主演した芦田愛菜の「信じるとは、相手の見えないところを含めて受け入れるということ。けれども理想像を求めてしまうので「裏切られた」と感じるし、揺らいでしまうからこそ「信じる」と口に出し、理想にすがりたくなるのでは」というコメントが、良くも悪くも先行している本作。チラシ等のコピーも「ちひろだけが、両親を信じた」と、主人公・ちひろの「健気さ」が強調されている。けれども、彼女は決して「かわいそう」な存在ではない。彼女には、大事件を乗り越えて成長するとか、少女時代を脱するとかいった劇的な変化は何も起こらない。ありふれた日常と回想を行き来する中で、彼女の「健康なほころび」が見えてくる。そのほころびがあるからこそ、彼女はちょっと歪んだ(ように見える)場所に踏みとどまれるし、前に進むこともできる。ちひろは、流されたり追い込まれたりしているわけではなく、自分の行動を選び取ろうとし、選び取ることができている。ちょっと重たい長めの前髪の奥から、目をこらし、耳をすましている。そういったことを、観終えた後、じわじわと感じるようになった。
病弱だった娘を救った「水」に傾倒し、宗教にはまった父母は、白くこぎれいな家を失い、古びた木造屋に住んでいる。緑のジャージで毎日を過ごし、働かず、日々の食事もままならない。姉は家を出たまま戻らない。伯父はちひろの身を案じて、進学を機に家に来ないかと誘う。彼女はきっぱりを申し出を断るが、決して父母に盲従しているわけではない。父母はもちろん、宗教や、学校をはじめとする「世の中」に対しても。
たとえば、日記帳。母が育児の不安や喜びを記し、娘に託したそのノートに、ちひろは憧れの男性教師の似顔絵を日々スケッチしている。最後はそのページを惜しげなくカッターで切り取り、メモ帳がわりになるからと級友に譲ってしまう。それから、コーヒー。父母が禁忌にしているコーヒーを、彼女は敢えて選んで口にする。今はおいしいと思えなくても、大人になれば、おいしくなるはずだから。そして、友人と、保健室や放課後の教室で内緒話をし、秘密を共有する…。身近な存在である家族に疑問を抱いたり、「自分そのもの」を意識したりと、思春期なら当たり前の事柄の意味深さが、子への愛情ゆえに宗教にはまった父母と主人公を並べることで、より際立つ。父母と時には衝突しながらも、そこにとどまる。完全に正しい/間違っているということはなく、二分律の価値観で測れないことが世の中に溢れていると、少しずつ感じ取り受け入れていくのは、「星の子」ちひろだけではないだろう。
実は、この映画を、8歳と4歳の子に付き合ってもらった。二人は明らかに気乗りしておらず、もつか少しひやひやしていたが、意外に最後まで静かに観ていた。4歳児が帰路でにこやかに言い放ったのが、「かっぱだと思ったー、ってところがおもしろかった!」で、こちらも思わず頬が緩んだ。ちひろが置かれた場所に踏みとどまれるのは、彼女を受け入れ繋がっている同年代の存在があってこそだ。「そうだねー、おかーさんも、◯◯に「かっぱ…」っていう子みたいになってほしいな。テニスの上手な先生よりも、ずーっといいと思う。」と、応じた。(ちなみに、兄の方は、予告でやってた「ホテルローヤル」を気に入り、「観たいなー」とのたまっていた。ほほう、と了承。)
私自身は、流れ星を眺めるくだりで、数十年前の友人とのやり取りを思い出した。並んで夜空を見上げ、見える、見えないを繰り返し、相手に合わせて「見えた!」と言ってしまい後ろめたくなったこと、その後、本当に見えてホッとしたこと、もしかしたら、友人も見えたフリをしていたのかも…と思ったこと。ちひろたちは、流れ星を見たのだろうか。
かっぱと流れ星。この二つに触れるたび、私は、きっとこの映画を思い出すだろう。