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記憶の中の父親と同じ歳でもある42歳という年齢になって、何事も成し得ず引きこもる陽子の絶望を抱えた心が、思いがけずやらざるを得なくなったヒッチハイクの道行きでゆさぶられ、こじ開けられてゆく物語。
彼女の凝り固まった心の殻が、道中でさまざまな他人にぶつかる中で破れ、その破れ目からひどい傷を負ったり癒されたりする。そのことで陽子は少しずつ変わる。
圧巻の菊地凛子。陽子の人物像は普段の菊地凛子とは違うはずだが、まるで素をさらけ出しているように見える。ライターの若宮にたぶらかされ、波打ち際に崩れ落ちて子供のように泣くシーンは、血の流れる傷を開いて見せられているようでこちらの心が痛くなった。
1日に凝縮された人々との邂逅で陽子が変わってゆく様子が、とても自然に見える。少ない台詞の行間を、陽子の挙動や表情が饒舌に語る。終盤の独白でおおまかな彼女の過去は分かるものの、父との確執の具体的な理由や、彼女が挫折に至ったきっかけについての説明はない。それでも、人物描写の不足は全く感じない。
大人がサービスエリアに置いていかれるなんてことがあるか?(しかもピストルは全く謝らない)とか、これだけの出来事が1日という時間に本当に収まるか?といった疑問の種もあるが、陽子の感情の波が持つ圧倒的な生々しさの前には瑣末なことだ。
これは、氷河期世代という受難の年代と、その中で自分の弱さに足を取られた人間の人生を象徴する物語でもある。細部に関してはリアリティラインを少し下げて見る作品なのだろう。父親の幻もそのことを暗に示している。
若宮の仕打ちとその後の老夫婦のやさしさのコントラストは、鮮やか過ぎて痛いほどだ。
そもそも若宮は本当にライターだったのだろうか? 外車に乗り、それらしいことを言って女性に近づき、ああいうことを繰り返すただのクズのような気がする。事後にホテルで受けていた電話も、本当のものかどうか分からない。彼は最初から陽子を目的地に送る気などなかったのではという気がする。
浜辺で号泣し、それでも進んでいった陽子が出会ったのが木下夫婦だ。それまで陽子の中で、亡くなった父の姿は20年前の最後の記憶のままだった。陽子の中に現在の生身の父親の姿はなかった。
夫の登の「知らない人の車に乗るのは危ないよ」という言葉は、父親が幼い娘に教え諭すようでもある。陽子の年齢でそのような常識を持たないはずはないが、それでもこの人たちに先に出会っていれば、という気持ちにならずにいられなかった。
夫婦のやさしさに触れて親身になった言葉を聞き、握手をして別れる(相手に触れる、スケッチブックにメッセージを書く、といったところにヒッチハイカーのリサの影響が垣間見えるのもなんだかじんわりと来た)。陽子の中で、自分と同い年の姿のままだった父親像が登の姿で上書きされる。
20年里帰りしていなかった彼女の目に、夫婦の親切は久しく離れていた親の愛情のイメージに重なって見えたかもしれない。彼らから大切にされたことで、状況に対して受け身だった陽子の行動が(受け身で自己評価が低かったから、若宮の卑劣な提案を断れなかったのだろう)、意思を持ったものに変わったように見えた。
人生はよく旅になぞらえられるが、この1日の旅もまた、陽子の人生のように見える。サービスエリアで置き去りにされたり、真夜中のパーキングエリアで脱出の糸口を見出せず留まり続ける彼女の姿は、人生のエアポケットから抜け出せなくなった氷河期世代そのままだ。リサとのシーンにかなり尺が取られていたのは、あの場所が陽子の人生の停滞感を象徴するものだったからなのではと思う。
それでも陽子の中にはリサに先を譲るやさしさや(陽子が先に乗っていればリサが若宮と出会っていたことになり、結果的に陽子が彼女を守ったとも言える)、老夫婦のやさしさに心を開く素直さが残っていた。また、予定の出棺時間には間に合わなかったが、親族の配慮で父親に会えた。
これらの描写だけで、陽子の今後の人生にまでほの明るい希望を感じる。自分の心にしなやかさが残っていれば何歳からでも世界の見え方を変えてゆけるということを、不本意な旅に放り込まれて足掻く陽子の背中が教えてくれた。