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【50歳記念インタビュー】井浦新が語り尽くす、俳優デビューから現在までの25年間

2024年9月15日 11:00

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9月15日が50歳の誕生日
9月15日が50歳の誕生日

硬軟自在に役を生きる俳優・井浦新が、本日9月15日に50歳の誕生日を迎えた。今や映画界だけでなく、テレビドラマでも欠かすことのできない存在となった井浦だが、かつてはARATA名義でモデルとして活躍していた時期を覚えている人もいるだろう。是枝裕和監督作「ワンダフルライフ」(1999)で俳優デビューを果たしてから現在に至るまでの軌跡を井浦が思い入れたっぷりに語り尽くした。(取材・文/大塚史貴、写真/間庭裕基


【目次】
是枝裕和監督が映画の世界へ導いてくれてから四半世紀
■「俳優です」とずっと言えない状況だった
■一度は「自分は向いていないのでは?」と背を向けたが……
■「50歳」の実感
■12年前、箱根で見せた清々しい笑顔
是枝裕和監督と若松孝二監督からの教え
■「新、おまえは自分の可能性を狭めている。映画館を満席にできる俳優になれ!」
■「アンナチュラル」で飛躍的に伸びたフォロワー数と劇場の嬉しい異変
■「俳優業は僕の中では天職でしかないと言い切ることができる」
■腑に落ちた「文化人類学的な芝居のアプローチ」
■「50歳にして写真集を出したいなと思っているんです」
■新たに芽生えたプロデューサー業への意欲

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是枝裕和監督が映画の世界へ導いてくれてから四半世紀

井浦が映画界に初めて名を刻んだ「ワンダフルライフ」。今も「特別な思いを抱いています。俳優としての僕を見出し、産み落としてくれた是枝裕和監督、育ててくれた若松孝二監督に対する“聖域感”は忘れたことがありません」と穏やかな口調で話し始めた井浦だが、四半世紀前の出来事に思いを馳せるうち、自然と熱を帯びていく。

「不思議な関係だと思います。もの凄く近くに感じて、いまだにお兄さんみたいな感覚もあるんです。『ワンダフルライフ』の頃は、クランクイン前の約3カ月間、是枝さんの仕事場と自分の住んでいる場所が近かったこともあって、時間があれば『何しているんですか?』と連絡をして会いに行っていた。そんな流れで撮影に入っていったのですが、毎日現場へ向かうのも是枝さんがいる場所へ遊びに行く感覚でした。

「DISTANCE」ポスター
「DISTANCE」ポスター
「空気人形」でぺ・ドゥナと共演
「空気人形」でぺ・ドゥナと共演
(C)業田良家/小学館/2009「空気人形」製作委員会 写真:瀧本幹也

その後の『DISTANCE』『空気人形』『そして父になる』でも、撮影現場へ向かうんだという感覚よりも、是枝さんのところへ遊びに行こうという感覚が体に染みついているんです。今も何かのタイミングで連絡し合ったりしています。それにしても、是枝さんと初めてお仕事をしてから四半世紀以上が経っているんですね。すぐ近くにいると思っていた是枝さんが、世界に挑戦したりして気づいたら遠いところへ行ってしまって、ずっと向こうの方に小さく背中が見えたりすることがある。

僕が海外の映画祭へ参加したりすると、『是枝の現場はどうだったんだ?』って、是枝さんのことばかり質問されたりするんです。そういうところから、是枝さん凄いな! と実感させられる。僕は僕で、自分なりのやり方でこの世界で生き続け、またいつ声をかけていただいてもすぐに入っていけるようスタンバイしていたい。そう思わせてくれる監督です」


■「俳優です」とずっと言えない状況だった

前述の通り、90年代はトップモデルとしてファッション誌やファッションショーで躍動していた。俳優に挑戦しようと思った、当時の心の移ろいはどのようなものだったのだろうか。

「あの頃は移ろってはいなくて。自分のことを俳優とも思っていなかった。『ピンポン』(2002)の頃も自分から俳優とは言えなかった。『ワンダフルライフ』に出演することになるきっかけは、友人のカメラマン・HIROMIXが出した写真集に僕が映っていて、それを見た是枝監督が『彼と話をしてみたい』と興味を持ってくれたところから話が始まるんです。

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現場で寺島進さん、内藤剛志さん、谷啓さんら錚々たる俳優の方々と対峙したとき、芝居の道を突き進んできた方々の強さを感じることができました。芝居を突き詰めたいだなんて思ってもいなかった自分が、たまたま是枝さんに声をかけてもらい主演させていただいたわけですが、他の皆さんと気持ちの温度差が明確にあったことに戸惑っていました。

『DISTANCE』の頃も、自己紹介で俳優ですとは言わず、『洋服屋です』と答えたりしていた。当時は自分の中で、俳優とモノ作りの仕事って気持ちを分けてやることこそが、それぞれの仕事への敬意でもあるって考えていたから、『俳優です』とずっと言えない状況でした」

その頃、是枝監督のもとに交流のあった青山真治監督から「ARATAって何者?」と問い合わせがあったという。「僕の友人の映画監督が、ARATA君に興味を持っていたよ」とは聞かされていたようだ。

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「当時、モデル事務所に籍は置いていましたが、既にモデルの活動はしていなかった。そんな時に青山監督からご連絡をいただき、居酒屋でお会いしました。すごく必要としてくれていて、『君じゃないとダメなんだ』って話をしてくださって……。芝居ができないと伝えたら、『芝居なんてしなくていいよ』と是枝さんと同じように求めてくださった。それでトライしてみようと出演したのが、『SHADY GROVE』でした。

一生懸命やってはいるのですが、芝居が何なのか掴めないままやっていた。俳優を志してこの世界に飛び込んできていないから、どこまで続けられるかも分からないし、怖いものがなかったんでしょうね。俳優として守るものもありませんでしたから。

『ピンポン」ではスマイル役
『ピンポン」ではスマイル役
(C)2002「ピンポン」製作委員会

ピンポン』のお話をいただいたときも、(原作者の)松本大洋さんが大好きだったんです。だからこそ、スマイル役以外はリスクを背負ってまでやりたくないですってお戻ししたら、スマイル役でオファーが届きました。ラッキーだったんです」


■一度は「自分は向いていないのでは?」と背を向けたが……

ピンポン」でそれまで以上に認知度が上がり、井浦にとっては大きな壁が眼前に立ちはだかった。

「お芝居以外の宣伝的なことを色々やったのですが、自分の名前が思った以上に外へ溢れ出て行く現象に戸惑ったんです。映画出演4作目にして、『やはり自分は向いていないのでは?』と思ったり……。

現場は楽しいんですよ。監督、スタッフ、共演者と映画を作ることは楽しい。でもそれ以外のことに振り回されることに対応できなかった。嫌なものは嫌だとはっきり口にしてしまうタイプでしたし、心が未熟すぎたんです。『これは無理だ…』と思って、疲れちゃったんです」

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そんな時に、また井浦を求める映画人たちが現れる。「青い車」(04)の奥原浩志監督と越川道夫プロデューサーだ。「断っても、断っても、ずっと『会ってくれ』って。厄介な人たちがいるなあ(苦笑)って、こちらが根負けして『会うだけなら』って3人でお話をしたんですけどね」と井浦は当時を思い出したのか、表情を綻ばす。

「自分のことを必要としてくれることに喜びを感じないわけがないですよね。一瞬でも背を向けたわけですが、必要とされて、それに応えることの有難さを感じて、またやってみようかなって。だから、本当に徐々になんです。1年に1本、2年に1本みたいな形で、慎重にやっていました。

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そのスパンだとキャリア的に成長できないし、キャリアを重ねることにもなっていない。かなり特殊なスタートを切らせてもらっていたというのは、後々になって分かってくるんです。『俳優です』って胸張って言えるようになってきた頃に、周囲にこんなスタートを切った人いないぞって気づかされました。

色々な人と現場を重ね、出会い、ご縁をいただきながら知らぬ間に自分の道みたいなものが少しずつできてきた。難しさと面白さを同時に味わえて、挑戦する気持ちが自分のなかでも固まってきて、俳優としてどう進んでいきたいのか、どんな俳優になりたいのかという質問にも答えられるようになってきたのが、この時期です」


■「50歳」の実感

約20年前の話を愛おしそうに語る井浦は、決して器用なタイプではない。それでも現在の多ジャンルでの八面六臂の活躍ぶりの土台は、この時期に慎重な姿勢を崩さなかったからこそ構築できたのではないかと推察する。今回の取材は、井浦の50歳の誕生日を記念してのものなので、改めて聞いてみた。「50歳という節目の年となりますが、実感はありますか?」と。

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「もしも体調に異変があったりしたら、実感することがあるのかもしれませんが、まだ実感としてはない。先に50歳になった先輩たちから聞くと、30歳や40歳になったときよりも感じるものがあるのだと。実は僕はゾロ目が大事だと思っていて、30歳よりも33歳、40歳よりも44歳で実感を味わえてきた。だから今回も55歳くらいでしみじみ感じるのかな。

僕自身が、自分の記念日的なことに対して何も思わず過ごしてきちゃったんです。自分以外の周年を祝うのは楽しくて好きなのですが、自分の周年はどうでもいいや…と思ってきちゃった。今回も『ワンダフルライフから25年ですよ』って今回の取材で言われるまで気づきもしなかった。今まで無頓着すぎましたが、50代も楽しくなったらいいなとは思います」


■12年前、箱根で見せた清々しい笑顔

筆者が井浦の取材を本格化させたのが、亡き若松監督の作品だった。井浦にとって「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を皮切りに、「キャタピラー」「海燕ホテル・ブルー」「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」「千年の愉楽」とライフワークのように出演し続けた若松監督との突然の別れは想像だにしなかったに違いない。

箱根彫刻の森美術館で初の写真展「空は暁、黄昏れ展」を開催
箱根彫刻の森美術館で初の写真展「空は暁、黄昏れ展」を開催
撮影:大塚史貴

若松監督を見送った2カ月後の12年12月22日、井浦の姿は神奈川・箱根にあった。箱根彫刻の森美術館で初の写真展「空は暁、黄昏れ展」を開催する井浦と若松監督のことを少しでも話せたらと思い、車を走らせた。当日までの約2週間、箱根に滞在し会場設営に追われていた井浦は、清々しい笑顔を浮かべながら家族を紹介してくれた。

そして、「初めての個展ですが『知っているぞ、この感覚』という状況がいくつもありました。学芸員の方をはじめとするチームと毎日顔を合わせ、日に日に一体感が出てきて“家族”になっていけた。映画の現場での経験が生かせました」と充実感をにじませていたことはいまも鮮明に記憶している。

画像12撮影:大塚史貴

「あの日は久々に家族に会えたんです。追い込み作業のとき、美術館側にお願いして宿に戻らず、インスタレーションで展示するテントに寝起きしながら朝まで微調整を続けていました。映画の現場でもないのに、箱根まで来てくださって……嬉しかったことを覚えています」

12年前のあの日も、若松監督への思いを口にしながら個展会場を見回し、「ひとりじゃ形にできませんでした。サポートしてくれるさまざまな方のおかげです。映画も一緒ですから。畑が違っても同じなんだな……と気づかせてもらいましたし、本当に勉強になりました。これからも努力を続けていきたい」としみじみ語っていた。若松監督から映画を全国各地の映画館へ届けることの意義を叩きこまれた井浦は、いまも時間が許す限り、変わらず作品を丁寧に、大切に全国のファンのもとへ届けている。


是枝裕和監督と若松孝二監督からの教え

若松監督に対しては「感傷的になるというより、いまは全てを抱き締められている。(若松監督を題材にした映画)『止められるか、俺たちを』『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』を作ってしまうところまで来てしまいましたから」と語り、静かに目を閉じる。若松監督から説かれた、舞台挨拶やティーチインを通しての観客との対話の重要性については、興味深い考察を聞かせてくれた。

「実体験として、色々なところへ連れて行ってもらいましたし、なぜ大事なのかという具体的な言葉ももらいました。僕の中では、もしも是枝さんと出会っていなければまた違ったんじゃないかとも思うんです。僕にとって、ふたりの存在は繋がっているんです。

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ワンダフルライフ』が公開されてから、是枝さんから『今晩空いている?』と連絡が来て、『シネマライズで19時から映画を観終わった後のお客さんとディスカッションをするんだ。ティーチインというんだけど、僕はそれが大好きでね。良かったら遊びに来ない?』というお誘いでした。

シネマライズはお客さんとして頻繁に映画を観に行っていた場所ですし、そこで自分がスクリーンに映っていることだけでもミラクルなのに、登壇してトークをするなんて緊張するけど楽しそうって。でも当時、お客さまに映画を届けるという認識はまだありませんでした。映画の撮影が終わったら、俳優の仕事はそこで完結すると思っていました。映画って監督のものだから、俳優が要所要所で舞台挨拶に参加できていれば大筋の役割は果たしているんだろうと。


■「新、おまえは自分の可能性を狭めている。
映画館を満席にできる俳優になれ!」

若松監督とは作品を届けに都内の劇場だけでもたくさん重ねましたし、地方だって何度もご一緒しました。要は、自分の関わったものに最後までケジメをつけるということなんです。特に主演をした作品なら尚更で、座長として率先して届けに行くことが大事だと。実際に届けに行ってみると、観賞したお客さまが映画の世界観を広げてくれ、作品が育っていく過程を目にすることが出来た。これは、舞台挨拶で登壇しなければ気づけなかったことです。

画像14撮影:大塚史貴

いただいた役で自分のできることを映画の中に閉じ込めたのに、観てくださった方々が色々なことを感じたり、深めたり、脚本に書かれていないところまで解釈を広げていってくれる。お客さまから僕が教わるような感覚になってきたんです。そう感じるようになってからは、『こんな楽しい遊びはないぞ』と思えるようになってきました」

その若松監督から言われた言葉で、いまでも忘れられるはずもないやり取りの一端を明かしてくれた。

「それまでビジョンも何もなかった。でも、若松監督から『新、おまえは自分の可能性を狭めている。自分の枠の中だけで、やりやすいところだけでやっていてはダメだ。来た仕事全部やって、何でもできるようになって、映画館を満席にできる俳優になるんだ!』と言われて、自分が目指そうとするものを示してくれました。1日でも早く満席の映画館を若松監督に見せたい……、と思ってやってきました。若松監督と一緒に映画を届ける旅をしているときに、それをちゃんと実現できたことは本当に良かったです。

画像15(C)若松プロダクション

また、『何でもやれ』という言葉から気持ちも楽になっていったのですが、ありがたいことに興味を持ってくださる方から声をかけていただき、テレビドラマにも出演するようになりました。映画でキャリアを積んできた僕がテレビドラマに出演することで、映画館にお客さまが少しずつ増えて来るようになってきて、映画とドラマは別ものと思っていましたが、映画館にとっては繋がっているんだなと知ることもできました。どこまでいけるか分かりませんが、チャレンジしがいのある仕事だと思いを新たにしていきました」


■「アンナチュラル」で飛躍的に伸びたフォロワー数と劇場の嬉しい異変

井浦が話すように、ドラマの出演数が飛躍的に増えた。なかでも、「アンナチュラル」(18)がもたらしたものは、井浦の想像の範疇を超越するものだったようだ。

「ドラマで僕の芝居に興味を持ってくださった方が、映画館にまで足を運んでくださるようになったという意味では、『アンナチュラル』の影響力が大きかったかもしれません。SNSのフォロワー数もずっと9万人前後で推移していたのに、ドラマの放送が終わる頃には20万を超えていたんです。ちょっと自分の理解が追い付かない感じでした。

「アンナチュラル」共演陣と共に「ラストマイル」プレミアに参加
「アンナチュラル」共演陣と共に「ラストマイル」プレミアに参加

『初めて映画館に来た』というワードが飛び出してきたのも、ちょうどその頃。僕自身も、テレビドラマの面白さというか、そこでしか会えない人たちがたくさんいることを知ってしまった。映画の現場とドラマの現場、会話するワードは変わらないし、何が違うかといえば極端な話、撮影期間くらいじゃないかとも思う。興味を持ってもらえるって、嬉しいことですしね」


■「俳優業は僕の中では天職でしかないと言い切ることができる」

映画以外の場で井浦の姿を見かけるようになったのは、13年から18年にかけて司会を務めたNHK「日曜美術館」が最たる例といえるかもしれない。もともと日本文化への造詣が深く、興味の対象は美術や伝統工芸にまで及ぶ。直近では、国立民族学博物館の吉田憲司館長との対談に大きな刺激を受けたようだ。

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「国立民族学博物館(以下、みんぱく)は大好きな場所で、これまでも幾度となく通っている場所なのですが、今年に入って館長からお声かけいただき対談を行いました。専門的な知識はないのですが民俗学、考古学、博物学が好きでずっと楽しんできたので、興味深いお話をうかがうことができました。

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館長から俳優についても色々と聞いていただきました。僕の中で俳優の面白さや突き詰め方、それは芝居を磨くというよりも人間を想像しながら作っていくことに楽しみや喜びを感じているということ。かつて俳優や芝居というものに全く興味をいだかなかった人間なのに、人間を表現することが好きだからこそずっと続けてこられた。今では俳優業は僕の中では天職でしかないと言い切ることができますと。


■腑に落ちた「文化人類学的な芝居のアプローチ」

また、僕は旅をして色々な人と出会うことを楽しんでいるのですが、たとえば道を尋ねた農家の方の手や背中の曲がり方、声の質感、日焼けの仕方などが、僕の人間のライブラリーの中にどんどん記憶されていくんです。作り出したプロダクトにも興味はあるけれど、僕はそれを作る人にフォーカスしていく。日常的に人を研究しているようなイメージで、意識の持ち方次第で研究対象はどこにでもいる。僕が旅を好きな理由は、そこにあるのかもしれません。

そういうお話をしていると、館長が面白い解釈をしてくださったんです。『あなたにとってのお芝居は、文化人類学的な芝居の仕方なんじゃないか』と。僕の中ではもの凄く腑に落ちて、『それだ!』と。

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何で芝居をしているんだろう?と突き詰めて考えていくと……。上手くはなりたいけど、下手でありたい。テクニックを磨くために集中すると、途中で飽きたりもする。ただ、テクニックを放棄したらつまらない。館長がおっしゃる通り、民俗学的な眼差しで人を見て、文化人類学的な俳優をしているのだと考えると、四半世紀続けて来られた理由になると腑に落ちました。

こういう話をするのは、今回が初めて。誰かに言われる前に、絶対に記録しておいてほしかった。そういう俳優がいてもいいですよね。学校の勉強はダメでしたが、美術や民俗学などを楽しむことは好きでした。だから書籍の長い文章でもワクワクしながら読めましたし、本物に出合うこともできた。具体的に表現する言葉を発見できずにいたのですが、『文化人類学的な芝居のアプローチ』。これは僕のやっていること全てを言い表しています」

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■「50歳にして写真集を出したいなと思っているんです」

生き生きと「文化人類学的な芝居のアプローチ」について語る井浦だが、50歳として過ごす本日以降、明確な原動力になるようなことの存在を問うと、ブレずに「やはり作品を届けるということ。届けた先からいただいたものが原動力になっています」と語る。そして、意外な展望も明かしてくれた。

「50歳にして写真集を出したいなと思っているんです。僕が撮るんじゃなくて、映っているほうです。20〜40代では概念になかったし、むしろ嫌だった。いまも嫌な気持ちもあるのですが、そういうことも楽しんでやってみたら? と自分で押し殺していた心の扉を開けてくれたのも、舞台挨拶が気づかせてくれたこと。

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あとは、特に変わっていません。これまで出会ってきた大切な監督たち、家族、仲間。それらは根源的なところにありますが、僕のエンジンになっている。これから突き進むなかで、50年間使ってきたエンジンがどこまで動くのか、どんな音になっていくのか分からない。でも、使い続けてきたからこそ味わいのある音を奏でてくれるかもしれませんしね」


■新たに芽生えたプロデューサー業への意欲

また、映画製作において監督業への意欲も抱き続けている。「昔から持っています。ただ簡単にポンポンできる仕事ではないというか、敬意があるからこそ1本とんでもないものを残せたらいいかな……。その機会はうかがっていますし、引き続き発酵させていきます」。

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そしてこの10数年で新たに芽生えたのは、プロデューサー業だという。「自分が映画の現場、この世界で培ってきたキャリアを監督以外にも生かせられるんじゃないか。自分よりもっともっと若い世代の才能と出会って、その才能を世に伝えていくこともできる年齢になりつつあるんじゃないかと思って。それにしても、不思議なもので趣味がいまだに増えているし、やりたいことも増えてきている。年を重ねたら研ぎ澄まされていくのかと思ったら、研ぎ澄ます部分と共に、新しくゆっくり磨いていこうという真っ新な刃も芽生えてきたりする。年齢を重ねるって面白いですね」

井浦が監督業ないし、プロデューサー業に乗り出すことが本格化したら、きっと多くの映画人や映画業界以外の人々も喜んで巻き込まれにいくのではないだろうか。趣味が増えていく分、アウトプットする引き出しも無尽蔵に増えているはず。今後、俳優としてはもちろんだが人間・井浦新がどのような動きを見せていくのか興味が尽きない。


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執筆者紹介

大塚史貴 (おおつか・ふみたか)

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映画.com副編集長。1976年生まれ、神奈川県出身。出版社やハリウッドのエンタメ業界紙の日本版「Variety Japan」を経て、2009年から映画.com編集部に所属。規模の大小を問わず、数多くの邦画作品の撮影現場を取材し、日本映画プロフェッショナル大賞選考委員を務める。

Twitter:@com56362672


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