ボーはおそれているのレビュー・感想・評価
全347件中、241~260件目を表示
狂っているのはだれか
ボゥが何らかの精神疾患で幻覚を見ていると思っていたがそこに生きている人々、ボゥの母親どれが現実で幻覚なのかそれとも全員狂っているのかわからなく混乱する作品でした。
そしてほとんどの登場人物の会話等は会話ではなくただ自分の言いたいことを言っているようで理解をする気がないという印象になり、最後に個人的な感想ですが見終わったあとは自分は母に対して何か返せているか母親に何か孝行して何か返したい思いが湧き何かしたいという気持ちになりました。
3時間ポカーン( ゚д゚)
こんな母子、日本の社会に多いんじゃないか
職場の同僚(♀)が、一人息子(高校3年生)を溺愛しており、息子の話ばかり。
幼児のような世話焼きぶり、干渉ぶり、ほとんど残業なしとはいえフルタイム勤務のワーママなのに、生活は彼が快適に過ごせるように細部まで気を配って、夫は空気かむしろ邪魔、ひたすらむしゅこラブでカワイイかわいいって、話聞かされるたびにドン引き。
高校3年生の息子のほうもこういう母に反発ないみたい。
正直、キモチ悪い。
うちは息子ふたりだが、ずっとフルタイムの共働きなのでそこまで世話焼いてないし、男の子はある年令になったら母親をウザがるもんで(そして理不尽なことしか言わない反抗期がある)、それも自立へのステップなんじゃないかと思っている。言わないけど。
気持ち悪すぎてリアクションに困り、彼女とふたりでランチするのは避けています。
人に世話されて当たり前、自己中で自立できない、大人になれないオトコ、こんな感じでできあがるんだろうと想像しました。
母のワンオペ育児に少子化で一人っ子が多い日本は、この同僚や、ボーの母子みたいな家庭が結構あるのでは。
ボーは、多分発達障害。富豪のママは、多分、製薬も含んだ多角的事業を手掛けている。
この母が猛毒。
自己中で息子は所有物、とことん支配する。
息子に自分以外のオンナを近寄らせない気持ち悪いオンナでもある。
息子が自分の意に沿わないことをすれば、一般的観点からなら十分理由があることでも、捻じ曲げてボーに罪悪感をもたせる方向で責め立てる。
常に強迫観念を持って、自分の行動全部が高みにいる神(と母)に見張られて「悪いこと」をすべて把握されている感覚があり、人に合わせるだけで自分がない、とか、いつも謝っているとか、そうやって育ってきたコドモらしいところがてんこ盛り。妄想(多分)の内容もいちいち毒母に支配されてきた男児らしい感じ。クスリのせいもあるでしょうが。
多分、ボーはコドモの頃から精神系のクスリを飲まされており、現在は精神科医付きで母の手の中で一人暮らしなんでしょう
色々出てくるエピソードは多分、ほとんどがボーの極端に偏った妄想だろうがクスリのせいかも。
結局、母の支配から抜け出せずに沈んでしまったようだけど、ヒトらしさも手放すくらいの本格的精神疾患になってしまったということなんだろうか。
現実にこういう人はいると思う。気の毒です。
とにかく長い。
妄想らしく筋が通らん訳の分からないエピソードばかりでストレス溜まって、早く終わらないかばかり思っていました。
ボーが恐れている理由
ヘレディタリー、ミッドサマーに続く怪作で、制作費3500万ドルという前作の4倍近くの予算規模となる本作。
アリアスターの短編映画BEAU(2011)が元になった作品で、冒頭の『自宅の鍵をかける途中でフロスを忘れて取りにいって戻ってきたら鍵が盗まれている』というプロットはこの時の着想が元になっていることが分かる。
今回も「母性」がテーマとして描かれ、聖母の置物や銅像のモチーフは、まるで母が神のような立ち位置なのだ。途中で ”Jesus sees your abominations”と出てくるのも、チャンネル78で過去現在未来が監視されているのも、まるで母親が神となって、「あなたの悪事を監視している」かのようだ。これはエンディングにも大きく関わるので注目しておきたい。
もう一つの要素として見過ごせないのが「水」の描かれ方だ。冒頭の羊水、アパートの水が止まる、薬のための水(クレジットカードを止められ、買えないため通報される)、浴槽の水(水浸しになる)、大洪水、回想シーンでの船、浴槽、そしてエンディングに繋がるわけだが、モナ・ワッサーマンのwasserman はドイツ語で『水の精』を表すため、母親が絶対的な権力者であることも示唆している。
本作は4つのセクションでできており、最初の3つはそれぞれボウが気絶して終了する。①車に撥ねられる②森の木に激突する③脚のGPS装置が爆破する(劇中の大洪水のシーンでも気絶しているので、それを含めると4回気絶している)
ボウはパラノイア的で、強迫観念や被害妄想がひどく(もしくは薬の副作用)、母親に依存し、極めて優柔不断な性格なのだ。母親という足枷を外して自らの人生を歩もうとするボウの建設的妄想も描かれるが、最終的には親子の葛藤・軋轢に帰結する4部構成となっている。
アリアスターならではのゾッとするサイコスリラー描写が散りばめられ、展開の移り変わりも早いので、間延び感はさほどない。
ボウの一人称視点のため、現実と妄想の境目がなく、付いていけない観客は、最後まで真相分からず愕然とするだろうが、世界観に入り込める人なら、ボウの内面に穿ちいって、心地よささえ感じるだろう。
ホアキンは当時アカデミー賞を獲ったばかりだったのもあり、出演を渋っていたそうだが、アリが説き伏せて、形になったそうだ。次回作の西部劇がテーマのeddingtonの出演も決まっているらしいので、今から楽しみである。
アリアスターの交響曲とも言うべき音色に、身を委ねてほしい。
有名になった前2作と比べるとリアリティにおいて劣る
アリ・アスターさんがある種のカルト作品監督として有名になったのは「ミッドサマー」くらいからと思います。が、偶然にも私はその前の「ヘレディタリー」から目をつけていて、いずれの2作も映画館で不快度MAX(笑)で鑑賞した記憶が新しいです。
カルト宗教、ドラッグ、怨霊、悪霊の類(?)、極度の社会的ストレスなどなど・・要因をあげたらキリがないですが、現代の社会問題に通じる何かしらの原因で狂ってしまった方々が常軌を逸した行動をとるという・・・人間自体の不気味さ怖さを切り取るのが本当にうまい監督さんだと思います。
今回は肥満体でハゲ散らかした見た目中年男性、精神的に不安定極まりなく、強迫観念がいつも頭を埋め尽くしてる様な方が主人公。医師からカウンセリング受けて向精神薬の処方を受けつつ・・・既に出オチの状況です。
仮に現代が舞台ならこの主人公のかなり老けた見た目にもかかわらず、初老のおっさんの私よりかなり年下(1975年生まれとのこと)なんか・・・と設定見て唖然としました。ホアキン・フェニックスさんのうだつが上がらない、情けない人オーラの出し方、演じ方が素晴らしいと思いました。
日々精神的に追い込まれ病んで居てそれどころでない主人公のボーが父親の命日に母親の元(実家)に里帰りするというミッションが浮上。
薬物中毒者、犯罪者、不法移民(おそらく)が徘徊するスラム街のオンボロアパートからの旅立ちからして不幸と苦難と理不尽の連続です。予定通りに行くわけなんかなく状況を打開しようとすればするほどドツボにはまる悪循環。
その環境下において考えられる最悪な結末が面白いくらいに現実化するっていう点で悪夢を通り越してさながらコメディ作品の様です。
彼と彼の母親との過去の因縁、関係性が徐々に明らかになりつつ事態はさらに醜悪な方向に向かっていって・・・というストーリーですが、映像、音響効果含め「不快な表現」は各イベントが分かりやすく大変残酷で明瞭な印象を受けました。
しかし彼が違法なもの含めてドラッグ(手段含む)を常用させられている環境下において「彼の妄想が一部映像化した」との疑念が生じざるを得ず、妄想の映像化など表現の幅を拡げようとしたことで想定外にリアリティさを削いでいた様に感じます。
その点だけみると監督の過去作のある種吹っ切れた現実直視のリアルホラー路線からは外れるのかな、と思いましたよ。
また、これってそもそもホラー、サスペンス仕立てなだけで狙いはそこにないのかも。
欧米って映画の評価なんかみると社会的地位が低い人がさらに失墜するのをバカにして笑う・・・っていう風潮があり日本人の共感性の強い感覚からするとちょっとどころじゃくむしろ正反対なのですが、もしやその範疇の映画なのかも、と疑念もいだきました。
ボーは何をおそれているのか?
子育ては無償
映画を見慣れていれば耐えられるけどたまに映画でも観るかって選んで行くような作品じゃぁないですね。
妄想なのか現実なのか日常にありえない展開で話が進みます。
もちろん「日常でありえない!」と作品批判するつもりはありません。
そんなこと言ったらゴジラは観れませんからね。
小説は読んでいる自分の頭の中で場面を展開させるのでどのようなシーンでも自分で肯定して読み進めます。ところが映像になると視覚でフィルターがかかるのでしょうか、
なぜか「そんな事はありえないだろう」と思ってしまうものです。
つまりこの作品は「小説を読むように映画を見る」という能力が必要とされるのです。
うーん難しい。
母と息子のいびつな愛情を描いていてジャンルはコメディとされています。
前半はコミカルで可笑しなシーンもあるけど中盤から後半、ラストはもう受け容れるのに精一杯。
「子育ては無償の愛であり見返りを求めてはいけないのです。」と感想を語っておきます。
理解が追いつかない
ささいなことでも不安になってしまうボウは、自室で静かにしてるのに音がうるさいと言われ、逆に大音量で音楽をかけられ朝方まで寝付けず、里帰りの予定だったのに夕方まで寝坊してしまい、急いで支度したが、ほんの一瞬のスキに鍵と鞄を盗まれ、母に帰れなくなったと電話して経緯を説明した。たが、その後母が突然、シャンデリアの落下で死亡した。ボウは家に帰ろうとするが、奇妙な出来事が次々と起こり、現実なのか妄想なのかも分からないまま、ボウの里帰りは・・・てな話。
とにかく長い。
ところどころ笑いやエロも有ったが、アラフィフの裸を観ても興味湧かず。
夢なのか現実なのかわからず、なぜそんな天井に人が?とか???だらけで理解が追いつかない。
ミッドサマーのように若く美しい女優でも居れば多少興味も持てたかもしれないが、ホアキン・フェニックスに興味が無いから、ただただ長くて疲れた。
最後も何?訳わからず合わなかった。
山の位置を確認しておきましょう
【ボー然とする映画】
怒涛の悪夢パンチを3時間浴び続ける。そんな中にも映画の軸には映画普遍のテーマを組み込む巧みさ。そしてアッパーカットのような重量のラストに、鑑賞中も鑑賞後もボー然となる。
◆概要
【監督・脚本】
「ミッドサマー」アリ・アスター
【出演】
「ジョーカー」ホアキン・フェニックス
「プロデューサーズ」ネイサン・レイン
「ブリッジ・オブ・スパイ」エイミー・ライアン
「コロンバス」パーカー・ポージー
「ドライビング・MISS・デイジー」パティ・ルポーン
【公開】2024年2月16日
【上映時間】179分
◆ストーリー
日常のささいなことでも不安になってしまう怖がりの男ボーは、つい先ほどまで電話で会話していた母が突然、怪死したことを知る。母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、そこはもう“いつもの日常”ではなかった。その後も奇妙で予想外な出来事が次々と起こり、現実なのか妄想なのかも分からないまま、ボーの里帰りはいつしか壮大な旅へと変貌していく。
◆
◆以下ネタバレ
◆
◆ブラックコメディ
胎児の目線で、心臓音と羊水音、そして何やら女性の叫ぶ声が聞こえる冒頭(微かな音量は配信ではおそらく聞き取れない、劇場での音への監督のこだわりが伝わってくる)。胎児は落とされ、泣き声も上げない描写から、本作が生まれもった障害を抱える人生を描くことが輪郭化され、タイトルへ。監督が本作を「ブラックコメディ」と例えたように、そこからのいわゆる第一章(ボーが意識を失いブラックアウトするたびに章を分けるとしたら)は怒涛のブラックコメディの連続。カオスなスラムで門戸に全速ダッシュ笑、卑語の落書きの壁をつたい、部屋では爆音とその冤罪にさいなまれ、ついにはスラム民から部屋を荒らしに荒らされる。極めつけに「風呂に不審者、路上に殺人鬼…」と裸で訴え発砲され、見事にカークラッシュ。第二章以降もこれでもかと続くボーの災難には、時に笑えてくるほど、時に吐き気をもよおすほど心身が疲弊する感覚。3時間みっちりブラックコメディという悪夢を味わえた。
◆親子
そんな怒涛の展開の中、本作の軸となったのは母と子の関係性。家族といえば監督の過去作『へレディタリー』『ミッドサマー』でも描かれた、いわば映画に普遍のテーマであり、特に本作については監督が「母親の愛が時として子供を窒息させる条件付きなもの」と語っている。モナはあらゆる手を使いボーを帰省させながら、声高に罵りボーの手にかけられてしまう。その倒れた先のボックスは、ボーが昔愛でた鑑賞魚の水槽であり、母もやはりボーからの“愛”を欲していたという演出だった。ボーはボーで、母の怪死の知らせに泣きじゃくる描写もありながら、母の叱咤にはまるで人格が変わったかのように従順。ボーが少年のように甘えてしまう姿(原題「Beau is afraid」はおそらく「Boy's afraid」のダブルミーニング)は母の愛の圧による負の産物にも見えた。また一方で、ボーが父親の幻影を渇望する姿もちらほら。あの現実とも妄想とも取れる森で出会った男に対する動揺もしかり、そもそも冒頭でボーが帰省に気が乗らなかった様子は、それが父の命日という記念日で、父の死を目の当たりにするのを本能的に拒んだからではなかったか。そう考えると、本作で描かれた一連の災難は、ボーが帰省を遅らせる、あるいは免れるために能動的に受けたものとも取れる(ラストの裁判のシーンでもそんな表現があった)。現実と妄想の線引きはあまり明確にされていないが、それが妄想だとすればなおさらそう思える。
◆ラスト
やがてたどり着いた裁判所(のような場所)。ボーは森で出会った父(のような男)と同じような爆発の仕方でその姿を消す。その後エンドロールではあの大勢の観衆の姿が消えており、裁判のシーンはボーの妄想と取ることができる(つまり父親も妄想)。そもそも裁判長もボーの弁護人もおらず、いるのは母の弁護人だけ。つまり、あの弁護人の声はボーが自らを律するべく作り上げたボー自身の別の本音とも取れる。そこには母をハメた過去や、辱めを与えた描写があり、手すりを割り落とすほど怒る母の姿も含め、あれこそボーの懺悔の表れではなかったか。観衆の白い目に覚悟を決めたボーの表情が印象的で、本作で唯一“おそれていない”、その最期だった。そして気になった事が一つ。本作は“水”が象徴的で、ボーが精神を安定させるために飲む薬は、水がないと飲む事ができない。ボーの姓の一部Wasserは独語で、名前ボー(Beau)のEauは仏語で、それぞれ水を意味する。冒頭の羊水音も含めて、水はボーの真髄であり、心身を安定させるものでもある。ボーの爆発後、ボートの下でもがく描写には、微かに少年ボーの声が聞こえた気がした。ボーがあの裁判妄想の中で自らを律し、水の中に消えたという表現は、まるで羊水の中へ潜るようでもあり、母の元へと退化し帰化していった…そんな風に解釈してみても面白い。いずれにしても、アリ監督という鬼才が3時間の重量で投げかけてくる問いに、一度の鑑賞で咀嚼できることなどほんのわずかなのだろうけど。
◆関連作品
○「ミッドサマー」(’19)
アリ監督の前作にして代表作。頭が錯乱します。プライムビデオ配信中。
○「へレディタリー 継承」(’18)
アリ監督の長編デビュー作。理解するには悪魔崇拝の知識が必要。プライムビデオ配信中。
◆評価(2024年2月16日時点)
Filmarks:★×3.7
Yahoo!検索:★×4.0
映画.com:★×3.8
この世界は理不尽ばかり★3
不条理シリアスギャグ
難解すぎて置いて行かれた
〈あらすじ〉
精神が不安定なボーは母親に会うためにアパートで準備を進めていだが、出発当日寝坊してしまう。当日の便に間に合わないと携帯で母親に告げたが、しばらくして母が事故死してしまう。その日から彼の周辺が非現実的な騒動に巻き込まれる。唯一の家族であるボーは母の葬式へ出発する...
冒頭から結末まで奇妙奇天烈な映画で何がなんやらよくわからなかった。
『ジョーカー』のオマージュらしきものが見れてうれしい反面、脚本自体が未完成のような気がしてスッキリしませんでした。
アリ・アスター監督といえば変な宗教が出てくるのかと思いましたが、今作は「母親」をテーマにした作品で、かなりアクの強い内容になっています。
個人的に面白かったシーンはホアキン・フェニックスとパティ・ルポーンが屋根裏部屋に上がる階段で会話しているシーンがかなり滑稽。
感想です
水色のペンキ
ボーの日常は、まるで毎日ホラー映画に出演しているかの様な恐怖に支配されていて、彼の様なパラノイアがこの社会でどれだけ生きづらいかを観客が体験できる作りになっていました。
劇中にやたらと出てくるゾンビみたいなジャンキーや異常に攻撃的な人達が、ジャンキーとホームレスが溢れ銃による殺人が頻発している病んだアメリカを象徴していましたよね。フィラデルフィアの街の映像をYouTubeでみたことがありますが、本作にでてきた様に街中ゾンビ(ジャンキー)だらけになっていましたよ。だから、ボーの妄想にもリアルな元ネタがあるのです。
私にはどうにも個人的なボーのストーリーに思えず、アメリカ社会全体の病みをボーの体験に投影させて鑑賞してしまいました。
また、ボーの母親も競争に勝ち抜き経済的には成功していましたが、精神的には孤立し追い詰められていそうでした。皮肉なことに、彼女が息子を《まとも》にしようとしている努力が成功に繋がり、《まとも》ではない息子をますます受け入れられなくなったのではないかと。
ボーは実家が太いからホームレスにはなりませんでしたが、もし母親が居なくなったら《死ぬ》か《ゾンビ》かの2択になります。嫌悪しているけど居なくなったら生きられなくなる相手に支配されるのは、確かに恐ろしい。
たかが実家に帰る無職中年男の話をここまで広げて作品を作り上げる創造力と力量は、アリ・アスターが実母から貰った《才能》というギフトでしょうか?アリ・アスターの母親が毒母であったとしても、彼はボーと違い成功者となりました。これも皮肉ですよね。
ボーに起こったこと全てがボーの妄想かと言われると、私はほぼ自宅のベッドで見ていたボーのリアリティのある妄想じゃないかと思いました。その中で一番怖かったのは、水色のペンキを飲むところ。私には全く思いつかないです、
また、ホアキンのだらしない姿と不安そうな表情がボーのキャラクターにぴったりでした。今一番のっている俳優はホアキンかと思います。
前半は超絶面白いが、、
疲れがでて中盤うとうときた。3時間の3幕劇みたいな感じ。
第1幕のボーの街とアパートがいちばん面白い。現実かどうかもわからないむしろホラーゲームみたいは世界の不条理劇からの地獄落ちまでのスピードとアイデアとディテールは相当面白い。実家に帰る予定→眠らせてもらえない→水がない→ここからはゾンビは出てこないがゾンビゲームみたいなもんだけど、ホアキンの身体性が面白い。ゲラゲラ笑えて特に浴槽のアレは随分尾を引く笑いをもたらす。ここまではかなり素晴らしい。
で、跳ね飛ばされて目が覚めてからの2幕も捉えられた外科医師夫妻と娘のヤバさからなかなか実家に帰れないというところまではいいが、そこからがタラタラして進まない。第3幕は、そこから脱出して森に入ってから仕掛けがわかるところまでだから森から先は前半が面白すぎる分、失速感がすごくて、正直つまらない。答えまでに時間がかかり過ぎ。いや、何か重大なことがあったのかもしれないけど、過去の話がタラタラはじまった辺りから眠気が…
当然やりたかったのは母と息子のラインなんだろうけど、むしろ目的消失して変な家に閉じ込められたままの状態のほうが面白かった。まあそれだと単なるギャグでしかないけどさ。
リズムが平凡でつまらん
仲良しや"好き"が普通な距離感の近さを疑え
こうした解釈が合っているかは分からないけど、個人的には相反する感情を抱く家族や友人への気持ちを少し思い出した。例えば会いに行くのは面倒くさいとか思って、会いたくない嫌な理由を些細なものから挙げても、そうした重い腰を上げて実際会ってみると記憶で思ったより楽しめてその場はまた会いたくなったり(けどバイバイすればまたなかなか会わない期間が続いたり)、逆も然り会いたい会いたいと会うことが普通になってても案外心ではそれほどでなくて実は邪険・面倒に感じていたり。身内への愛を試す映画。
意外性に富んだファーストカット。仕事描写がないのにクレジットカードを持っていて、セラピーにも通っている独身一人暮らしの中年男性。住んでいる地域は、というか家の前が無法地帯ヤバすぎる"ゴッサム"。一度家を出たらおしまい、帰宅も命がけ?絶望したよ、そんな通りです。そうした家の周辺を舞台とした一連のくだり流れはテンポよく楽しめたし、素直に笑えた。あんなのビックリ!
が、そこからがワケ解らなくなっていく…アスター節迷宮に迷い込んでいく。それらはまるで仕組まれた"ゲーム"のように不条理極まりなく哀れなる目に無惨にも遭っていくボウ。行く先々で、様々な要素を内包しているのを感じるカオスに見ているうちに思考停止してしまった感。前作までより更に間口を狭くして観客を選ぶように、面白さはまだ分からないけどアリ・アスターらしさは全開?!
終盤のネタバラシパート(?)で主人公の上述したような謎のバックグラウンド理由と共に『トゥルーマン・ショー』トゥルーマン・バーバンクばりに(??)人生切り売りされていたことが明らかにされる。あと、まさかの父親の正体!『ヘレディタリー』のアレックス・ウルフ君の気持ちで恐る恐る屋上に乗り込んだコッチの立場と気持ちよ。バカらしくなった(笑)!!
いや〜体感時間しっかりと長かった…!今回も人の状態を厭〜な形で突き詰めて観客を突き落とす、色んな意味で"悪魔"的だ?正直、個人的には同監督の長編作品前2本(『ヘレディタリー』『ミッドサマー』)のほうが好きだった。けど、ホアキン・フェニックスはこのよく分からない作品の中でも流石の存在感で頑張っている。そして、劇場での鑑賞体験としては、昨今で言えば『アステロイド・シティ』ばりの"お洒落"観客のキョトン顔を期待できそうだ。
勝手に関連作品『ゲーム』『オールドボーイ』『トゥルーマン・ショー』
全347件中、241~260件目を表示