どうしても斎藤工監督作、というところに印象を引っ張られてしまうのは仕方ない。
正直に告白すると、「斎藤工監督」「高橋一生主演」という看板だからこそ観た、みたいな部分は確かにある。いや、大いにある。
イケメン好きでスミマセン。
斎藤工がかなりの映画好きなこともあり、しかもかなりのマニアック・芸術指向なこともあり、悦に入った芸術風映画かもしれない、という覚悟があった。
色眼鏡全開でスミマセン。
結論から言うと、とても良い映画だった。
なんだか「イケメン監督とイケメン俳優」に惹かれて恥ずかしい気持ちすらした。
俗っぽいヤツでスミマセン。
でも、結果として多くの人に観てもらおうと思ったら、「斎藤工長編初監督作」というアオリは正しいし、「高橋一生、松岡茉優、リリー・フランキー出演」という宣伝も正しい。
せっかく良い映画を作っても、観る人がいなければ埋もれていくだけだ。
肝心の内容だが、映画の前半は父親失踪という苦労を背負った家族の今と、次男・幸治の回想でしっとり進んでいく。とある家族の光景は、説明的なセリフは排除され、映像だけが彼らの心情を推し量る鍵だ。
心境を吐露するようなセリフは、長男・芳幸しか口にしない。
芳幸のセリフだけが、物語を補強する。いわば隠れたナレーション。
淡々と家族を映す前半から、ガラリと空気が変わるのは弔問客の挨拶から。
一見して癖の強そうな彼らの、なんとも脱力感溢れる挨拶(?)に「何なんだコレは」と思わずにはいられない。
何でこんな茶番に付き合わされてるんだ?と思うようなアクの強さが、父親不在の13年を鬱積と切り離してしまう。
それまでの思いがリセットさせられるような、豪快なしょーもなさ。でも、確かに親父はそういうしょーもない人間で、しょーもないなりにも変な優しさのようなものはあった。
出ていく長男と、作文のような挨拶をする次男は、心持ちとしては同じ、なのだと思う。
死んでしまえば、体は焼かれて煙が空へと昇り、消えていく。そうなるのは誰も彼も同じだ。
悲しんでくれる人が少なくても、しょーもなくても、混じりっけなしに死を悼んでくれるなら、煙は高く昇るんじゃないだろうか?
監督こだわりの俳優陣は、この映画を作り上げるためになくてはならない人選だった。
母親役の神野三鈴は、特に素晴らしかったと思う。
斎藤工にはまた映画を撮ってもらいたい。出来ればもう少し娯楽性のある作品で。でも、本人がアート系の作品好きそうだし、次もきっとこんな感じの作品なんだろうな。