是枝裕和監督が奇をてらうことなく伝えたかった“愛”の言葉

2022年6月17日 12:00


丁寧に取材に応じる是枝裕和監督
丁寧に取材に応じる是枝裕和監督

是枝裕和監督が初めて手掛けた韓国映画「ベイビー・ブローカー」は、第75回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に選出され、主演のソン・ガンホが最優秀男優賞を受賞。さらに同部門とは別に、「人間の内面を豊かに描いた作品」に贈られるエキュメニカル審査員賞にも選ばれた。是枝監督と韓国を代表する映画人たちの出会いから始まった企画は、最高の流れに乗って韓国公開(6月8日)を迎えた。

アカデミー賞で作品賞に輝いた「パラサイト 半地下の家族」に主演したソン・ガンホをはじめ、「MASTER マスター」のカン・ドンウォン、是枝監督が2009年に手がけた「空気人形」に主演したぺ・ドゥナが参加した今作には、韓国トップの歌姫でありながら俳優として新境地に挑むイ・ジウン(歌手名はIU)、「梨泰院クラス」でスターダムに名乗りを上げたイ・ジュヨンも参戦。子どもを育てられない人が匿名で赤ちゃんを置いていく「赤ちゃんポスト(ベイビー・ボックス)」を介して出会ったブローカー、刑事、母親が織り成す物語を通じて、是枝監督が韓国の映画人たちと共に伝えたかった、届けたかった真意を聞いた。(取材・文/大塚史貴)

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「生まれてくれてありがとう」。このセリフに、作り手たちの思いが集約されているといっても過言ではない。児童養護施設出身の子どもたちの「自分は生まれてきて良かったのか?」という生に対する根源的な問いは、是枝監督が2015年に手がけた「海街diary」で広瀬すず扮する浅野すずが繰り返す自問自答と重なる部分がある。この奇をてらわず、ダイレクトなセリフに込められた思いについて聞いてみた。

是枝:あのシーンの脚本をいつ書いたのか覚えていないんだよなあ。最初からあったわけではないんです。具体的にリサーチを進めていくなかで、直接会って話せたわけではないのですが、ベイビー・ボックス出身の子どもたちの話を聞くなかで彼らが一番抱え込んでいるのは、自分の生を肯定できないまま大人になっていく辛さだったんです。「生まれて来て良かったんだろうか」「自分が生まれたことで誰かが不幸になっているんじゃないか」って。

いま言われてその通りだなと思ったんだけど、本当に「海街diary」のすずが感じていたことと同じことだよね。深いところで、罪悪感を覚えてしまっているんだと思います。ただ、そのことは明らかに大人側の責任。この映画は必ずしも彼らを励ますために作ったものではないけれど、やはりその問いに対して自分なりのアンサーにならないといけないのではないか……という思いはありました。それが、あのシーンに繋がっているんだと思います。

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今作は、ベイビー・ボックスに預けられた赤ん坊をこっそり連れて帰るサンヒョン(ソン・ガンホ)と児童養護施設出身のドンス(カン・ドンウォン)が、思い直した母親ソヨン(イ・ジウン)と共に赤ん坊の養父母探しの旅に出るところから物語は大きく動き出す。今作に深みをもたらすのは、金銭目的で赤ん坊を売ろうとしていたはずのブローカーたちが、いつしか子どもの幸せを真剣に考え始める姿が浮き彫りになっていくのと同時に、母になることを選ばなかった女性たちがこの旅を通して「母」になる話が同時に紡がれているからだ。この両者の気持ちの変化は、冒頭の「生まれてくれてありがとう」というセリフへと帰結していくことに観る者は気づかされていく。

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是枝監督とソン・ガンホカン・ドンウォンを繋いだのは、各国で開催されている映画祭だった。カンヌや釜山などで顔を合わせ、対話を重ねていくなかで最初に書かれたプロットでは、ぺ・ドゥナを含めた3人はあて書きだったと聞いている。

是枝:この3人に関してはあて書き。ソン・ガンホさんは、初期の段階から脚本を書き直すたびに読んでくれていました。監督に任せると言いながら、「以前のあれは良かったね」とか「今回はあそこがなくなっちゃったのが残念だね」というやり取りを頻繁にしていて、意外と脚本づくりも含めて関与したいタイプでした。

そういうキャッチボールを経て、決定稿を出すタイミングでメインのキャストにはそれぞれのキャラクターのプロフィールみたいなものを渡しました。赤ちゃんを売りに行く側の3人には、彼らが仮に逮捕されたとして警察で取り調べを受けた際の供述調書を用意したんです。生年月日から始めて、結構長いものを今回は書きましたね。

刑事役のぺ・ドゥナに関しては始末書という形で、自分がこの事件にどう関与し、いかに考えたのか……みたいなことを夫と結婚する前までさかのぼって、こちらも結構長いものを書いて参考までに渡しました。撮影を見ていたら、演技に良い影響を与えているなと感じることが出来たので、やって良かったなと思いました。

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是枝監督の撮影現場に初めて取材に入った「そして父になる」から、「海街diary」「三度目の殺人」「万引き家族」とじっくりと観察を続けてきたが、これほどまでに良い意味で上意下達と対極にある現場はない。良い作品を作り、届けることだけに執心し、きちんと「意見を伝え合う」ことを貫くことでスタッフとの良好な関係を構築してきた是枝組。今回は韓国のスタッフ、キャストとの仕事となったわけだが、そういう環境下でも俳優陣のこれまでに見たことのない表情を掬い取っていることには驚きを禁じ得ない。ソン・ガンホらとの撮影で、是枝監督の心が動いたのはどのような瞬間だったのだろうか。

是枝:撮っていて、本当に楽しい人たちなんですよ。ソン・ガンホさんは全テイク、違うんですよ。全テイク変えようと思っているというよりは、全てのテイクをファーストテイクのように経験できるという確信が彼にはある。それって、なかなかできないことなんじゃないかな。テイクを重ねても、そこに落ち着いていかない。それは非常に面白かった。

カフェで娘と向き合うシーンで、「これからもパパはパパだからさ」という、よくあるセリフの後に、もともとなかったんだけど現場で「本当に?」という娘のセリフを足したんですよね。その一言があることで芝居がすごく変わって、カットをかけたらソン・ガンホさんが褒めてくれました(笑)。「あの一言があるかないかで、サンヒョンの中から引き出せる感情のレイヤーがまるで違う」と言って。そういう演出がとても好きだと言ってくれました。

ぺ・ドゥナさんは、見る度に感心します。ソヨンと向き合う屋上のシーンとか、印象的なシーンは幾つもあります。なんということはないんだけど、車の窓に付いた花びらを手繰り寄せる手の動きがとても好きで……。「このシーンはいらないんじゃないか」とずっと言われていたんだけど、撮ってみたら一番好きなシーンになりました。

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是枝監督とぺ・ドゥナの厚い信頼関係は、「空気人形」以降も続いている。互いの撮影現場を行き来するだけでなく、16年には香川県で開催された「さぬき映画祭2016」に揃って来場し、さぬきうどんに舌鼓を打ちながら2人で舞台挨拶に立っている。その際にも、ぺ・ドゥナは「今まで演出されてきたなかで、是枝監督を一番信頼している」と客席に語りかけていたことが、筆者の過去の取材ノートに書き残されている。

是枝:非常に難しい役だったと思いますが、彼女はいい意味で日本人的な心の機微、言葉にしない部分をすごく理解してくれるタイプ。僕の書いた脚本には、日本語だと「……」で表現している部分が多い。彼女が演じたスジンのセリフは特にそうだったのですが、韓国語に翻訳された脚本から「……」がなくなっていたんです。

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最初に脚本を読んだときに、僕がぺ・ドゥナに事前に話していたスジンというキャラクターと、韓国語で読んだときのキャラクターがずれていると感じたみたい。それで、日本語の脚本も読みたいというから渡したら、彼女なりに日本語の分かる人と読み比べてくれたんです。それで「……」が消えていることに気づいた。

両方の脚本を持ってきて、「……」がどういうニュアンスなのか教えてくれって。説明したら、「それは韓国語になると消えているから、それを伝えたいのであれば言葉が違うから変えた方がいい」って言ってくれてね。ホテルのロビーで4時間くらい、通訳を交えて話をして、脚本を一通り直したんです。僕が日本語で伝えたいニュアンスを、正確に韓国語に置き換えることが出来て、すごくありがたかったですね。

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韓国を代表するスターたちだけでなく、今作には数々の子役と向き合ってきた是枝監督をもってしても手を焼いた子役が出演している。サンヒョン、ドンス、ソヨンが目的地へ向かう途中で立ち寄った、ドンスがかつて過ごした養護施設で暮らすへジンに扮したイム・スンス。サンヒョンの運転するワゴン車に忍び込み、その後の道程を共に過ごすことになる愛嬌たっぷりの少年だ。これまでと同じように、オーディションで起用を決めたという。

是枝:人数はそんなに会っていないんです。日本に比べると、圧倒的に子役の数が少ないんじゃないかな。子役が所属する事務所もないから、演技塾みたいなところに通っている子たちに声をかけました。オーディションをやってみて、脚本を渡さない方が楽しそうだった子たちを残したんですね。

その中でもコントロールが効かない子を選んだら、本当に効かなかったという(笑)。現場でうまく泳がせながら撮ろうと思っていたんだけど、本当に遠くまで泳いで行っちゃうタイプだったから、今までで一番大変だったかもしれない。ただ、すごく頭のいい子だったから、順撮りをしていくなかでその後の展開を先に掴んじゃうタイプだったの。脚本の内容を知らないのに、面白い子でしたね。

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是枝監督は初めて国際共同製作に挑み、フランスで「真実」を撮った際に「ノーストレスだった」と話していたが、韓国の現場で体感したことの中で、日本の現場に伝えていかなければいけないと強く感じたことはどのような部分だったのだろうか。

是枝:お互いの作り方のいいところ、悪いところはあると思います。韓国のやり方が全て素晴らしいわけではないと思っていますが、現場の進め方は完全にアメリカ方式。管理も含めて徹底されているんですね。だから働く環境としては、日本と比べものにならないくらいきちんとしている。

今までは、日本のルーズな部分に甘えて作ってきた部分もあるわけですが、そこは変えなければいけないなという思いを持ち帰りました。たとえば監督が夜中12時まで撮ってすぐに帰れたとしても、多くのスタッフがすぐに帰れるわけではなく負担が増すわけです。それを考えたら、日本のように12時間以上も撮影するというスタイルは、もうやめないといけないなと強く感じました。

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――韓国の映画界は、確か週52時間が労働条件の上限でしたよね。

是枝:そうです。上限が決まっているから、ナイターシーンを撮ったら、翌日の昼は休み。感覚的には、週4日撮ったら、3日休む感じです。だから誰も体調を崩さない。地方ロケをしていても、2連休があるからソウルの家族に会って戻ってくることも可能だし、逆に家族を呼んで過ごすスタッフもいました。そういうところは、見習わないといけませんよね。日本だと家庭が崩壊しちゃいますから。その辺は待ったなしなんじゃないかなと思っています。

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フランス、韓国での映画製作を経て、帰国してからは初めてNetflixとタッグを組む人気漫画「舞妓さんちのまかないさん」のドラマ化企画に総合演出、監督、脚本として参加している。日本の現場に戻ってきて、是枝監督の中で絶対的に変わったことはあるのだろうか。

是枝:現場の演出ということでいうと、自分に足りないことは山ほどあるので色々な形でアップデートしていく必要性は感じていますが、基本的にはそんなに違いはないなと思います。京都で「舞妓さんちのまかないさん」を撮影していて感じたんだけど、言葉の分からない役者を演出するときに、言葉の意味以外のものをキャッチするアンテナをどう張るかってとても大事なことだなと。言葉の意味以外のものを見る習慣が2本撮ってだいぶ身に付いたから、京都で芝居を演出していてもセリフ以外のものが目に入ってくるようになって、成長したなと思いました。

これはいいことだなあ……と思って。どうしたって、役者はセリフに集中しちゃうじゃないですか。監督がセリフに集中しちゃうと、それ以外のものの表現がどんどん痩せ細る。そうじゃないものをどう活かすかということの嗅覚みたいなものは、自分なりに成長したかなという意味で変わったのかなと。いい経験だったね。60歳で成長するって嬉しいことだね。

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これほどまでに誠実に映画製作に向き合い続けてきた是枝監督の口から紡がれる、「60歳で成長するって嬉しいことだね」という“言の葉”は、真摯な姿勢に裏打ちされたもの。謙虚に人の話に耳を傾けることの大切さが改めて問われる時代に、是枝監督がいま闘っていることを聞いてみた。

是枝:作り手としては、“自分らしさ”みたいなものと闘うということが必要で、ちょっと“自分らしさ”というものに飽きているところがあるんですよ。60代を迎えたときに、自分らしさと評価されたものを否定するつもりはないけれど、どう更新して先に行くか……というのがひとつの闘いだと思います。

もうひとつは、日本の映画業界について。映画産業、映画文化の後進性みたいなものをどう良くして、次の世代に渡せるかというのが、2つ目の闘い。これがきっとこの先、一番大事になっていくんじゃないですかね。その先の闘いはもっと大きなものになっちゃうから、それはまた次の機会に話しましょう。

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映画文化という観点でみると、昨今はこれまで以上に時代劇の製作が困難な時代に差し掛かっている。是枝監督は「花よりもなほ」(06)以降、時代劇は撮っていない。

是枝:基本的に“サムライ”の話に興味がないので、そういう意味での時代劇は撮らないと思います。度々話をしていますが、戦時中の話が時代劇といえば時代劇。この国が経験してきた過去の出来事を、もう一度見つめ直すということは必要だと思っているから。昭和20年前後の時代の話というのは、どのくらいのスパンで考えるかだけど、この先5年、10年というなかではやらなければいけないと思っています。

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もう一方で、最近ちょっと訳あって鴨下信一さんや久世光彦さんのテレビドラマを見直しているんです。彼らが撮っていた昭和の時代のホームドラマというものが、作法や所作を含めて誰も撮れなくなってしまっていて、役者や美術も断絶してしまう気がして……。どこまで出来るか分からないのですが、彼らへのリスペクトを含めて、自分なりに継承していくべきだなとも考えているんです。

是枝監督の映画作りには志が置き去りにされることがないからこそ、国境を軽々と飛び越えて世界中で愛されるのであろう。この先、どこに焦点を当て、いかなる事象の真意を見極めようとするのか……。映画ファンのみならず同時代を生きる映画人たちは、是枝監督が何を描くのかだけでなく、何を見聞きし、どこにピントを合わせようとしているのかという側面に注視していく時代になっていくのではないだろうか。

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