たかが世界の終わり
劇場公開日 2017年2月11日
解説
「Mommy マミー」「わたしはロランス」などで高い評価を受けるカナダの若手監督グザビエ・ドランが、「エディット・ピアフ 愛の讃歌」のマリオン・コティヤール、「アデル、ブルーは熱い色」のレア・セドゥー、「ハンニバル・ライジング」のギャスパー・ウリエルらフランス映画界を代表する実力派キャスト共演で撮りあげた人間ドラマ。劇作家ジャン=リュック・ラガルスの舞台劇「まさに世界の終わり」を原作に、自分の死期が近いことを伝えるため12年ぶりに帰郷した若手作家の苦悩と家族の葛藤や愛を描き、第69回カンヌ国際映画祭でグランプリに輝いた。若手作家のルイは自分がもうすぐ死ぬことを知らせるため、長らく疎遠にしていた母や兄夫婦、妹が暮らす故郷へ帰ってくる。しかし家族と他愛のない会話を交わすうちに、告白するタイミングを失ってしまい……。
2016年製作/99分/PG12/カナダ・フランス合作
原題:Juste la fin du monde
配給:ギャガ
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ヘンな感覚の映画だった。
とりあえず内容を置いても、見え方(撮影方法)からして、顔のアップでずっともっていくので、世界がとらえられなかった。
(常に顔のアップなので)住居や調度や昼夜や体型や姿勢や各々の位置情報や食事の内容がわからない。くわえて単焦点(背景がボケるカメラ)なので、なおさら世界がわからない。
が、わからないのでかえって普遍性があった。普遍性とは、固有の家族を描いている──のではなく、いわゆる「家族」の有り様が描かれている気配──があった。
ところがその家族は全員がさいしょからすさまじいわだかまりをもっていた。
ぎこちなく、疑心暗鬼で、帰省したルイのきもちをさぐっていた。
それが、なぜなのかわからない。ずっとわからなかった。
IMDBの映画の概要をつたえる欄に『末期の作家であるルイ(ギャスパー・ウリエル)は、久しぶりに家に帰り、家族に死にかけていることを伝えました。』とあったので、そうなのか──と思ったが、映画内にはルイが末期であることも、家族に死にかけていることを伝えるばめんもなかった。(と思う。)
映画内には、すさまじいわだかまりを持ってしまった家族が、いがみ合っているところ、しか描かれていなかった。
だが、その様子は、なんとなく滑稽でもあった。
笑える要素はまったくない映画だが、そこはかとないユーモアがあった。
なにより映画はおもしろかった。
日本映画で、技量や社会体験が未熟なため、よくわからない映画がある。その種の暗愚をこの映画には感じなかった。
グザヴィエドランといえば天才肌の監督だった。ここで使っている天才は日本映画界で使われるクオート付の(マスコミ称や自称の)天才とはちがう。ほんものの天才だった。
キャリアのさいしょから母親を描いてきた。J'ai tué ma mère(2009)やMommy(2014)で母親像と家族のなかにいる自分自身を描いてきた。
そのすぐれた観察力を本編でも感じた。母も兄も妹も兄嫁も、ルイにたいして依怙地になっている理由がわからないのに、なぜか家族らしさがあった。
役者の巧さもあった。コティヤールもセドゥもカッセルも迫真だった。ナタリーバイの厚化粧は妖怪人間ベラのようだった。
とくに妹セドゥと兄嫁コティヤールが巧かった。センスのない両肩タトゥも「地元に残った妹」の雰囲気をだしていた。
ルイと妹シュザンヌ(セドゥ)が話しているとき、妹は頻りにたばこを吸っていた。あまり記憶がない幼少のとき出ていった兄、社会で成功した兄──にたいするポーズや照れが現れていた。
ちょっとした気づきだが、そのシーンで単焦点になるところがあった。背景でセドゥが全裸になって着替える。その様子はぼけて見えないが妹は頓着せずに着替えた。
個人てきにこのシーンが気になった。
なぜかというと日本では裸をトクベツなものとしてとらえる。なんとなく撮ったり、たまたま映ったようには撮らない。日本では(女の)裸に神格や娯楽要素を置く。
が、フランス/カナダのグザヴィエドランは大人かつゲイなので、裸をトクベツ視していなかった。
だから「兄のまえで躊躇せずに全裸になって着替える妹」(しかもそれがボケて見えない)の描写は、われわれ(日本人)から想像もできないほどの大人な社会に見えた。のだった。
ただしこのシーンはルイがゲイであり、妹がそれを知っていることを示唆していた。と思われる。ルイの病がHIVだということもなんとなく暗示していた。のではなかろうか。(じっさいのところはわからないが。)
(またルイのゲイはさいしょの兄嫁との会話で「あなたもいずれ子供をもつ」と兄嫁が言ったときに兄アントワーヌ(カッセル)が苛立ったところと、思い出のカットシーンで、なんとなく把捉できる。と思われる。)
映画は、憎しみを前面に押し出していながら、むしろ家族愛を語っていた。
またわれわれ(日本人)の世界にはないアンニュイがあった。
この年(2016)のカンヌで、パルムドール(第一位)はケンローチのわたしは、ダニエル・ブレイクへ行ったがグランプリ(第二位)をこれがとった。
なおルイ役ギャスパー・ウリエルは夭逝した。
『2022年1月18日、フランス・サヴォワ県のスキー場でスキー中の衝突事故に遭いグルノーブルの病院に搬送されたが、翌19日に死去。37歳没。』
(ウィキペディア、ギャスパー・ウリエルより)
2022年3月11日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD、VOD
ー グザヴィエ・ドラン監督が「家族」をテーマに新境地を開いた濃密な会話劇。フランスを代表する実力派スターが共演し、感情を激しくぶつけあう演技合戦を繰り広げる。ー
■「もうすぐ死ぬ」と家族に伝えるために、12年ぶりに帰郷した人気作家のルイ(ギャスパー・ウリエリ)。
彼の長きに亘る不在に慣れていた家族の戸惑いと喜びと怒りを、長兄アントワーヌを演じるヴァンサン・カッセル、その妻カトリーヌを演じるマリオン・コティヤール、妹シュザンヌを演じるレア・セドゥが、夫々の立場で、ルイに対する想いを表明する。
久しぶりに家族で食卓を囲みながらも、ひたすら続く意味のない会話。
ルイはデザートの頃には自身の境遇を打ち明けようと決意するが、兄アントワーヌの激しい言葉が頂点に達した時、それぞれが隠していた思わぬ感情がほとばしる。
◆感想
・初見時には、豪華絢爛なスターが集まりながらも、散漫なイメージがあった。
・だが、「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」が公開される前に今作を見返すと、そのイメージは覆った。
・家族の中で、ゲイとして名を上げながら音信普通だった男が久方ぶりに実家に帰ってきた時の家族それぞれの想いがキチンと描かれていたからである。
・特に、長兄を演じたヴァンサン・カッセルの苛立ち振り、妻を演じたマリオン・コティヤールの抑制した演技。素直に兄の帰還を喜ぶ妹シュザンヌを演じるレア・セドゥの姿は見事である。
<母、マルティーヌの息子が久方ぶりに帰ってきた理由を問わずとも、その哀しき意味合いを理解する態度。
ルイが、最後まで自身の境遇を言い出せずに、実家を長兄から追われるように出る姿。
これは、私見であるが長兄アントワーヌは、ルイが久方振りに戻って来た理由を母と共に、薄々感じていたのではないか・・。
そして、その事実を受け入れ難いために、敢えてルイに対し、粗暴な言葉で追い出そうとしたのではないか・・、と思った作品である。
ルイ=グザヴィエ・ドラン監督に見えてしまったのは、私だけであろうか・・。>
2021年11月20日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
ここまで延々と描く必要あるのだろうか?象徴的なシーンで伝えるのが監督や俳優の力量だと思う。賞を取ったから自分にとっても価値ある映画だ、とは限らないといういい教訓になりました。
2021年8月30日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
あまり人と言い争いをしたくないので、見ててちょっとしんどくなりました。まぁ、けどそんな単純な話ではないよね。これが現実よね。って。言いたいことを言わずにいるのもだめやし、言いすぎるのもだめだし。人間って不器用だなぁと思いました。
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