映画を自分ごととして〈わかる〉〈おもしろい〉ってどういうことだろう? と考えた「異人たち」「異人たちとの夏」「94歳のゲイ」【二村ヒトシコラム】
2024年5月4日 20:00
作家でAV監督の二村ヒトシさんが、恋愛、セックスを描く映画を読み解くコラムです。今回は日本を代表する脚本家・山田太一の長編小説「異人たちとの夏」を、「さざなみ」のアンドリュー・ヘイ監督が、英国を舞台に、主人公をゲイ男性に設定変更して映画化した「異人たち」。そして、1988年に同じ原作を大林宣彦監督が映画化した「異人たちとの夏」と見比べ、さらには激動の時代を生き抜いてきた、日本の94歳の同性愛者の姿を追ったドキュメンタリー「94歳のゲイ」を見て、考えたことを綴ります。
僕にとって、ある映画が「おもしろかった」というのは「その映画で描かれてる人物の感情と、同じ感情を僕も味わったことがある」というのとほぼ同じ意味でした。
公開中のイギリス映画「異人たち」(2023)は、テレビドラマ「ふぞろいの林檎たち」や「岸辺のアルバム」で名高い脚本家・山田太一が1987年に発表した小説『異人たちとの夏』が原作です。発表されてすぐ大林宣彦監督によって映画化されています。
「異人たち」は舞台をイギリスに移しただけの海外リメイク版ではなく、アンドリュー・ヘイ監督の脚色で変更された点があります。どちらも主人公は、さみしさで煮つめられたような中年男性ですが、原作では妻と離婚したばかりの性的にはストレートな男です。日本映画「異人たちとの夏」では風間杜夫が演じます。
それが「異人たち」では、パートナーがいないゲイ男性という設定になりました。実生活でゲイであることをカミングアウトしてるアンドリュー・スコットが演じます。冒頭の、美しいけれど奇妙な夜景。マンションだけではなく世界中が、夜になると生きている者は誰一人いなくなるよう。それは後半、主人公の少年時代には知らない人とつながれるインターネットはまだなく、ただ子どもたちは皆それぞれテレビのニュースで〈核戦争で人類が滅びる未来〉におびえていた記憶につながる。
あれ? このへん「異人たちとの夏」では、どうだったっけ? 風間杜夫も一人で仕事をしているマンションに真夜中になると生きてる者は誰もいなくなるのは同じだったけど、たしか永島敏行から電話がかかってきて仕事の話とかして、外にご飯を食べに行ってたような…。
「異人たちとの夏」を僕は30年くらい前に一回観たきりでした。そのときは「なんだか変な映画だな」という感想だったことを覚えてます(89年の日本アカデミー賞受賞作なんですけど)。
恐ろしい話なのに、むしろわざとヘンテコに見せる映画といえば同じ大林宣彦監督の商業デビュー作「HOUSE ハウス」がそうですが、僕は「HOUSE」は大好きなんです。ヘンテコさがじんわり怖いし、恐ろしさとヘンテコさがそのまま叙情にもなっていた。「異人たちとの夏」の変さは「HOUSE」のそれと比べると、ぜんぜん怖くなかった。怖がらせることに失敗していたような記憶が。
ということばかり覚えていて、かんじんの片岡鶴太郎の演技とかをあまり覚えてなかったんですね。でも、すごい気になったので「異人たち」を観て家に帰って、すぐに配信で「異人たちとの夏」を観たんです。
「異人たち」の話の流れは「異人たちとの夏」に途中まで忠実でした。風間杜夫が演じる原田もアンドリュー・スコット演じるアダムも孤独こじらせおじさんなので、せっかく性的に親密になってくれそうな若い人(名取裕子が演じる桂、ポール・メスカル演じるハリー)を、自分の孤独な部屋に最初は迎え入れません。まあ桂もハリーも、いささかヤバげな人だからなのですが。
その後、原田もアダムも自分が生まれ育った街で、早くに死んでしまった両親(大林版では片岡鶴太郎と秋吉久美子、ヘイ版ではジェイミー・ベルとクレア・フォイ)と出会います。亡くなったころそのまま、いまの主人公より若くイキイキしている両親。最初は「自分たちがもう死んでいることに気づいてないタイプの幽霊なのかな」と思いましたが、どうもそうではない。死者である、つまり息子にとっての異人であることのさみしい自覚はある。
もう死んだ人と会う夢って、そうですよねえ。時間感覚もそうです。タイムスリップしたわけではなく、死んだ両親がそのまま現代に生きている。彼岸と此岸が溶けている感じ。両親は息子だけが歳をとったことを不思議がらず、彼が育った家に迎え入れます。あちらとこちらを行ったり来たりするうち、主人公の孤独(状況としての孤独ではなく、他者をすなおに受け入れることがむずかしいという彼の心の性質)は癒され、やがて彼はこちらの世界で、あの若い人(ハリーや桂)とも親密になっていきます。それが2本の映画に共通の流れです。
「異人たち」を観た直後に「異人たちとの夏」を観た僕は、30年前とはちがう、自分でもびっくりする、ある感想を持ちました。このコラムでは3つのことを述べようと思うのですが、1つめがその感想です。
「異人たち」を観た感動が残ってるそのままの意識で「異人たちとの夏」を観たら、いや片岡鶴太郎めっちゃエロいな、色気ありすぎだろと思ったんです。原田がまだ子どもだったころに死んだ父ですから、若いお父さんです。下町の寿司職人で清潔感がある幽霊。いなせで気ッ風(きっぷ)のいい完成した江戸っ子なのではなく、いなせで気ッ風のいい江戸っ子になろうとイキがっているうちに死んでしまった若パパ。プライドがたかく意地っぱりで、同じ店で長続きしない愚かな男。その愚かさがセクシーです。自分が男から見てセクシーであることに気づいていない男、まったくもってノンケな既婚者です。
そしてお母さんの幽霊は秋吉久美子ですから、こちらも色っぽい。男に媚びる色気じゃなく、はすっぱな少女のような色気。ところが父さんから溢れる色気をジィッと見つめている原田は、いまの自分より若い母さんの色気からは目をそらします。近親相姦タブーを感じたからでしょうか。そんな恥ずかしがっている中年の原田を、お母さんの幽霊は子どもあつかいして距離をつめてくるんです(このへん日本の母とイギリスの母のちがいなのかもしれないですが、アダムの母はアダムにこんなにベタベタしません。「異人たち」には後述する別の重要なドラマがあるからというのもあるんですが)。母さんのスキンシップに、原田はまるでおびえているようです。
きわめつけが「異人たち」ではばっさりカットされた、永島敏行が演じる間宮というキャラクターです(原作の小説にはちゃんと出てきます)。この男もゲイではないんですが、原田に友情ではなく、恋としか言いようがない情を抱いてるんですよ。僕の深読みではなく、はっきりそう描かれていたと感じます。そしてクライマックスからエンディングで重要な役割をつとめます。
そういう視点で観ると「異人たちとの夏」の欠点だと昔の僕が感じた、怖がらせるべきシーンがなぜ怖くないのか、なぜ中途半端だったのかも、わかるような気がします。原田はノンケなのに、女性からしっかり愛されることが怖いんです(そういうノンケ男性はたくさんいると思います)。離婚したのも、奥さんが愛想をつかして出ていったのではなく原田が奥さんに適切に甘えることができなかったからなのでしょう。
ほんとならホラーっぽいシーンでは、原田の〈女というものに呑み込まれるのが怖い〉という根源的な恐怖と、そういう原田に向けての〈女〉の怒りと呪いを表現しなければいけなかった。そうすればもっと怖くなったはずで、でも大林宣彦監督は、そこには踏み込めなかった。原田自身が(そして原田を自分の分身として創作した原作者の山田太一が)そのことに最後まで無自覚だったからではないでしょうか。大巨匠2人をつかまえてすごいこと言ってますが、僕は以前この連載で書いた「太陽がいっぱい」の主人公からゲイ要素がキャンセルされてしまっていたことも思い出しました。時代のせいなのかもしれません。
じつは映画「異人たちとの夏」は、監督にも原作者にもそんなつもりはなかったかもしれないけれど、心の底にゲイ指向があることを心の表面では意識できずにいる、あるいは、うすうす自覚しているのにかたくなに認めないでいる男の話だった。そう考えると片岡鶴太郎の唐突な色気や永島敏行の存在(どちらも「異人たち」ではカットされた要素)が不自然なものではなくなる。
「異人たち」を観てから「異人たちとの夏」を再見してその差分を考えたことで、なんと、僕にとって「異人たちとの夏」は変な映画じゃなくなってしまいました。それどころか味わい深い、おもしろい映画になったのです。原田の感情が自分ごととして〈わかった〉からです。
今回書きたい2つめのことは、もちろん「異人たち」のことです。
さっきちょっと触れた、逆に「異人たちとの夏」にはなくて「異人たち」で新たに書き加えられ、その中心に据えられた重要なドラマ。それは自分がゲイであることをしっかり自覚しているアダムの、両親へのカミングアウトです。原田はしなくてもよかったことを、アダムという人は少年時代の積み残しとして、どうしてもしたい。
アダムは勇気をふるって、それをします。ところが母さんも父さんも昭和の人ですから、いやイギリスの父さん母さんですから昭和の人じゃないんですがニュアンスはわかってください、両親の幽霊はアダムを心から愛してはいるけれど彼のアイデンティティの最も大切な部分を、うまく受け入れることができない。お母さんもお父さんも正直すぎるのです。これは子どもにとってつらすぎます。
もう会えないと思っていた死んだ両親の幽霊と再会する物語を翻案することになったとき、このテーマをぶち込むしかないと決めたアンドリュー・ヘイ、すごい監督だと思います。観ていて僕は胸を掻きむしられるような思いがしました。ただ、それと同時に「異人たち」は僕が〈おもしろい〉と感じてもいい映画なのかな、僕にその資格はあるのかなと、ひっかかったんです。
性的マイノリティと呼ばれる人を主人公にした映画を観て、僕は、おもしろいと思うことが多いです。この連載で過去に紹介した「大いなる自由」や「キャロル」や「リプリー」や「苦い涙」や「卍」は、主人公の性別やセクシュアリティや嗜好や性格ややってることが僕とちがっていても、僕は、主たる登場人物の感情や行動のどこかに、自分ごととして思い当たるところがあると感じられた。だから(もちろん、どれも映画としてすばらしかったからでもありますけど)どれも、おもしろがれた。おもしろがると同時に〈マイノリティであること〉についても僕なりに思いを馳せることができました。
「ブロークバック・マウンテン」も「怪物」もそうでした。「ブロークバック・マウンテン」は観ると僕は毎回かならず泣きます。それらの映画はもしかしたら、同性愛者自認やマイノリティ自認がない観客でも感情移入できるように調整して監督が撮ってくれたのかもしれません。あるいは、それらはある意味〈派手な〉映画だからなのかもしれません。
ところが映画によっては「わかる」「おもしろかった」って感想を言うと怒られちゃいそうだという気がする映画があるんです。これは具体的に誰かから怒られるって話ではなく、勝手に自分の中に〈怒ってる人〉を僕が作っちゃってるんですが、その人は僕の心の中で僕に向かって「お前に、この主人公の何がわかるっていうんだ」って怒ってる。登場人物たちが「これはあなたの物語じゃないんです。われわれの物語なんです」って小さい声で言っているような気もする。
「ムーンライト」がそうでした。すばらしい映画でした。「月の光の下で黒人の子どもの肌が青く光るんだ」というセリフは、観てから何年かたつんですが、ずっと心に残っています。けれど自分ごととして「わかる」とは言えなかった。だから「おもしろかった」とは言えなかったのです。
そして「異人たち」も、そっちのタイプの映画のような気がしたのでした。アダムの痛みは、僕が感じたことがあるどんな痛みともきっとちがっていると思えるからかな。同じヘイ監督の「WEEKEND ウィークエンド」は、主人公じゃないほうのゲイの男がやってることが〈わかる〉と感じられたのもあって、おもしろがれたんです。シリアスで地味な映画なんですけど「ウィークエンド」は、おもしろいと思っても僕の中の人は怒らない。「ウィークエンド」のほうが「異人たち」よりも男と男のセックスシーンが濃厚だったからかな。
もしかしたら僕が「わかる」「おもしろかった」と言えるような性的マイノリティを主人公にした映画には、傷ついてしまう当事者がいるのかもしれない。僕がおもしろがれてしまう性的マイノリティ映画にはノンケでもその気になれる、感情移入しやすさという暴力性が含まれてるのかもしれない。
すなおに「わかった」「おもしろかった」と言ってはいけないような気がしてしまう「ムーンライト」や「異人たち」のような映画は、傷つく当事者が少しでも出ないよう、そういう一種の暴力性を、ていねいに取りのぞいて作られているのかもしれない。(また別の種類の暴力性は、ふくまれている可能性はあります)
ある映画を自分ごととして〈わかる〉〈おもしろい〉ってどういうことなんだろう? もしかしたら、おもしろがること自体が暴力なんだろうか。「異人たち」を観た後そんなことを考えていたんですが、あまり日を置かずにたまたま別の映画を観る機会があって、また少し考えが変わりました。今回書きたい3つめは、その映画のことです。
「94歳のゲイ」はドキュメンタリー映画です。大阪に住む1929年生まれの長谷さんと、その周囲の人たちの日常をカメラは切り取っていきます。
登場人物は全員、実在しています。監督が創作したキャラクターではありませんから起きる出来事も何かのメタファーではありません。その個人の固有の出来事です。僕の体験になぞらえて〈わかる〉なんて言えないはずです。ところが、この映画を僕はとても〈おもしろい〉と感じちゃったんです。なんの罪悪感もなく。
それは、たぶん「94歳のゲイ」が〈友だちができること〉を描いた映画だったからです。
長谷さんは94歳の現在まで一度も恋愛もセックスもしたことがない同性愛者です。この映画には、そんな長谷さんと〈友だちになっちゃった〉としか言いようのない関係をむすぶ人たちが出てきます。ある期間にわたって撮られたドキュメンタリーですから、彼らはカメラの前で、ゆっくり友だちになっていく。
そしてこれは長谷さんの人柄によるところが大きいのですが、映画の中の出来事の副産物として、映画を観ている僕も長谷さんの友だちになれたような気がしたのです。
僕は自分の友だちの気持ちがわかるわけではありません。友だちだからといって「わかるよ!」などと言うのは暴力だと思うのです。長谷さんの人生の長い長い時間のことは僕には絶対にわかりません。でも、わからないまま友だちのことを「おもしろい人だなあ」と思ってしまうことはある。ていうか、おもしろいと思えない人とは友だちになりにくい。
「94歳のゲイ」を観て、長谷さんだけでなくどの登場人物のことも〈わかる〉とは畏れ多くてとても言えないですが、うかつな感情移入はしないまま長谷さんたちのことを〈おもしろい〉と思えた。そういう映画の鑑賞の仕方があることを体験しました。とてもいい経験で、とてもいい映画でした。
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