哭声 コクソンのレビュー・感想・評価
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ジャンルミックスな怖い映画
小さな村で起こった一家惨殺事件。 サスペンスと見せかけ、ホラー。でも単純なホラーとも言えない妙な映画だった。霊が出てくるホラー、ゾンビ映画、シリアルキラーを捜査するサスペンス、結局どんな映画かわからないまま終わってしまった。 でも、妙な怖さは感じたし、祈祷師(ファン・ジョンミン!)の胡散臭さや祈祷シーンのおどろおどろしさはよかった。 でももう少しわかりやすくしてくれると一般の映画ファンにはありがたかった。
信じる者は救われません
善き人だと思っても悪魔と繋がっている場合があるし、その逆も然りで、物事には裏の裏の裏があって、信じる者でも救われないという、絶望型ホラーでした。 作品を鑑賞していると、コミニュティの一人が原因不明の病気にかかり、それがどんどん感染して村中がパニックに陥り魔女狩りに至った人類史を見ているようでした。祈祷のシーンはアドレナリン大放出で、あんなんだったら皆んながトランス状態になってしまうし、色々信じ込まされてしまうのもうなづけます。つまり、人間は賢そうにしているだけであって、決して理性的ではなく感情的な生き物なのです。
げに凄まじきものは人…
韓国ではこの映画、どう受け入れられたのだろう? 娘を救おうとして頑張った良い父?娘のために狂っていく父? 他者の意見をきかずに盲信。なのに、自分の感情に振り回されてすぐに疑い、総てをひっくり返す。 現代の話だよねと確認したくなってしまう展開。 祈祷とかは楽しめるけれど、 いち村人ではなく、警官なのに、捜査状況駄々洩れ、噂だけで裏付けなし・法的手続きなしの不法侵入、そして…。法より自分の気持ちの方が大切でやりたい放題。 加えて、あんな天気の中でスマホ見ながらの運転…。事件の初期捜査よりも、姑の指示の方が大事…。繰り返すけれど、一般人じゃなく警官。 まあ、百歩譲ってリンチは殺人じゃなく悪霊退治と思っているのだろうけれど、でもその割にはしっかり証拠隠しの偽装もする。普通の村人の仲間も協力するから、特定の人の狂行ではないように見えるので、韓国には日本のような司法システムないのか、田舎には田舎の法があるのかと疑ってしまう。集団ヒステリーに取りつかれているようなエピソードがあれば見方も違うのだけれど、噂は独り歩きしているが、集団ヒステリーまで発展していない。 そして、格上や自分が受け入れられたいと思う人(例えば娘)には低姿勢なのに、格下と思うと自分のやりたいことを押し通そうと無理難題、言う事聞かなければ罵詈雑言・威嚇。ピーナッツ姫のお国柄? 韓国人とはこういう人と思いたくないが、観ていて不愉快になってくる。 主人公のダメっぷりを表しているんだろう(と思いたい)。 普段、まじめに仕事している、人当たりの良い善良なる小市民が主人公なら、徐々に狂気の沙汰に取りつかれるのも、悪霊・悪魔の技?と思いたくなるけれど、 上記のような惑わされやすい自己中人間が主人公だと、周りの状況をちゃんと見れなくて、自分の中の妄信に振り回されているように見える。それが監督の狙い?悪魔も悪霊も自分の心の中にいるって? とはいうものの、映像美は必見。 昔のコダックフィルムのような艶・瑞々しさ。 風景等の構図、色使い、光と影。目が離せない。 音楽も騒がしいが、力強い太鼓のリズム。要所要所で盛り上げてくれ、狂信の世界に惑わされていく。 國村氏が圧巻。 尤も、『愛を乞う人』~『交渉人真下正義』~『パコと魔法の絵本』他にも他にもと、演技の幅の広い方で、國村氏の底力はこんなもんじゃないぞと、ファンとしては思ってしまう。 そして、子役がエクソシストになってからがうまい。ゾンビ役も迫力。 そして、ラスト。 禅問答のような、ソクラテスの対話のような問答。 何をもってして、人は相手をそうと信じるのか。 ぞれまでの、主人公のグダグダさがクローズアップされる。 そして、今まで観てきたこの映画のエピソード・映像のどれが事実なのか、夢・脳内イメージの具現化なのか、噂を映像化したものなのか。 どのピース(シーン)を取り上げて繋いでいけばいいのか…。 否、それだけじゃない。実生活でも、私は何を根拠にそう信じているのか。 映画『羅生門』も自分の視点を信じられなくなった。『藪の中』(映画『羅生門』の原作の一つ)を彷徨わさせられるけれども、この映画よりはまだすっきりしている。 この映画はラビリンスに放り込まれたままで終わる。 (藪の中で出会うのは幽霊か蛇だが、ラビリンスではミノタウロスに出会うかもしれないし) 映画館で観たら、しばらくこの映画に囚われてしまいそうだ。
ダンサブルな祈祷師「来る!」
とりあえず人んちに押しかけて怒鳴り散らして飼い犬撲殺されたら呪っちゃうな♫
この主人公のオッサン警官に感情移入ができない。自分が日本人だからか日本から来たよそ者を悪魔扱いするのは気分が良いものではないですね。日本の映画だったら、特定の国は避けてただのよそ者描写だっただろうな。
日本語がわかるから國村さんの穏やかな口調に怒鳴り散らす主人公に対して、理性的じゃなくて嫌だなって思いました。救いは唯一理性的そうな甥っ子の通訳。
祈祷師がちょっとチャラめの兄さん。日本だったら配役は江口洋介かな。祈祷シーンはカラフルでダンサブル。この辺の派手な祈祷シーンはこの間見た「来る」の祈祷シーンに被るものがある。「来る」のが後の作品だからこっちが被ってるというべきか。
韓国映画はあまり見てきてないので、先日見た「新感染」の次だったので、韓国人ゾンビすきよねー!というイメージ。あと演出が全部派手ですね!
國村さんの演技や娘さんの演技最高。
日本人がやっぱり怪しいよね→からの、ほんとはいいやつかもよ?→と思わせて、やっぱり悪もんでしたー!おーい!戻るんかい!って思ったわ。実は良い人オチで良かったよ、國村さん。
韓国版エクソシスト
クライム・サスペンスだと思って観に行ったら 韓国版エクソシストでした(-_-;) しかも最後がどう考えても辻褄が合わず、意味が分からなかった。 (ネタばれになるので控えますが) 最初から韓国版エクソシストだと思って観れば それなりには楽しめるとは思いますが、 それにしても長過ぎ!もっと短く出来ると思う。
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自宅にて鑑賞。ミステリーの作り乍ら、中盤以降オカルトっぽくなり、オープニング・テロップ(新約聖書、ルカによる福音書24章 37-39節)の引用通り、進行と共に宗教色が濃くなる。K.ドウォンの“チョン・ジョング”とK.ドユンの“オ・ソンボク”もユニークだった言動が徐々にシリアスになり、後半では全く違った役どころとなった。監督の特徴である雨のシーンも多く、犬もしっかり登場した。本作に限っては、食事をするシーンが多い様にも思えた。妙なのを観てしまった想いが強く、万人にはお薦めし難いが、癖になる。85/100点。
・タイトルは物語の舞台である長閑な自然が広がる田舎町“谷城(Gok-Seong)”の当て字であり、韓国全羅南道谷城郡は監督の故郷でもある。どこか懐かしい風景とは裏腹に不気味で凄惨な事件と云う対比に正体不明の人物が跋扈する物語は観る者を惹きつけ、細かな綻びが気にならなくなる。
・'16年における第37回青龍映画祭にて、外国人として助演男優賞を初受賞した國村隼を始め、C.ウヒの“ムミョン”と謎を秘めたキャラクターを複数配置し、相対させた点が本作の大きな挑戦であり、不思議な魅力をもたらしたと云えよう。疑心暗鬼に陥り、二転三転するクライマックスから辿り着く真相は登場人物達同様、観客も惑わされ、善悪の概念が揺らぎかねない──独特な後味と輝きを放つ反面、好みが分かれる所であろう。
・H.ジョンミン演じる祈祷師“イルグァン”が儀式を執り行うシーケンスは約15分間に亘り、ノーカットで収録された。國村隼が行う祈祷シーンは監督曰く、ネパールのシャーマニズムを参考にしたらしい。“ヒョジン”のK.ファニは、もがき苦しむシーンに活かす為、約半年間モダンダンスを習ったと云う。
・クライマックスで登場するカメラは、'78年製ミノルタハイマチックS(Minolta Hi-Matic S)である。冒頭の引用──イエス・キリストの科白を繰り返し、写真を撮る國村隼の掌には聖痕も見られる。もし仮にK.ドウォンの“チョン・ジョング”が云い付け通り、三番目の鶏の鳴き声を待っていたらとも思うが、これらは個々のアイデンティティーが露呈する場面なので、結果は変わらなかったのではと思われる。
・鑑賞後に矛盾してる、辻褄が合わない、破綻している等と云った事を感じたのなら、それは先入観や固定概念がきっと邪魔をしている。亦、面倒臭さから思考停止に陥ったり、自分なりの解釈や熟考を止めると、消化不良、観客に丸投げ等の残念な感想を持ってしまう。思い込みや僻見等を捨て、フラットな状態で観れば、違った解釈が産まれてくるのではないだろうか。何より監督自身が生粋のクリスチャンである事を鑑みれば、自ずと答えが浮かび上がってくる。
・鑑賞日:2017年9月11日(月)
面白いのにもったいない
最初の半分までは最高に面白く高評価だった。謎な事件にリアルな演技と迫力にドキドキが止まらず見入りました。
後半のゾンビ登場から萎えました。何故ゾンビなのか意味わからなかったし誰?って感じ(笑)ラストの方は一気に展開がぐちゃぐちゃになり面白くなったのに、主人公の父親が無能すぎるのと感情任せすぎて何の役にもなってないし、本当にイライラが止まらない。
あほすぎて見るのを辞めようかと思ったくらい判断能力がない。
みんな死んだのも父親の無能な選択のせい。
終わりはスッキリしなかったので面白かったけど評価は3.5
哭声 コクソン 感想
Netflixにて鑑賞しました。 最初から最後まで、何が本当で何が偽りなのか 真実を見つけながらの視聴でした。 祈祷のシーン等は普段日本映画での除霊等は違う雰囲気があり 良かったです。 國村さんの演技がやはり良い意味でこの映画の良さを出しているんではと感じました。
コメディーとホラーは似ている
面白かった。 コメディとホラーは似ているのかもしれない。 最初笑わせようとしているのか、怖がらせようとしているのか、わからないまま、困惑しながら観るも、最後に完全に引き込まれて、もっていかれた。 話のもって行き方がうまいと思う。 最初からホラーの雰囲気で描いていたらここまで怖くは感じなかっただろう。 想像を超える出来だった。
結論までぶちまける
コクソン=哭声=谷城 ダジャレです。 シークレットサンシャインの密陽を思い出した。 そーゆーの好きなんですかね、韓国人て。 そんなダジャレ言ってる場合じゃない、薄ら暗い場面の連続の作品で、いつかこの暗い場面が明るくスッキリするのか?、とは行く訳もなく、 話の展開は、各事件現場や謎の日本人の家みたいにいろんなものをぶちまけて、唐突に終わる。 いつも韓国映画には、期待しない事を期待してる、スカッとした結論にはならないだろうと思って観てたけど、ベクトルが色んな方向に向き過ぎで訳が分からなくなる。 冒頭でキリスト教的な何かを暗示させたり、謎の日本人國村隼はすごく淡々としてるだけなのかと思いきや、後半急に人間っぽさ露わにし出すし、で祈祷合戦の時は数珠持ってたから仏教的な人なのかとか、 でもゾンビ発生させたのは彼だし、 時折鬼のような形相になるし、 途中から登場するカリスマ祈祷師、まさかのファンジョンミンでしたが、彼の祈祷のベースは何に起因してるかよく分からず、 ちょっとしか出てこない白い女、ラストのカラスの件とかからすると西洋的な、キリスト教的なニュアンスを醸し出しているが、如何せん絡みが少なすぎて意外性に乏しい。 観客に問いかけてる雰囲気の結末だが、問いかけてるのかすらよく分からない。 これから観る方には、セリフとか話の筋よりも、視覚的効果が多い内容なので、出来るだけ大きい画面で観て欲しい。
真実が一つじゃない
この映画には真実は存在しないかもしれない。
前半はコミカルな演出で惹きつけつつ、徐々にホラー感が増して行く過程が面白い。
ラストは本当に分からなくなってくる。
見る人それぞれがそれぞれ信じたいことが、真実になるのではないか。明確にこれ、という解答があるのかもしれないが、見た後はそういう印象。
皆が嘘をついているかもしれないし、全く嘘をついていないかもしれない。
個人的には全員嘘はついていないけど、互いに互いを誤解している、というくらいか。
國村隼が悪魔に見えるのは悪魔だと思うからかもね。
映画的には國村隼はイエスキリストとしても描かれてる。ただ、人によっては悪魔にも見えるということか?
最後に手の甲に十字架にかけられたような穴が開いていたし。
どこかの考察で、人はどれだけ人を信じられるか、ということを描いた、と書いていましたが、これが一番しっくりきました。
よい意味で今までの韓国映画と違う
韓国映画はだいたいが精神的に気持ち悪い映画が多く、こういったサスペンスホラーのようなものはなかったように思う。 でも、 なかなかおもしろかったんだけど、長い。そして、長いだけならいいんだけど、最初のコメディみたいな感じはなんなの?あれがいらないんじゃないの?
結局何だったのか!!
娘が変調をきたすまで1時間かかりますが、内容の割にとても長く、散々引っ張っておいてスッキリしない結末でした。長時間なのに謎を残し過ぎで、やはりダラダラした前半が不要だと思います。日本人が憎いという政治的プロパガンダを逆手に取ったような、取っていないような良く分からない映画でした。
「疑え。惑わされるな。」
2016年の公開当初からこの作品が面白いと言う噂をちょくちょく聞いていたもののタイミングが悪く、公開時は見逃してしまっていたのと、韓国映画のハードな描写の物は精神的にも疲れるので、ようやく今になって見てみた。
最初は主人公のジョング目線で物語を見ていたものの最後には俯瞰的に見ている自分がいた。
それは、"男"をはじめ、作品そのものが主人公と言うよりもスクリーンの向こう側の我々を威圧している様な、そんな印象を受けたからかも知れない。
証拠や事実を追うはずの警察官である主人公が印象に惑わされ、神を信じ神に遣えるはずの神父(見習いだけど)が男が悪魔に見えてしまう、"惑わされることで本来の職業とは真逆のアクションをしてしまう"姿が記号化された階級の上位である人間の平静を崩してしまう。
田舎社会と言う閉鎖的な空間、言葉に惑わされたり狂気に取りつかれたりする描写に既視感を覚えて、記憶の糸を手繰り寄せてみたら「ひぐらしのなく頃に」を思い出した。
「ひぐらしのなく頃に」でも似たような疑いの連鎖が事件を引き起こすって言う作品だったけれど、この作品は「ひぐらしのなく頃に」よりも今のSNS社会に対するメッセージにも感じられた。
祈祷師は"釣り"や"餌"と言う表現を使って表していたけど、男や祈祷師(煽動する人間)が釣り上げようとしていたのは、"ジョング"や"村の人々"でもなく、"スクリーンを見ている我々"なんじゃなかろうか。
キャッチコピーは「疑え。惑わされるな。」だったそうだけどその意味する所は作品のストーリーに対してではなく、見終えた後の自分の印象や感想を疑え。と思えた。
と感想を書いた後に考察しているサイトを巡ってみたら、旧約聖書に準えたキリストの話って言う考察があってそっちの方がしっくり来たのでこの感想も惑わされていたっての証明されちゃったな…。
視聴者だって「自分の見たいようにしか物事を捉えられない」
「ヒトは自分の見たいようにしか物事を捉えられない」 こんなシンプルなテーマをしっかり作品に落とし込んだ素晴らしい作品。キリスト教的な知識の前提がないと観れないとの評判もあるが、決してそんなことはない。 何が痛快かというと、前述の「見たいようにしか捉えない」ということが登場人物達の行動原理だけではなく、他でもない視聴者の意識にも意図的に強く働かされている点だろう。そういう意味で非常にメタ的な作品であると言える。 確かに所見のラストシーンを見た瞬間は、空いた口がふさがらないだろう。だがいざ冷静に回想をしてみると、別段注意深く見てなくても、映画論やキリスト教の知識がなくても、違和感を覚えるシーンがいくつもあったことが思い出される。それは韓国人にとって馴染みが薄く「オムツ」とわざわざ言及するシーンがあったふんどしを祈祷師がつけていることや、祈祷師が「呪いの元を殺す為に“殺”の儀式をする」と言っていたにも関わらず儀式を連動して身体を痛めるのが主人公の娘だったことなどが代表的だろう。 しかし視聴者は「この祈祷師は作中でも希少なイケメンだし、なんか必死に頑張ってて善玉っぽい」という印象がある故に、そういう小さな違和感を無視するか、あるいは自分にとって良いように解釈して無いものにしてしまう。 果ては、國村隼が映画や漫画でよくいる「悪人と見せかけて実は善人だった」というスネイプ先生ポジションであることを“作品の盛り上がり的にそっちのほうがありそうだし、楽しいから”という理由で、つまり非常に映画作品をメタ的に捉えた上での直感で決めつけてしまう。 それゆえに、挙げ出せばいっぱいあったはずの國村隼と霊媒師の怪しいところに目を瞑り、ついにはラストシーンで衝撃を受ける。最高にひねくれていて性格が悪い、素晴らしい構成だった。 前半パートの日常を強く意識させる描写も面白い。きっと韓国の田舎町のリアルな空気なのだろう。とても素朴で美味しそうな食事シーンが意図的にたくさん盛り込まれていて、出てくる登場人物たちも決して美形とは言い難い素朴な連中ばかりだ。 彼らのささやかで幸せな日常が十二分に描かれているからこそ、それが崩壊していく絶望感もまた大きなものになっている。 ニュース映像などでみるに感情が昂ぶった時に大声で叫び立てるのは韓国人の習性なのだろうが、後半はもうギャーギャー叫びっぱなしで割とうるさかった。もうちょい静かに落ち込むするシーンがあっても良かったのではないか。 おそらく善なる精霊か何かであろう白い服の女は、主人公が家に帰るのを引き止めたが、それはせめて彼一人だけでも救うために呼び止めたのだろうか? 白い服の女は割と喋れるし動き回れるので、もうちょっと密にコミュニケーションとりながら積極的に行動すれば色々解決できたろうに。(と言い始めると映画自体が終わってしまうのだが)
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