コラム:芝山幹郎 娯楽映画 ロスト&ファウンド - 第2回
2014年5月20日更新
ああ面白かった、だけでもかまわないが、話の筋やスターの華やかさだけで映画を見た気になってしまうのは寂しい。よほど出来の悪い作り手は別にして、映画作家は、先人が残した豊かな遺産やさまざまなたくらみを、作品のなかにしっかり練り込もうとしている。
それを見逃すのは、本当にもったいない。よくできた娯楽映画は、知恵と工夫がぎっしり詰まった鉱脈だ。その鉱脈は、地表に露出している部分だけでなく、深い場所に眠る地底の王国ともつながっている。さあ、その王国を探しにいこうではないか。映画はもっともっと楽しめるはずだ。
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第2回:「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」とぬるい水のような感情
ウッディ・アレンの新作「ブルー・ジャスミン」(13)に変な歯医者が出てくる。受付の仕事に雇ったジャスミン(ケイト・ブランシェット)に欲情し、やたら身体をすり寄せたがる好色で野暮な中年男だ。
あ、あの顔、と思ったが、役者の名前を思い出すのに少し時間がかかった。そうか、「シリアスマン」(09)の物理教師か。ドジで、ヘマで、とことん運が悪くて、つぎからつぎへと不幸に見舞われるあの男。そこまで思い出して、やっと名前が浮かんだ。マイケル・スタールバーグ。
「シリアスマン」は妙な映画だった。時代設定は1967年(ラジオからジェファーソン・エアプレインの「サムバディ・トゥ・ラブ」が流れてくる)。舞台はミネアポリス郊外のユダヤ系コミュニティ。これだけでも渋すぎるが、いわゆるスターがひとりも出てこないため、ついつい見落とされがちな映画だ。
それでも、製作費700万ドルに対して興行収入は3100万ドル(アメリカだけなら922万ドル)に達している。「ノー・カントリー」(07)でオスカーをいくつも受賞した直後という効果もあったのだろう。さすがはコーエン兄弟、売りにくい作品でも損を出さないところが抜け目ない。
商売の話はともかく、私はこの映画が面白かった。主人公ラリー・ゴプニックに扮したスタールバーグが、芝居の選択を誤らなかったからだ。ラリーは大学で物理を教える40男だが、先にも述べたとおり、なにひとつろくなことが起こらない。妻はラリーの親友のもとに走り、息子はヘブライ語の授業中にロックを聴いていてラジオを没収され、娘は鼻の整形のために父親の金をくすね、居候の義兄はよからぬバーに出入りして警察の世話になる。これだけでも十分にうんざりだが、暴力的な隣人には銃で脅されるし、別の隣人には露骨な性的誘惑を受けるし、落第しそうな生徒には買収と脅迫の両面作戦を仕掛けられる。
だがスタールバーグは、負け犬芝居をしなかった。泣いたり愚痴ったりわが身を憐れんだりせず、変だ変だと、ひたすら首をかしげつづけるのだ。しかも彼は、根拠のない希望を捨てない。そのおかしさになんともいえぬ味がある。コーエン兄弟の作品を振り返っても、似たような感触はなかなか見つからない。強いて挙げれば「バーバー」(01)がやや近いか。いや、けっこう距離はある。
フォークシンガーの脱力感
と思っていたら、「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」(13)が公開された。
時代は1961年。舞台はニューヨークのグリニッチ・ビレッジ。主人公は売れないフォークシンガーのルーウィン・デイビス(オスカー・アイザック)。「シリアスマン」ほどではないにせよ、渋めの印象は否めない。もしかして、と私は思った。コーエン兄弟は、「シリアスマン」の増補版を撮る気になったのか。
主人公ルーウィンは、実在したフォーク歌手のデイブ・バン・ロンクをゆるやかなモデルにしている。マーティン・スコセッシの長篇ドキュメンタリー「ボブ・ディラン/ノー・ディレクション・ホーム」(05)を見た方ならご記憶だろうが、バン・ロンクは1936年に生まれ、2002年に65歳で世を去った歌手だ。ジャズやブルーズの素養が深く、ボブ・ディランに強い影響を与えたことでも知られる。「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」という題名は、彼の代表的アルバム「インサイド・デイヴ・ヴァン・ロンク」から取られている。スコセッシ作品のなかで回顧談を語る彼は、おしゃべりで愛嬌のあるおやじだ。顔は、「ウォルラス(せいうち)」と呼ばれたゴルファーのクレイグ・スタドラーに似ている。
バン・ロンクの説明は長くなるから切り上げよう。興味のある方は、彼の語り下ろした回想録「グリニッチ・ヴィレッジにフォークが響いていた頃」(真崎義博訳、早川書房)を開いていただきたい。ディランはもとより、ウディ・ガスリー、ピーター・ポール&マリー、ジョーン・バエズ、サイモン&ガーファンクルの名前も出てくるカラフルな本だ。
そうか、ウディ・ガスリーの映画にも触れないわけにはいかないな。「ウディ・ガスリー わが心のふるさと」(74)は、公開当時、けっこう話題を呼んだ映画だった。
伝説のフォーク歌手ガスリーを演じたのはデビッド・キャラディン(キャラダインとは発音しない)だが、なぜか日本ではDVDが絶版になって久しい。英米では廉価盤が出まわっているというのに、日本の中古品市場でべらぼうな値付けがされているのはどうにも納得できない。
これも、味のある映画だった。アカデミー撮影賞を受賞したハスケル・ウェクスラーが腰の強いキャメラワークを見せているし、茶色がベースのざらりとした画調も眼の裏側に忍び込んでくる。わけても、田舎町を砂嵐が襲う場面や、ガスリーが貨物列車の屋根に乗って西へ西へと向かうシーンの長まわしは忘れられない。それともうひとつ、社会派なのに気まぐれで、計画的に生きていくことができないガスリーの性格描写に説得力がある。
キャラディンも肩肘を張らない。大恐慌時代のさなか、テキサスの田舎町を離れ、糸の切れた風船のように漂いながらふわふわと移動していく姿に不思議な磁力がある。目鼻立ちは「チェンジリング」(08)の卑劣な刑事に扮したジェフリー・ドノバンを思わせるが、それよりも注目すべきは、力みや上昇志向の徹底した不在だろう。流れていくときも、季節労働者たちの組合を結成しようとするときも、歌手として有名になっていくときも、ガスリーは淡々とした表情を崩さない。いや、まあ、そうはいってもどうせ俺は……という感情が「ぬるい水」のように滞っている様子は、なかなか好ましい。