浮雲のレビュー・感想・評価
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全くハマらず。
えっ、名作と言われてるらしいので観たけど、マジですか? わたしには良さが全くわからず…。 富岡がなんかする度に、「なんだこいつ。」と口走ってしまった。終始イライラ。 事あるごとに、すぐに死ぬ死ぬとか言う2人にもイライラ。どうぞどうぞ、って感じ。 ダメンズに捕まった女の一生、としか思えなかった。 くっついたり離れたりしてるウダウダがまたやたら長く感じる。 時代的に顔にも流行り廃れがあるんだと思うけど、富岡の見た目もなんか好きになれず。それが大きいのかな。最後の方でリンゴ食べてる時にクチャラーだったのもほんとにヤだった。 当時では、言い方古いけどトレンディドラマ的な扱いだったのかなぁ。とか思った。 濡れ場が無いのに、やたら想像させようとする感じだけ出してたなぁ。 昔の千駄ヶ谷駅とか見られたのは面白かった。 あと、こんな昔から屋久島の事を月に35日雨って揶揄してたんだーって思った。
悲惨な最後だよなあ
高岡もゆき子も、シナリオで読んだ印象と異なる部分があった。高岡は想定よりも腹の立つ言い方でゆき子を言いくるめ、口をすぼめた言い訳のような物言いが多かった。 二人の関係も、シナリオではもっと緊張感が走っているという印象があった。映画では、二人で居る時は、ある種の安定感みたいなものがあり、むしろゆき子が独りでいる、または、高岡を巡る人物たちと対峙している時の方が、より高い緊張感があり、恐ろしかった。ゆき子は、おせいや邦子の前で冷徹な表情を見せる一方、高岡の前では感情的で、既に考え尽くして疲れ切っているようにも見える。高岡の前であえて「悲劇の女」を演じているようにも見えるのだ。 このゆき子の性質から高岡の困惑が伝わってきて、割と二人の関係がフェアなようにも思えてしまう。(無論、中絶についてはゆき子が完全に不利であるが) また、伊庭の宗教の様子は、動きが加わることで想像以上に、面白く映っていた。ゆき子高岡の悲惨な状況との対比で、物語に抑揚がつけられていた。
駄目な女ね
上岡龍太郎作詞のマヒナスターズの曲が呼び起こされる。 こういう女性像は、男性視点で作られた都合よい虚像なのか、女性固有の情念なるものかはさておき、日陰に身をおかなくてもよい今日においては、描き方は変わるのだろう。言動はどう考えてもダメ男なんだが、それでも引力のある森雅之が好演。
ヤルセナキオ‼️
この「浮雲」は成瀬巳喜男監督の最高傑作と言われてますが、成瀬巳喜男監督のフィルモグラフィーの中では極めて異色の作品だと思います‼️成瀬巳喜男監督といえば1951年の「めし」以降、平凡な市井の人々、わびしい夫婦の日常をゆったりとしたタッチで微笑ましく描いた作風をお家芸としていたと思うのですが、この「浮雲」はかなり残酷です‼️容赦ないです‼️どうしようもなく煮え切らないダメ男と、それと知りながら彼を愛し続けていくことで、次第に堕ちていく哀れな女の生態を哀切に冷徹に描いております‼️戦争中の南方で知り合った二人は帰国後もズルズルと関係を続ける。女はアメリカ兵のオンリーとなるし、男は仕事がうまくいかないし、その上温泉宿の女将と同棲したりするし、女も義兄の囲い者になったり、挙句の果ては二人で屋久島に流れていき、病で女は死んでしまう・・・これも人間、これも男と女、これも愛、胸にナイフが突き刺さるような映画ですね‼️スゴいです‼️男の小ずるさを完璧に表現した森雅之さんの至芸、女の哀れさを演じる高峰秀子のつまらなさそうな所在なさそうな表情と演技‼️ウマいです‼️南方に始まり、焼け跡のボロッちーホテルや汚い小屋、長岡温泉、ラストの屋久島と次々と舞台を変え、浮雲のように漂いながら繰り返される二人の会話の悲しさ、切なさ、愚かさ、そのピッタリ合った呼吸が見事ですね‼️しかもコタツに入りながらとか、ローソクの灯の下でだったりとか、そのシチュエーションもミョーに印象に残ってます‼️登場人物全てが不幸のどん底にたたき落とされる悲しい映画なのですが、女たらしのぐうたら男が、女の亡骸を抱き、嗚咽するシーンで締めくくる、成瀬監督の心憎い演出‼️救いがないようなラストですが、逆に観ている者もこのラストで救われたのではないでしょうか⁉️女は命を落とすことで、ようやく男の心を本当に摑むことができたのですから
望んでも手の届かない理想的な家庭への思いが…
小津安二郎監督の 「俺に出来ないシャシンは溝口の祇園の姉妹と 成瀬の浮雲だ」との有名な言葉を ある方からこの“映画.com”で教えて頂き、 「めし」「山の音」に続いて この「浮雲」を再鑑賞した。 内容についてはかなり記憶も薄れていたが、 改めての鑑賞では、 廃退的な主人公の生き様にも関わらず、 何故か作品の世界に引き込まれてしまった。 小津のコメントは、もちろん作品の完成度の ことはあるのだろうが、 それだけに留まらない「俺に出来ない…」の 意味が少しは分かったような気がした。 この作品にしろ、 溝口の「祇園の姉妹」にしても、 小津が描く主人公達とは、 その置かれている状況自体が 違っているように感じる。 表面的にも、 家庭という形が初めから無いか、 あっても有名無実化している2作品の 主人公達に比べ、 小津の取り上げる主人公達の家庭は、 人間関係の上でも経済的にも安定しており、 その上での、苦悩・葛藤・喪失感への 家族の心のひだを細やかに小津は描く。 一方、溝口と成瀬の 上記の2つの作品の登場人物は、 ギリギリの生活からの やむを得ない選択の毎日から 安定した家庭を望もうにも手が届かず、 でも、その中で理想の家庭を希求してもがく 人間像という点で 前提そのものが大きく異なることが、 「俺に出来ない…」発言に繋がっている ようにも想像した。 今回、連続鑑賞した成瀬3作品の主人公達に 共通して感じたことは、 望んでも手の届かない理想的な家庭への 思いだったが、 それを登場人物を通じて繊細に描く演出に 長けた成瀬巳喜男は、 やはり日本映画の代表的な監督の一人 のように感じる。
二人の情念のさまよいを、見事に描ききった作品。
小津監督が「俺には撮れん」とおっしゃったことが有名な映画。 小津監督の映画は『東京物語』『早春』『秋日和』しか鑑賞していないけれど、確かに、この映画は小津監督には撮れないと思う。小津監督の様式美に合わないと思う。『早春』にも不倫は出てきたけれど、グダグダさが違う。 コメディチックな要素のある小津監督作品。 この映画では…。描かれていることが廻り回ってブラックコメディだとしても、それは、自分の心を、普段の生活を覗き見て出てくる、シニカルな笑い。 成瀬監督作品初鑑賞。 評価の高い作品と聞く。だが、初見では、高峰さんを見る映画かと思った。 高峰さんの映画も『二十四の瞳』しか観ていない。だから、その役柄のギャップに驚き、こんな情念を表現なさるんだと食いついてしまった。 そして、その高峰さん・ゆき子を際立たせる男が二人。 一人は富岡。世の中を斜めに見ていっぱしのことを言うが、結局、流されるだけで、何も生み出さない。演じる森氏の映画は『羅生門』『雨月物語』しか観ていない。『雨月物語』でも不実な男を演じていらしたが、キャラクターが全く違う。『雨月物語』の源十郎は不実の中にも、源十郎なりの”実”を見せるが、この映画の富岡は陰キャラで厭世観をばらまき、”実”の中に”不実”を匂わせる。 もう一人はゆき子の姉婿・伊庭。行儀見習いに来た、妻の妹・ゆき子に手を付け、その後も悪びれずに、ちょっかいを出す。戦後の時流に乗って、インチキ宗教の教祖になるという陽キャラで即物的な男。演じる山形氏の映画は『地獄門』しか観ていないが、こちらもキャラクターが全く違う。『地獄門』では清廉潔白で、袈裟がこの人の妻であることを誉と思うような御所侍を演じていらした。『地獄門』の主人公・武者盛遠がどうやっても、武もふるまいも、性格もかなわない人物。なのに、この映画での伊庭は…。このギャップ。 役者って、すごいなあと身震いさせられる。 情念。 「おせいに勝った」みたいな、ゆき子の台詞。 人が必死になると釣られて、バーゲン会場でとにかく何か手に入れなければと争う人々を思い出してしまった。粗悪品か、本当に自分にふさわしいものかを吟味することなく、とにかく手に入れることに価値がある的な。 ゆき子にとっては、それでも、周りの男の中では富岡と、選んでいるつもりなのだろう。伊庭は論外。逃れて、インドシナに赴任すれば、同僚の加納が部屋に忍んで来る。ならばと、富岡を選ぶ。インテリゲンチャに憧れる気持ちはわかる。ところが、帰国すれば、日本の惨状は。富岡が、苦労しそうな妻を見捨てなかったところは評価したいけれど。ゆき子にしてみれば、裏切り。 見捨てられた口惜しさと、自分の方が女としては上と思いたい気持ち。自分の存在価値を確認したい気持ち。「一人になると日が長うなりますわ」とは、小津監督の『東京物語』の中の台詞だが、恋に破れても同じであろう。自尊心が低い人ほど、一回でも自分を認めてくれた人・ものに縋りつく。 惰性とその中にちらつく相手への愛おしさと。怒り。富岡にだけでなく、こんな人生になってしまった運命への怒り。ごく平凡な関係をうらやましがる様。愛・恋なんて言葉では説明しきれない様々な気持ち。 女一人で生きていくことの難しさ。家を借りるのも、”会社”に勤めるのも、まだ”保証人”が必要な時代。姉婿と関係を持ってしまったら、故郷も頼れなかったのかもと思う。とはいえ、戦後のドタバタの時期。『砂の器』のように、経歴詐称だって、その気になればできた時代? でも、ゆき子はもしかしたらの希望を捨てきれずに、富岡との縁を完全には断ち切れない。 そんな女の、その時々の心情を表現する高峰さん。馬鹿な女と思いつつも、愛おしくなる。 そんな女に見込まれた富岡。 初めは拒絶するようなことをいうところが、責任を取りたくないと防御しているようで、今の二股・三股男の手口と同じで腹が立つ。 思っていたよりもひどい、帰国後の日本の現状で、妻を捨てられなかったように、目の前にいる困っている人を袖にできない。その場しのぎの短絡的な手助けや言葉が結局、その人を苦しめることは考えればわかることなのに。言い訳を連ねて、相手のせいにするかと思えば、自虐。最低男なのに放っておけない。 そんな色悪を見事に演じて下さる森氏。富岡がメフィストフェレスのように影を体現してくれるから、ゆき子が際立つ。 そして、この二人だけだと底なし沼に沈んでいく様子だけで、見ているのがつらくなるが、程よく、伊庭がかき回してくれる。 メロドラマはそんなに観ていないので、この映画が日本で一番かどうかは何とも言えない。 反対に、メロドラマをそんなに観ない私だが、気が付けばリピートしている。 おせいの存在とか、二人に関わっていく登場人物もいるが、ドラマチックに盛り上げるようなエピソードがないにも関わらず、最後まで見せてしまう。 リマスターの映像の質なのか、この映画の高峰さんの、岡田さんの肌のきれいなこと。高峰さんの肌は、きめ細かく柔らかそうだ。岡田さんのは若くてプリプリしている。高峰さんが大事そうに来ている毛糸のカーディガンの手触りのよさそうなこと。光と影の使い方に唸ってしまう。 そして、いろいろな解説でも読んだ”視線”の使い方。 インドシナでの食事の場面。メイドが後ろを通った時の視線だけで、二人の関係をほのめかす。 一目ぼれとはこういうことかと、富岡とおせいの出会いで思う。それを横で見ているゆき子の表情・視線にもゾクゾクする。 富岡が来るまで、旅館の別の客を見ているゆき子。ここも胸を締め付けられるシーンだ。 ラスト、病床から富岡とお手伝いさんを見ているゆき子。何を思うのか。胸を締め付けられる。 他にも、他にも。キリがない。 視線が交わらない小津映画では絶対に表現できない。 不倫というより、グダグダな二人の腐れ縁を描いた話。好き嫌いが分かれそうだ。 安易なリメイクでは、このような完成度にはならないと思う。 映画としての見せ方は、たぶん映画通や映画に関わる人々には教科書なのだろう。 そう考えると、評価が高いのも頷ける。
男女の機微
まず二人の出会いのシーンで喰らってしまった。 富岡(森雅之)が退場する時に入れ替わりで侍女が入ってくる。去っていく富岡に視線を送る侍女をカメラが正面で捉え、次に去って行く富岡の方を向くゆき子(高峰秀子)を写し、ゆき子の視線は富岡から彼に熱い視線を送る侍女へと移る。 わずか数秒の流れるような視線の動きを捉えたカメラワークでこうも語ってしまうのか、と感嘆してしまった。 また小道具の使い方が巧妙で、ゆき子の年齢を会話のやり取りで明かした上で、後にゆき子にちょっかいを出す同僚が「香木の研究をしててね」と懐から香木を取り出して嗅いでみたり、宿泊先で富岡の着替えだけが風呂敷で包まれていたり、その他ちょっとした視線の動きなど、演出が絶妙だった。 男は関係を断ち切れずにたまに寂しくなっては女に会いに行くが、女の方がその気になると男の方では引いてしまう。色気と気品のある森雅之だからこそか、どこまでも煮え切らない二人のやり取りに見入ってしまった。 全体を通して暗く重苦しい雰囲気だが、山をバックに二人で歩くシーンや船の出航のシーンなど明るく抜けの良い画面が挟まれたり、家を出入りする時にすれ違う狭い路地で遊ぶ子ども達の姿など二人の関係や生活との対比で一層眩しく映った。また、ゆき子の兄の新興宗教のシーンや、加東大介演じる飲み屋の主人との掛け合いがコミカルでスパイスとして効いていた。 しかし、ラストシーンのあまりの暗さにはズシっと来るものがあった。
とても面白かった
冒頭の引き揚げシーンからラストまで、どのくらいの年月を描いた話なのか、思い返しても判然としない。とにかく最初から最後まで、ひと組の男女がひたすらお互いを行ったり来たりする様子だけ。他には劇中一切、全く何も描かれない。 1955年に公開された映画なので当然ながら、人間の等身大をはるかに超えたバカでかいスクリーンで見られることしか想定されていない。そういう風に設計された映像を現代でも映画館で見られる贅沢。 富岡の、女に対してのみ威力が発揮される超絶クズ仕草。ゆき子(雪子?由希子?)はわかっていながらそれでも食らいついていく。その気持ちの強さを表現する高峰秀子の表情と言葉と佇まいに、見ているこちらの心が全部持っていかれる。
日本映画オールタイムベスト第3位。
成瀬巳喜男監督の戦後の日本映画を代表する作品。 林芙美子の原作。 大変な波瀾万丈の恋愛映画である。 仏領インドシナ(現在のベトナム)に始まり、東京、 そして日本の南の果ての屋久島へと転々と舞台が 移る。 戦後最大の流行作家・林芙美子のストーリーテリングは、 悲劇を喜劇のようにアップダウンさせて、 人間の好奇心を痛く刺激する。 これでもか、これでもか、女を不幸のドン底に突き落とす。 《ストーリー》 戦時中の1943年、農林省のタイピストとしてインドシナに 渡ったゆき子(高峰秀子)は、農林省の技師・富岡(森雅之)と出会う。 冨岡は妻帯者と知りながらも2人は恋仲になる。 冨岡は妻と離婚すると約束するが、戦後東京に戻ったゆき子が、 冨岡宅を訪ねると、妻が応対。 妻とは別れていないと分かる。 失意のゆき子は米兵の情婦になる。 しかし冨岡と再会したゆき子は、またも簡単によりを戻す。 妊娠したゆき子はかつて貞操を奪われた義兄(伊藤雄之助)から、 金を借りて中絶をする。 冨岡とゆき子の腐れ縁。 側から見ると、賢い上に生活力もあるゆき子が、 女にダラシない富岡に 何故惹かれるのか?とても不思議に思う。 観客は馬鹿なゆき子に、ヤキモキして、 同情したり怒ったり忙しい。 これが流行作家と映画監督の手練手管か。 大体に冨岡は妻の葬式代を愛人に借りるような男。 ちょっと子綺麗な女(岡田茉莉子)を見ると、眼が爛々と輝く。 そんな身持ちの悪い男(森)を忘れられない女・ゆき子。 この「浮雲」は日本映画を代表する映画だという。 (日本映画のベストテンの上位に必ず入っている) 高峰秀子さんは、週刊朝日に連載していた「わたしの渡世日記」を読んでいたのと、 2010年没ですので、それなりに知っています。 (本当に賢い信念の人という印象) 成瀬巳喜男監督は殆ど知らず、この映画で作品を初めて観ました。 森雅之も生存中は殆ど知らず、最近観た「羅生門」の武家、「白痴」の主役。 今作と幅広い役を演じる演技派ですね。 戦前戦後の世相も珍しい。 ゆき子の元軍人の義兄は「踊る宗教」を主宰してボロ儲けをしている。 (踊る宗教?って何? ………………これ、本当にあったらしい) 森雅之はゲスな上に、付き合う女が3人とも不幸になる・・・ という凶運の持ち主。 なんと夫(金子信雄)を捨てて森を追って上京した岡田茉莉子は 金子信雄に嫉妬から刺殺されてしまう。 森雅之の妻は病死する。 ゆき子(高嶺)も、また・・・。 …………肺結核に罹患します………… そして屋久島ではもう起き上がることも出来ず、 病いに臥せってしまう。 屋久島は雨の多い事では有数の土地。 寝床の外はウンザリする程の、雨また雨。 原作者の林芙美子について触れます。 芙美子は行動力のある女性で、戦時中にはボルネオや中国へ慰問に行くやら、 パリ留学するやら、ロンドン滞在歴もあるのです。 男と女の腐れ縁をただただ追っている本作品。 なぜか微妙に面白いのです。 演歌の世界の暗い情念・・・と同じに惹かれるのでしょうか。 日本人の私小説のルーツでしょうか。 《花の命は短くて苦しきことのみ多かりき》 林芙美子が好んだこの言葉。 映画のラストに大きく書かれて、終わります。 自分を「花」に喩える度胸。 大した女性です。 ゆき子も林芙美子も、花の命は短かったです。 林芙美子のこの原作。 芸術性もヘッタクレもあったもんじゃないです。 林芙美子は大変な流行作家で仕事を抱え込みすぎて、 働き過ぎ・・・過労で亡くなったようなものです。 ウィキペディアを読むと実生活の森雅之も 大変な女たらし・・だったらしい。 当時の庶民の楽しみが林芙美子のリアルな小説。 翻って考えても、なぜこの映画が凄い名作なのだろうか!? ゆき子の男運の悪さ、 こんな男を愛さなければ・・・ 理性で解決出来ない男女の仲。 確かに面白いけれど、 日本映画を代表する一本・・・ そう言われるとちょっと首を傾げてしまいますね。
花の命は短くて
ストーリー:なぜかモテモテの官吏は、日本に帰ってからも行く先々で美女を我が物にし、幸福を吸吸い尽くす。 犠牲になっていく女性たちが本当にかわいそう。 女優の演技力と美しさを堪能。 今週の気付いた事:クリネックスティシューの段ボール箱
南国で出会い、雨降る島で永久の別れ
高峰秀子と脚本の力がとにかく素晴らしかった。ゆき子=高峰秀子のセリフの一つ一つが最初から最後までリアルでシャープで男全般に対する皮肉と本心、普遍的。一方の富岡もゆき子に嫌みばかり言うクズ男だがどこまでも優しい。第一印象だって悪かったのに二人は出会ってしまった。子鹿のバンビのようにかわいらしいゆき子。一人で生きていける強さを持っているのにゆき子はひたすら富岡を追う。富岡もむげにしない。ゆき子がどんな男とつきあおうとどんな暮らしをしていても、ゆき子を拒むことは一切ない。優しさと腐れ縁の連続。二人は離れない。 高峰秀子、本当に凄い。娘時代の彼女はおんなじような役(親思いの健気な娘)ばっかりやらされていて本当に気の毒で可哀想だと思った。だからこのような作品にオファーされ堂々と演技するチャンスを与えられたのは女優として最高の幸せで彼女も肝が据わっていたんだと思う。この役をできる女優は今の日本にはいないでしょう。
むしろ憎しみ合っているかの男女。
近頃の恋愛映画もどきに幻滅して30年振りの再見。 愛し合うどころか憎しみあっているかの男女。 しかし離れはせず、世間との断絶を選び、もがく程に泥沼に堕ちる男女。 恋愛は悲劇だとする切実。 今の時代も実際そうなのではないのか。 ほっこりしてイイね、な恋愛映画なんて。
とにかく高峰秀子と森雅之の演技力は半端ない
男が女を愛するには責任と義務が生じる それは頭では分かってる けれども、成り行きで気がつけば深い仲になってしまっている 女だってこんな男と付き合ってもどうにもならない それは分かっているのに逃げない 気がつけば追いかけている 浮雲のようにあてどもなく漂い流されていく 千切れて別れてはまたくっついていく 理屈でない、だらしなく生きる楽さが互いに欲しいのだ いつしかそこに強烈なリアリティーを感じるようになった、自分も大人のはしくれになったということか 幸子が富岡をなじる言葉のひとつひとつにリアルで聞き覚えのある男性も多いはずと思う とにかく幸子は何度も泣く しかし富岡は泣くことはない そんな真面目な男ではない だがラストシーンで初めて泣くのだ 浮雲は流れ流れて行き着いた最果ての地で山にぶつかり雨となったのだ とにかく高峰秀子の演技力は半端ない 仏印での清純な女性からやさぐれたパンパンまで見事に演じてみせている 森雅之もまた彼が演じる富岡兼吾という男が漂よわせる空気をこれ以上ないリアリティーで感じさせる名演技だった 監督の演出も的確で過剰ではなく流麗なほどにスムーズに物語が進行する 日本映画の傑作のひとつ
恋の道行き
一組の男女の恋の道行きを画いた作品。男の価値観と女の価値観に温度差があるため、微妙にボタンの掛け違いが起こる、このアンバランスさは傍からみても不細工であるが、でもその不細工さはまさに理屈ではなく感情のおもむくままであり、ある種の羨ましさが残った。
騙されても一途に愛を追い求める終戦期の女性の強さと哀しさを感じた。...
騙されても一途に愛を追い求める終戦期の女性の強さと哀しさを感じた。男もしたたかそうでもの哀しい。 全体から戦後の世相もよく判り興味深い。当時は屋久島が最果ての地だった事も今では考えられない。
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