劇場公開日 2008年4月12日

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フィクサー(2007) : インタビュー

2008年4月9日更新

スティーブン・キング原作の「黙秘」(95)や「アルマゲドン」(98)、ロバート・ラドラム原作の「ジェイソン・ボーン」シリーズ3部作(02、04、07)を手がけた脚本家トニー・ギルロイは、「ボーン・アルティメイタム」で脚本料200万ドル(約2億円)を受け取った現代ハリウッドきっての脚本家だ。その彼の初監督作品「フィクサー」(07)は、「ディアボロス 悪魔の扉」(97)リサーチ中に法律事務所に興味を持った彼が、今から8年前に執筆を始めた悲願の企画。その人生の岐路に立った中年男の再生を描いた物語は、監督デビュー作であるにも関わらず、第80回アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚本賞を含む7部門にノミネートされる快挙となった。アカデミー賞授賞式直前のロサンゼルスにてトニー・ギルロイに話を聞いた。(取材・文:佐藤睦雄)

監督・脚本トニー・ギルロイ インタビュー
「“決めるのは監督である僕なんだ”ということをシドニーが教えてくれたんだ」

製作の裏側では“フィクサー”ならぬ“ゴッドファーザー”だったというジョージ・クルーニー
製作の裏側では“フィクサー”ならぬ“ゴッドファーザー”だったというジョージ・クルーニー

──「フィクサー」の脚本は、「ディアボロス 悪魔の扉」のリサーチ後、すぐに取りかかったそうですね。ジョージ・クルーニーは当初から主人公に想定していたのですか?

「その当時、『ボーン・アイデンティティー』のプロジェクトも同時に進行していて、そっちを優先させて、『フィクサー』の脚本を急ピッチで書いたんだんよ。その時もジョージ(クルーニー)に送っている。結局『ボーン』を取ったため、実現化しなかった。4、5年前にも、スティーブン・ソダーバーグを通じてジョージの元に届けた。私の記憶では、僕の物語を愛してくれて、自分の監督作品として興味を持ったようだ。ジョージはそれを今では否定しているがね。その時は“新人監督とは組みたくなかった”ようだ。2年後、やっぱり彼の元へ脚本を届けたんだが、ミーティングに行くと、彼は『見ろ、君は、僕と会う運命にあるんだな』と語りかけた(笑)」

50歳で監督デビューを果たした トニー・ギルロイ
50歳で監督デビューを果たした トニー・ギルロイ

──一説に、1500万ドルとも2000万ドルとも(約15〜20億円)言われる出演料のジョージ・クルーニーのスターパワーは、映画化実現に向けて効力がありましたか?

「僕のオフィスから500ヤードと離れていないキャッスルロック(製作会社)での最初のミーティングで、夢の実演のため、僕はこう主張した。『監督したい。脚本執筆と監督をしたい。大きな法律事務所についての弁護士の話だ。でも、法廷へは行かない(編集部注:ハリウッドでは法廷映画の成功例は少なく、嫌がられている)。この話に興味を持ってくれて、しかもタダ同然で演じてくれ、強い演技ができる映画スターが出てくれれば』とね。プロデューサーたちが提案してきたスターも、ジョージだった。実は最初から彼以外なかったんだ。いざ製作が決まって彼に会うと、『金のためにするんじゃない。後からもらえるんだろう(笑)』って調子だった。この映画の製作費は2000万ドル(約20億円)。もしジョージが『ピースメーカー2』(架空の映画)に出たら受け取るギャラだ。彼は何から何まで面倒を見てくれた“ゴッドファーザー”だった」

──プロデューサーにシドニー・ポラック(出演も)、製作総指揮にスティーブン・ソダーバーグ、ジョージ・クルーニー(主演も)と先輩監督たちが名を連ねていますね。

「スティーブン、シドニー、ジョージも製作陣に加わり、つねに現場にいた。ジョージやシドニーは演じてもいるが、実は出演者の中にもたくさん監督がいる。ブライアン・コッペルマン(『オーシャンズ13』脚本家で、『ノックアラウンド・ガイズ』の監督)はカードゲームの場面に顔を出しているし、ダグ・マクグラス(『エマ EMMA』監督)も出ているし、トーマス・マッカーシー(『グッドナイト&グッドラック』出演者で、『The Visitor』監督)はナレーションで参加してくれた。中でも、シドニー・ポラックはとてつもない映像哲学をくれたんだ。“決めるのは監督である僕なんだ”ということだよ。結局、ジョージも、シドニーも、スティーブンも、初監督の僕にファイナルカット権を譲ってくれたんだ! 彼らのおかげで、僕の映画になったんだね」

ハリウッドの重鎮シドニー・ポラック(左)の助言が 監督を救った!?
ハリウッドの重鎮シドニー・ポラック(左)の助言が 監督を救った!?

──ジョージ・クルーニーの役作りをする上で、彼とは1970年代の映画話で盛り上がったそうですね。

「『フィクサー』は、ジョージや僕が熱中した良質のアメリカ映画への回帰を目指した映画でもあるんだ。ジョージと初めて会ったときの議論は数時間にも及び、シドニー・ポラックの『コンドル』(75)や『スクープ・悪意の不在』(81)、シドニー・ルメットの『狼たちの午後』(75)や『プリンス・オブ・シティ』(81)、アラン・J・パクラの『大統領の陰謀』(76)の話になった。彼と一緒に見て、それらの映画の“タッチ”を取り入れたんだよ」

──『フィクサー』のワールドプレミアは昨年9月のベネチア国際映画祭でした。それから、アカデミー賞にノミネートされるまでのオスカーレースをどう受け止めましたか?

「ベネチア(伊)、ドービル(仏)、トロント(加)と各国の映画祭を回って9月末に全米公開された。オスカーレースは長かったが、あれよあれよという感じだった。レッドカーペットではいつもジョージを観察していたよ(笑)。ベネチア映画祭にはジョージとティルダ(・スウィントン)と参加したが、あれが最初のプロモーションだった。(映画祭会場までの)水上タクシーでは3人でシリアスな政治の話をしていたんだ。会場に近づくと、ジョージがおもむろにサングラスをかけ、再び会話に加わった。そして会場に着く間際になって、彼は突然デッキに出て、パパラッチに向け、こう(両手をいっぱいに広げて)やるんだな。ティルダと顔を見合わせて大笑いしたよ(笑)」

昨年のベネチア映画祭にて
昨年のベネチア映画祭にて

──アカデミー賞で監督賞と脚本賞にノミネートされた瞬間はどうでしたか?

「トム(・ウィルキンソン)も、ティルダも、ジョージも、ノミネートは間違いないと思っていた。脚本賞もたぶん行けるだろうとは思っていたが、朝、テレビをつけたら、8年間の集大成が“オー、マイ・ゴッド”、作品賞候補になっていた。まさに我が子が産まれた瞬間の喜びに似ていて、うれしかったよ。家の電話も鳴り止まなかった。7部門ノミネートなら上出来だ。(ミュージシャン志望から脚本家に転身して)28歳の時からあてもなく机に向かって脚本を書いてきた。でも、『このまま脚本家を続けていて、どうなる?』という疑問から生まれた映画だった。それだけにうれしかったよ」

>>ティルダ・スウィントン

インタビュー2 ~監督・脚本トニー・ギルロイ&ティルダ・スウィントン インタビュー(2)
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