グリーンブックのレビュー・感想・評価
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何もかも正反対な2人が人種差別を乗り越えながら変化していく実話を基にしたロードムービー
必死に理性を保ちながら生きている
孤独な天才ピアニストと
そのピアニストのコンサートツアーに
用心棒兼運転手を任されることになった
必死に今をありのまま生きている主人公。
性格、人種、生活すら正反対な2人が本気でぶつかり合い
人種差別を乗り越え、固い友情が芽生えていくお話し。
笑えるところもあり、じんと心が温まる
素晴らしい友情を実話を基に描いている。
人種差別の問題は本当に辛い。
奴隷制度、アメリカ南部の黒人差別問題。
グリーンブックというものがあったことは知らなかった。
そんな真っ只中
敢えて人種差別に立ち向かう
彼ら(先人)のとてつもなく強い勇気と行動が
現在に繋がっているのだとわかり
とても考えさせられた。
勇気ある行動は人の心を動かす。
差別は会社やコミュニティなど小さなところから地域や国など大きなところまで、
なくなることは難しいかもしれない。
黒人だから、白人だから、イタリア系だから
〇〇なんだと決めつけることは
差別している事と同じだと気づかされた。
私自身も知らぬ間に、偏見や決めつけるような凝り固まった思考になっているところがあると思う。
個人、1人の人として、向き合い理解を深め、尊重できる人になりたいと思った。
人は何かがあって心を閉ざすことがある。
常に冷静でいて、楽しそうではなかった天才ピアニストだが、
主人公と心に触れ、段々距離が縮まり
感情を出せるようになっていった。
そして最後、楽しそうに演奏する姿はいつにも増して素敵で輝いていた。
人は人との心の交流を通じて閉ざされた心も開くことができる。相手を想う行動は相手の心に伝わる。
音楽は差別も関係なく人の心に伝わり、素晴らしいと感じさせてくれた。
最後のシーンは色んな愛に溢れていた。
人種差別を考えさせながら
友情や愛に心温まる映画。
ヴィゴ・モーテンセンか!??
車内の前後の位置関係が、まったく異なる二人を優しく近づける。
〇作品全体
生まれも育ちも、人種も、性的嗜好も、何もかもが異なるトニーとシャーリー。旅の序盤、すでにトニーは妻ドロレス宛の手紙で「シャーリーとはウマが合いそうだ」と綴っている。しかし、黒人に対して差別意識を持つトニーにとって、シャーリーと長時間同じ空間に身を置くというのは、やはり簡単なことではなかったはずだ。
そんな中で、ひとつ印象的なアクセントとなっていたのが、車内での“前後”の位置関係だった。
旅の大半を車内で過ごす二人の会話は、必然的に前席と後部座席という“前後”の構図になる。この位置関係では、肌の色や所作といった“育ち”の違いが、視界に入らないぶん薄れていく。たとえば、膝掛けを上品にかけるシャーリーと、人の分のサンドイッチまで食べてしまうトニーの「育ち方の違い」は、カメラを通せば一目瞭然だが、二人にとってはお互いの視界に入らない。後部座席のシャーリーから見れば、トニーが「不衛生」に食べるフライドチキンの姿も直接目に入ることはない。
視線を合わせないからこそ、真正面で対峙する緊張感が和らぐ。相手の許容できる部分はそのまま受け入れ、許容できない部分については本音を出して衝突することもできる。行く先々で「黒人であること」を突きつけられる世界で生きるシャーリーにとって、その空間は肌の色に囚われず、しかも一人ではないという点で、初めて心を開ける場所になったのではないかと思う。
トニーにとっても、見えているのは前方の景色とバックミラーだけ。話すとき、人種を意識するような視線のぶつかり合いはほとんどない。すぐ頭に血がのぼる性格だが、用心棒としての働きぶりや、家族との関係を見る限り、自分勝手な人物ではないことは明らかだ。
少し主観になるが、映画作品において「嫌々仕事を引き受ける」動機は、ネガティブな事情に基づくことが多い。家庭に問題がある、過去に過ちを犯した、などだ。本作でもトニーが「やりすぎた」ことで仕事を失ったという背景はあるが、最終的に旅に出る決断をしたのは、ドロレスの承諾があったからだ。順調な夫婦仲をより強くする、というポジティブな物語線が存在する点が好ましい。そして、トニーがただの乱暴者ではなく、“家庭に責任を持つ男”であるという描き方にも好感が持てる。
話がやや逸れたが、トニーが「2時と10時でハンドルを握る」と語る姿勢には、責任感と、それを時折裏切るようなユーモアが込められている。この運転席という位置こそが、彼のキャラクターと物語のバランスをとっていたように思う。
そもそも二人が対面で視線を合わせるシーンは、車外でさえ稀だ。レストランではシャーリーが新聞に目を落とし、手紙の書き方を教える場面でも、シャーリーは横を向いているか、トニーの周囲を歩いている。宿泊時の会話も、ベッドに横たわりながらのものだった。
このように“ひとつクッションを置いた”距離感のある会話が積み重なっているからこそ、真正面から視線を合わせて交わす言葉には、大きな意味が宿る。たとえば、石を盗んだトニーをシャーリーが咎めるシーン、あるいは浴場で警察を買収した後の駐車場のやりとりがそれにあたる。心の距離を縮めるときは目線を外して柔らかく、ぶつかり合うときは真正面から――。この映像的な緩急が、二人の関係の構築に欠かせない要素になっていた。
Wikipediaを覗いてみたら、この映画が「白人の救世主」ものの典型だとする意見があった。確かに、その指摘も理解できる。ただ、そう断じきれない感覚もある。なぜなら、二人が車内で“前後”に位置し、肌の色や所作が直接的な意味を持たない空間に身を置いていたからだ。その空間においては、“誰が救うか”ではなく、“どう向き合うか”が主軸となっていた。だからこそ、自分はこの映画にただの感動以上の何か――静かで強い友情の物語として、強く惹かれたのだと思う。
〇その他
・終盤、黒人が集まるレストランでシャーリーがピアノを弾くシーンがすごく良かった。孤独から脱却する一歩、みたいに映るし、今までシャーリーがやってきたことは間違いじゃなかった、といような肯定感もある。
理解し合う映画と、理解し合える関係になれた、そんな気がした映画でした。
おっさんには、オスカーの凋落と打算しか本作には見いだせなかったよ。
去年のアカデミー賞はマイノリティ、ダイバーシティヨイショの極端な過敏反応のせいで、クソみたいな同人誌映画「シェイプ・オブ・ウォーター」が受賞した。
もちろん前向きに見ると、「初の怪獣映画のオスカー受賞、イエイ」といえなくもないが、ただ単に、オタクが会員層の大部分を締め、「難しい」映画を理解できなくなったとも言えなくない。
そんなこんなのアカデミー賞の今年の結果はどうかと言うと、案の定の、会員があたかも全員一斉に集まって、消去法で決めたかのような、各部門の受賞結果。
もはや映画の内容、映画のデキには目を向けず、マイノリティ、ダイバーシティヨイショだけが選考理由。
結果、あげるべき人にあげてないくせに「ダイバーシティ」だとほざきやがる。
アカデミー賞は、業界人による、内輪の賞だが、もはやこんなももらって嬉しいか?というほどに、権威は失墜したと思う。
そんなことがはっきり見えたのが、この
「グリーンブック」
・
・
・
「既視感」というには、あまりにも退屈すぎる。ここで繰り広げられる物語は、表面上で起こったことしか見えない。というより、見せていない。想像力の欠如とでも言おうか、登場するキャラクターの背景が全くと言っていいほど、表面的だ。
ああ、脚本家の一人に、主人公の息子がいるからか。
もちろん、彼にとって父親である主人公は「ヒーロー」である。だがあまりにも物分りが良すぎる。まるで、事の流れに逆らわないように。
ドクに、「自分にしかデキないことをしろ」、というが、そんなキャラだったか?
そもそもドクが天才なのは誰でもわかるかもしれないが、彼がそこまでドクに「仕事以上」に心を通わせるのがわからない。
手紙?手紙の反応がトニーに戻ってきた描写はない。
plainとplaneのしょうもない話はともかく、主人公の「美しい平原広がる南部ツアー」の結果が黒人と仲良くなっただけなのも、ロードムービーの体をとってるくせに、つまらなすぎ。
ドクのほうも、全くと言っていいほど、ペラペラのキャラクター。
ちょっとだけホモネタ入れちゃう?とか、どうせ、そんなノリだろ?
南部に行く理由も、「勇気ある行動」で片付けられる。
勇気を示す理由は何よ?そして、そもそも散々引っ張った兄貴の件はどうなったんだよ?
つまり、こういう設定だったら、オスカー取れんじゃね?こういうシーン入れときゃオスカー取れんじゃね?ということしか考えていない映画。
グリーンブックというタイトルも、止まった場所に何かあるわけでもなく、地域性だって、ケンタッキー・フライド・チキンだあ?子供の映画か。(当時のクソ不味いアメリカのKFCをニコニコ食べる二人をギャグにしているのかもしれないが)
「グリーンブック」ってタイトルつけときゃ、アイロニックな感じが出るでしょうみたいなのりだったんだろうが、全く機能していない。
クライマックスに、黒人で溢れるBARでドクの演奏するシーンが有る。トニーが黒人限定BARに入るところこそが、本当は一番ドラマなはずなのだが、そこはお前ら、スルーかよ。
トニーが黒人限定なBARに入る、これこそまさに「『逆』グリーンブック」。
これで評価されるならまだ分かる。
追記
唯一の笑いどころは、銃を実際に持っていたところだけ。だが、これだって相当やばい「ネタ」なのに、もっと高いレベルの笑いにまで昇華できたはずだ。
結果、黒人をダシにして、主人公がお金を稼いで、物分かりのいい性格になり、手紙を書くのが上手になりました、っていうだけの映画。
それでも、僕たちは手紙を出さなければいけない。
初めて鑑賞したとき、あまりの“良さ”にやられ、その日のうちに2度目の鑑賞をキメた。それくらい好きな作品だ。
改めて再鑑賞したので、僕の心のうちをうまく説明できるかどうかわからないが、とにかく感想をつらつらと書いてみる。
おじさん2人の珍道中ともいうべき物語は、どこかハートフルで、どこかコミカルで、どこかデカダンス。個人的に心に残るのは、「手紙」というモチーフを通じて描かれる“コミュニケーションの郵便的不安”だった。
“郵便的”とは何か。フランスの哲学者ジャック・デリダによる概念だ。ここでは「意図したものが届くかどうかわからない」という意味で使用していく(概念として間違ってるかもしれないけど…細かいことは置いておく)。
郵便は差出人が郵便局を預ければ、それは局を通じて受取人に届けられる。しかし、郵便は確実に届くのだろうか? 誤配の可能性は確かに存在し、郵便が届くかどうかはわからない。そして何かの行き違いでどこかに行ってしまえば、永久に失われるのである。
それは手紙などの郵便物だけでなく、コミュニケーションも同様である。僕すなわち主体が発する言葉を、受け手である客体は、主体が意図した正しい意味で受け取るだろうか。
言葉という媒介を通している以上、主体の意図した意味から大きく外れ、誤解が生じることは珍しくない。というか宿命とすら言える。コミュニケーションは非常に脆いシステムの上に成り立っている、極めて紛失されやすい郵便なのだ。
本作ではトニーが妻に、旅の無事を知らせる手紙を出す。それは単なる手紙ではなく、物語のテーマを内包する“装置”でもある。つまり本作の手紙は、コミュニケーションの郵便的不安、すなわち“届くかどうか、伝わるかどうか”という主題を象徴している。
トニーがドクターにフライドチキンを勧め、「黒人のソウルフードだろ?」と語りかける。ドクターは苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。トニーに悪気があったわけではない。無自覚に、本当に単純に、美味いからチキンを食えと言っている。しかし、差別に敏感なドクターには、その意図は届かない。
こうして、トニーとドクターはいささか、コミュニケーションの郵便的不安に翻弄され、すれ違いを見せつつ、誤解と理解を繰り返しながら旅を続けていく。ところが、その誤解と理解を繰り返す、という点に、僕たちがこの修羅のような世界で健やかに生きるためのヒントが現れているように思える。
トニーとドクターが対話するうちにお互いを知り、友情を芽生えさせていく。コミュニケーションは届くかどうかわからない不安定な手紙だ。でも、差し出してみなければ絶対に届かない。痛みが伴うかもしれない。溝ができるかもしれない。それでも、僕たちは手紙を出さなければいけないのだ。スクリーンに映る2人は、観客にそんなことを語りかけてくれる。
「寂しいときは自分から手を打たなきゃ」「才能だけでは不十分だ。勇気が人を変える」「黒人でも白人でも人間でもない。教えてくれトニー。私はなんなんだ」
監督のピーター・ファレリーやキャストたちが差し出した手紙は、僕にしっかりと届いた、と思う。このレビューという手紙も、誰かに届くだろうか。
複雑に入り組む人種差別
粗野なイタリア系白人と知的な黒人のロードムービー。あえて黒人差別の激しい南部へコンサートツアーに行くシャーリーの決断は、それもまた偏見をなくす一歩であるからだが、そのコンサートに来るのは、「先進的」だと思っている白人ばかり。黒人の音楽に理解を示す自分は差別主義者などではないと彼らは思っている。しかし、地元の黒人にはめもくれず、この構造自体が差別を温存してもいる。(スパイク・リーが過激な発言をよくするのは、そういう構造に利用されたくないという思惑もあるのだろう)
白人であっても貧困で被差別的な扱いのイタリア系のトニーは黒人に仕えるということに複雑な感情を抱き、黒人であっても知的で裕福に暮らすシャーリーは黒人コミュニティでも馴染めない。人種差別がとても複雑に入り組んでいるのである。
その複雑に対して、やや安直すぎる結末ではないかとも思うが、気持ちよく観られる作品だ。ただ、気持ちよくなっただけでは、「先進的」だと思いこんでいる南部の白人と変わらない。差別の複雑な背景を理解するよう努めなければならない。
祝作品賞。旅が育む友情、笑い、音楽すべて最高!
よく指摘されるように、仏映画「最強のふたり」を観た人なら多くの共通項をこの「グリーンブック」に見出せるだろう。白人と黒人、教養も資産もかけ離れた2人が、カルチャーショックを経て確かな友情を築いていく。どちらも実話ベースだが、創作したかのように好対照な凸凹コンビだし、だからこそ奇跡的に生まれた絆が一層輝く。
ロードムービー、バディもの、喜劇、音楽といった王道のジャンルと素材に、人種問題やLGBTという社会派の味も加わり、しかもそれぞれの要素が邪魔しあうことなく、絶妙なハーモニーで口当たりの良い逸品料理に仕上がった。アカデミー賞の作品賞も納得だし、ピーター・ファレリー監督の手腕も見事と言うしかない。
車中でトニーがドクにフライドチキンを強引に薦める場面。ラスト近くでトニーの妻ドロレスがドクに伝える言葉。思い出すだけで頬が緩み、同時に胸がじんわりと温かくなる。
この映画は観客を選ばない。分かりやすく楽しく、魂のうねりに触れられる傑作
この映画は観客を選ばない。誰もがハードルなく楽しめて、10人中9人が「本当にいい映画だったね」と胸を熱くさせて映画館を後にすることができる。そんなわかりやすさと可笑しさ、そして観客の心をグッと引き寄せる魂のうねりを併せ持った作品なのだ。
冒頭ではちょっと強面なオヤジに見えた太鼓っぱらのヴィゴ・モーテンセンと、それとは正反対の気高さを持つ黒人ピアニスト役のマハーシャラ・アリ。肌の色も性格も育ちも正反対の彼らが、旅の過程で徐々に互いへの敬意と友情を結んでいく。そこに折り重なるエピソード一つ一つがまた、なんとも言えない輝きを放ち、胸いっぱいに余韻を広げていく。
このロードムービーは二人の目線の高さを同じくして、互いの立場に立って物事を見つめることの尊さを我々に教えてくれる。60年代を舞台にしながら、分断の顕著な現代世界に、普遍的であり微塵のブレもない力強いメッセージをもたらしてくれる傑作だ。
差別や背景に対する事前知識は必要な映画
最近よく名前を見かけるこの映画
ついに見たがとても良かった
しかし、この映画で表している差別の背景や当時の状況を理解できないと、とても薄っぺらい友情物語と感じて終わってしまう側面もあると感じた
差別の少ない日本で生まれ育った私たちには理解できないことの方が多いが、この時代背景では法律で差別(区別)される程度には白人と有色人種を分けるのが普通だった背景がある
本編の話に移ろう
いろいろな表現があったが特に秀逸だったものを上げていきたい
ケンタッキーの描写は黒人はフライドチキンが好きというステレオタイプな考え、そしてそれを食べたことのないシャーリーと他の黒人との違いを表すには良い表現だと思った
晩餐会の場面でフライドチキンが出てきて、苦笑いをするシャーリーは悪意のない差別を味わったことだろう
きっと白人の支配人は黒人だからフライドチキンが好きだろうというステレオタイプ的な考えからそれをメインディッシュにしたのだろうと思う
YMCAで白人男性と共に警察に拘束されてトニーに助けてもらった後「今夜だけは知られたくなかった」という発言も
YMCAが同性愛者の文化と密接だった点
黒人とゲイという二つのマイノリティを抱えるシャーリーがトニーと折角築いた関係が壊れるかもしれないと思い、隠したかったと見てとれる
今の時代大っぴらにいう人は少ないかもしれないが黒人、さらにゲイへの差別はいまだに根強く残っていると感じる
それが法律ですら黒人を差別していた1960年代では余計だろう
この背景への理解がないと、「セクシャルマイノリティを出せばいいと思いやがって」と言った浅い感想になるのも仕方がないと思う
個人的に好きだったシーンはシャーリーがオレンジバード(演奏会を断った後に行った黒人向けの飲食店)で行なった演奏シーン
その前のレストランでのシーンでシャーリーがトニーに向かって「お前がいうなら演奏する」と言った言葉も重要な意味を成していると思う
この物語で何度も耳にしたスタインウェイのピアノ
シャーリーはこのピアノでしか演奏しないというこだわりがあったものの、オレンジバードでは友人のトニーに促されて"酒の入ったグラスの置いてある"バーのピアノで演奏を始める
スタインウェイでしか演奏しないというこだわりを持つシャーリーがトニーの進めで"上流階級ではない黒人"の前で楽しそうに演奏をするこの対比はとても素晴らしい
スタインウェイでしか演奏をしないこだわりを捨て、今まで演奏していた場所とは真逆の環境で楽しそうに演奏するシャーリーからはトニーと育んだ友情や新たな側面が見えたとおもう
ただの色ではなく、様々な色が散りばめられたこの映画はいろいろなことを考えさせられる良い作品でした
P.S.
シャーリーに何が言いたいのかと言われそうな文章で失礼
よかった
人の価値はプライスレス
イタリア系移民のトニーと黒人ピアニスト、ドク・シャーリー。
運転手として雇われたトニーとドク・シャーリーのアメリカ南部でのコンサートツアーを描いたロードムービーです。
道中での体験を重ねるうちに、人種の設定が絶妙だなぁなんて思っていたら…エンド・クレジットを見て驚きました。
よしなしごとはさておき。
財産もあり、才能に恵まれたドク・シャーリーも南部では黒人であるが故に激しい差別の対象となります。
それに対してトニーは白人であるというだけでドクのようなあからさまな差別は受けませんが、同じくらい貧乏な白人からは移民として一段下に見られていることが印象的でした。
育ち
財産
教養
誰からどれだけ愛されているか
そして人種
人の価値を計る指標はいくつもありますが
いずれを持ってしてもそもそも一人の人間の価値を計ることなどできないのではないか。
愛と友情のロードムービーに見せかけたそのバックグラウンドで
様々なパターンの持つ者と持たざる者を対比することにより複雑な問題提起をしている映画だと思いました。
先日鑑賞したDr.カキゾエが著書の中で本作をべた褒めしていたので鑑賞してみました。
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常識という敵と戦う映画
常識という敵と戦う映画
その常識の象徴がタイトル「グリーンブック」なのだろう。
1960年代のアメリカそこに根付く差別意識がどういったものか
またそれをどう受け入れ変えていくかを描いた作品
大きく世界を変えたわけではないが、
個人と、登場人物の手の届く周りへ変化を与える様子を丁寧に描かれている。
はじめはかなり差別主事として主人公は描かれるが、
出会いをきっかけに人種を受け入れていくさまが描かれるが、
このキャラクターは常識がずれているので、
今までかかわりがなく知らなかっただけで、
知り合いになれば、
簡単に受け入れるといった性格であったので、
受け入れる者の変化という曲線は描いていないが、
本当はかなりの差別というものがこういった形で起きているのだろうなと考えさせられる。
また、この作品の優れた部分は、
差別という孤独を抱えるサブ主人公のキャラクターが、
特殊な才能ゆえに差別される側にも受け入れられず孤独を抱え
さらに、差別主義者達の中でのし上がる彼はそこでも孤独を抱えるといった
3重苦に陥っている点である。
あらゆる場所で孤独を抱える彼は、
世界を変えようと、差別を耐え努力するが実らず苦しむ。
そんな彼が自分自身の出自を受け入れ
最後、主人公の家族に受け入れられるという
小さな変化を感じられてきっと
幸せだったろうと思わせる最後になっていた。
本当はサブ主人公が抱える問題は、
もう1つあるが、それはあまり重荷として作品の中で描き切れていなかった。
また、上記のような
粗雑だが、自身の価値観をきちんと持ち、
目で見たことを信じ、常識を簡単に捨ててしまえる主人公と、
迫害されるため、自身のコンプレックスを隠し、
世界に併合しながらも変えていきたいともがくサブ主人公
といった形で、あらゆる点で、コンビを対比させることによって
この2人の会話が常に危うさを持っており、見ていて飽きない工夫を入れられている。
Human&Human
めちゃくちゃ感動しました。
凸凹な関係なふたりがガッチリとハマっていく様が見てて微笑ましく、同時に感動を覚えました。
アメリカにおいての差別問題はかなり複雑だと最近知り、黒人だけでなくトニーのようなイタリア系アメリカ人もときに差別の対象であるようで、なんだかムカついた思いになりました。
暴力は敗北。でも、やられっぱなしじゃ変わらない。
見てなかったことがびっくりなくらい感動しました。
作中では決して黒人を美化して描くようなこともしなければ、白人を美化するようなこともありませんでした。
強盗しようとした黒人もいたし、一緒に音楽を演奏してくれる黒人もいた。
差別を繰り返す白人もいれば、タイヤのパンクが直るまで交通整理をしてくれた白人もいた。
やっぱりHuman&Humanなんだなと。
差別とはひとつの定型を当てはめて偏った見方になることで、白人だってフライドチキンを食べるのです。
トニーはハナから聖人君主なわけではありませんでした。ちゃんと差別をしていた。
そこから変わっていく、人の本質を見るようになっていくのです。
クリスマスに見返したい一本になりました。
追記
勾留されたときに電話した相手がロバート・ケネディだったのは笑った
心温まる友情
ヴィゴモーテンセン好き
チキンの思い出
差別なき世を迎えたそのあした
そういえば「グリーンブック」なるものが有ったよね と語り合うための、希望のロードムービー。
・・
うちの父は
ケンタッキーのチキンがそれはそれは大好きで、そこ、生涯一貫しているものだから、みんながそれを知ってくれている。
親族はもちろんのこと、かつての同僚や教え子たちまで父のチキン好きは伝説であり、決定的だ。
あの頃、1950年代、
進駐軍のクラブでJAZZを歌い、そのギャラで家族の生活費の足しにしていたのが僕の叔母=つまり僕の父の妹だった。
見たこともないアメリカの贅沢なご馳走として「フライド・チキン」を、米軍のフェンスの向こうから土産に持ち帰った妹。
それで父にとってはチキンが妹の愛を知る特別のソウルフードになったわけだ。
この映画は、「そのシーン」をこそ見せたくて父にDVDを贈った1本だ。
・・・・・・・・・・・・・
映画の登場人物は ―
白人だがイタリア移民で底層に生きる男トニー。荒くれていて野卑。
かたや黒人だがカーネギー・ホール上階に宮殿のような住まいを有し、ハイソな演奏をする富豪のピアニストDr.シャーリー。
映画はこの使用者と運転手の「逆転ねじれ現象」が肝で、ゆえに問題多発(笑)の、2人の自動車での旅となる。
今では信じられない事かも知れないが、白人のクラブで歌い、演奏する事を許されていた黒人はたった1人、ナット・キング・コールだけだった時代があるのだ。
黒人が見せしめのために平然と木に吊るされていた当時だ。言語を絶する差別の社会にあってなお、「ナット・キング・コールだけは温情で生ステージが許可されていた」とは、逆の意味で、言葉を失わせるレイシズムの嵐。あの国の暗い歴史だ。
エンディング。
”有名人“を迎えてのクリスマスの食卓。
奴隷であったシャーリーと、移民のヤクザであったトニーの家族の
温かい食卓。
「手紙」がキーポイントだった。
イタリア男はこんなにも妻と家族を大切にする。そして友人をその大切な家族に紹介するのだ。
貧しい中でも、共に分け合うご馳走こそが、人間の心の最も大切な部分に「栄養」として行き渡るのだと
教えてくれるラストだった。
メリー・クリスマス to all ✨
父は93 歳、叔母は90歳です。
チキンは残さずに食べます。
自分的には、とても楽しく見えて大満足に思えたが・・・
ピーター・ファレリー監督による2018年製作(130分/G)アメリカ映画。
原題または英題:Green Book、配給:ギャガ、劇場公開日:2019年3月1日。
1960年代米国が舞台で、黒人差別が著しい南部を黒人ピアニストのドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)と運転手で用心棒のトニー・リップ・バレロンガ(ビゴ・モーテンセン)が演奏旅行を行う。相容れない二人が、次第に信頼関係を構築していくという典型パターン的な展開であったが、黒人差別、同性愛、夫婦家族愛に、いけてるジャズの音楽映画としての要素が加えられ、大いに楽しむことができて大満足であった。
ピアノ演奏の実際は、マハーシャラ・アリではなく音楽担当のクリス・パワーズが弾いていたらしいが、まさにクラシック素養があるジャズピアニストという演奏で、とても良かった。トニーの妻への手紙文面をシャーリーが考えてあげていて、実は妻もそれが十分に分かっていたとのラストのオチも見事だと思った。
トニの息子ニック・バレロンガが製作に加え脚本も担当し、暖かくてとても良い印象を抱いた。しかし、ドクター・シャーリーの家族には、友情関係や孤高の天才描写等は事実と異なるとクレームを入れられている様で、あくまで白人側からの黒人との友情の作り物と見えたということらしい。そこはマイナスポイントであるかも。
監督ピーター・ファレリー、製作ジム・バーク、 チャールズ・B・ウェスラー 、ブライアン・カリー 、ピーター・ファレリー 、ニック・バレロンガ、製作総指揮ジェフ・スコール 、ジョナサン・キング 、オクタビア・スペンサー、 クワミ・L・パーカー 、ジョン・スロス 、スティーブン・ファーネス、脚本ニック・バレロンガ 、ブライアン・カリー 、ピーター・ファレリー、撮影ショーン・ポーター、美術ティム・ガルビン、衣装ベッツィ・ハイマン、編集パトリック・J・ドン・ビト、音楽クリス・バワーズ、音楽監修トム・ウフル マニッシュ・ラバル。
出演
トニー・“リップ”・バレロンガビゴ・モーテンセン、ドクター・ドナルド・シャーリーマハーシャラ・アリ、ドロレスリンダ・カーデリニ、オレグディミテル・D・マリノフ、ジョージマイク・ハットン、セバスティアン・マニスカルコ、P・J・バーン。
『グリーンブック』── イタリア系の不良トニー・リップと、知性と誇...
『グリーンブック』──
イタリア系の不良トニー・リップと、知性と誇りを胸に生きる黒人ピアニスト、ドクター・シャーリーのふたりが奏でる、まるで人生という名の“ロード・ジャズ”。
この映画は、派手な演出こそないけれど、静かに心に触れてくる場面の連続で、気づけば何度も胸を打たれていました。
トニーの人間臭さと不器用な優しさ、そしてドクの孤独と苦悩。その対比が見事で、ふたりの距離が縮まるたびに、こちらの心も温かくなっていきます。
とくに印象に残ったのは、ドクがジャズを演奏するシーン。彼の音に込められた葛藤と誇りが垣間見れて、胸がぎゅっと締めつけられた。
あの時代、黒人として生きることの重さ、そして自分らしく在ることの難しさ──その現実を、美しくも切実に描いています。
芸術的な余韻に浸れる一本。
観終わったあと、心が少しだけ優しくなれました。
全932件中、1~20件目を表示














