200字詰め原稿用紙で1753枚。かつて、この手記を基にして書籍「聖林からヒロシマへ 映画カメラマン・ハリー三村の人生」(晶文社/工藤美代子著)が出版されたことがあるが、その原典の筆致からは、まさに三村の息遣いが聞こえてくる。僕はまず、手記を読み込むことから取り掛かり、関係者や識者に話を伺って、多くの資料に当たった。さらに、ワシントンD.C.のアメリカ国立公文書館にアーカイブされている三村明撮影によるカラーフィルムを、本番組のためにHD画質で甦らせることにした。
今回インタビューに答えてくださったのは、次の方々だ。三村の撮影助手を務めた後、石原裕次郎や吉永小百合主演の日活映画のキャメラマンとして活躍した、日本映画撮影監督協会名誉会員・萩原泉。91歳になる萩原は、戦前の三村の作品群を観てキャメラマンを志し、「銀座化粧」(1951年)など8作品で三村に師事した。LAでは、「アメリカン・ジゴロ」(1980年)、「普通の人々」(1980年)、「MISHIMA」(1985年・未公開)などを代表作とし、今年アメリカ映画撮影監督協会から生涯功労賞を贈られ、映画技術史にも造詣の深い撮影監督ジョン・ベイリーが三村の在米時代や撮影技法について語った。ミシガン大学のマーク・ノーネス教授は、戦略爆撃調査団の目的や撮影されたフィルムの意義について言及し、ドキュメンタリー「ヒロシマナガサキ」(2007年)の中で三村撮影フィルムを引用したスティーブン・オカザキ監督は、その映像の衝撃を語る。また、日米の狭間で葛藤した三村の内面を、日本と北朝鮮の2つのアイデンティティをもつヤン・ヨンヒ監督が推察し、森達也監督は、ドキュメンタリー「311」で東日本大震災から2週間後の被災地を撮影した視点から語ってくれた。