ブレードランナー 2049のレビュー・感想・評価
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裏設定は「早く人間に(大人に)になりなさい」。おっさんは、久々にドゥニ・ビルヌーヴを楽しんだよ。
「ブレードランナー」(’82)
初見は、「ターミネーター」との特別同時上映。確か中学生だったように思う。自分大好きな盛りの中学生であれば、レプリカントがそもそも何なのかすら理解する気もなく、「明らかにロボット」なシュワルツェネッガーことターミネーターに夢中になったのはごくごく当たり前のことである。
その後も何度か観てはいるが、サイバーパンクなカルト人気は理解はするが、いつ見ても全く楽しむことはできていない。
「なにを追っているのか?誰と戦っているのか?」
「見た目が良ければ、それでいいのか?(ここではレイチェルのこと)」
楽しめない理由はそこにあった。
そしてうん十年。その続編ができるというニュースが流れ、ハリソン・フォードも出るという。やめときゃいいのに、とは思ったが、予告からはビルヌーブの作り出す映像は大いに期待の出来るものだった。
だが初日には行かず、何を血迷ったか、「ゲット・アウト」を優先した次第。
だって、ビルヌーブ、「ボーダーライン」「メッセージ」、続けてダメだったからね。
「ブレードランナー2049」
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ライアン・ゴズリング演じる主人公は早々にレプリカントであるということが判明するが、恋人はAIという。
室内限定の抱き枕的ダッチワイフから、持ち歩ける彼女に発展し、、VRのごとく、風俗嬢にお気に入りの顔を当てはめてSEX(と言っていいのか)する。
なんだ、そこらへんにうじゃうじゃいる大きなお友達、ということか。
大きなお友達が電車や駅構内で人の流れに乗らず、周囲に迷惑をかけていることも気にせず、理解せず、スマホという名の「恋人」と「対話」し、その画面を見て「悦に浸る」。
「her 世界でひとつだけの彼女」(’14)でもそうだったが、本作のテーマは
「はやく人間に(大人に)なりなさい。」
きょうび、ゴズリングがピノキオだろうが、レプリカントだろうが、人間だろうが、どうでもいいことである。人間らしさとか、生きることの意義だとか、自分探しとか、自分が特別だとか、「自分が、自分が」と言っているようじゃ人間(大人)になんかなれないよ、と。
ゴズリングは自分が特別ではないことを他者から教わり、それを受け入れ、他者のためにその身をささげて初めて人間となるのである。
もちろん表の話は、神になろうとするジャレット・レトと本来生まれるはずもないレプリカントの「奇跡の子供」という「神話的」な話は、リドリー・スコットのもと、然るべき設定。
これは「エイリアン コヴェナント」を観た後なら、全然予想内の話である。
だが、力の入れようはそんなところではなく、やはり映像とSF的ガジェットにある。尋常ではないほど、いずれも素晴らしく、退屈とは無縁の160分。
愚鈍でやかましく、ぬるい「メッセージ」のような辛気臭いものより「複製された男」のように画面にSF的要素を満たしたもののほうが、ビルヌーブはあっている。
次回が「DUNE」だなんて最高じゃないか。
追記
前作の主人公は、ストリップダンサーという恥じらいのないヘビオンナは後ろから撃ち殺し、奥ゆかしい美女にはキスを強要した。
なるほど、リドリー・スコットはデッカードのことをレプリカント、と言っていたのは、そんな「身勝手な人間」のことを予見して言っていたのかもしれない。
となると、本作は、「主人公を人間に戻す」話である。だから本作のKの設定はレプリカントであり、恋人は自分好みの「AI」なのだ。
だが、本作のメインユーザーはそんなことにはきっと興味がないだろうし、前作の立ち位置が結局「垂れ流し」映画なので、そういう意味では本作もしっかり「垂れ流し」て楽しむ映画にもなっている。
その点でも、本作は要求をしっかり満たすものになっている。
Denis Villeneuve's Dream of Electric Sheep
The original's screenwriter Hampton Fancher helps the story plug into the first film without doing any damage to it as a standalone film, but 2049 sometimes is like a TV drama pulling stylistic cues from the first one--overly long and slow because the first one was long and slow, not so much because there is a story unfolding on the screen. Still, as a fan of the original, it is hard not to like.
観客の感情を巧みにいざなうヴィルヌーヴの手腕
前作から35年。映画界の「伝説」に新たな続編をもたらすなど、どう考えても危険極まりない行為である。しかし彼らは見事に成し遂げた。特に心奪われたのはヴィルヌーヴ監督の構成力だ。「メッセージ」同様、彼はあえて観客のミスリードを利用しながら、これまで映画が到達したことのない深い境地へと手を伸ばす。今回も、主人公ジョーと同じく観客は一つの「確信」に則って感情をいざなわれ、待ち受ける真実に愕然とすることになる。「我こそは選ばれし者」というテーマは「マトリックス」でも描かれたが、運命や宿命ではなく、最終的には自らの決断によって全てを投げ打つからこそ、魂は激しく躍動する。そこにアンドロイドと人間の垣根を超えた生き様がある。ずぶ濡れになりながら役目を全うするジョーの姿には、どこか前作のロイを思わせる節も。3時間近くの旅路を終え、前作でデッカード以上に観る者を魅了したロイの心境に、いま初めて触れた気がした。
人かモノかの問のその先へ
個人的に最も注目していた点は、前作の問題意識――レプリカントのような人工物は人間であるか――からどのようにさらなる問題意識を発展させているかだったのだが、その点は見事に期待に応えてくれた。
本作はレプリカントたちの物語である、前作の、レプリカントは人間であるか、そしてそれを愛せるかという問題意識は、すでに当然の理ともいえるような状況である。(それを快く思わない「人間」もいるのだが)
2017年現在、前作が提示した問題にすでに我々は現実に直面しつつあるなか、さらにその先の問題としてデジタルデータのプログラムにすぎないバーチャルアイドルへの愛があり、レプリカントへの差別がある。差別、ということはある意味で、この社会は彼らが人間かモノかの問いから、次のステップに進んだことを示唆してもいる。そして現にレプリカントぬきではあの社会はまわっていないようにも見える。
ボストン・ダイナミクスの作る2足歩行ロポットや4足歩行ロボットに生き物としての実感を感じ始めている我々現代人の考えなければいけないテーマがたくさん詰まった作品だ。
なるべくしてなった“あっち側”の物語
ドゥニ・ヴィルヌーヴと撮影監督のロジャー・ディーキンスは映像的に本当にすごいことをやってのけた。ビジュアルの権化みたいなオリジナルを継承しつつ、独自のスタイルで世界観を拡張した。続編としてこれほどの正解はないのではないか。
そして顕著なのが、ほぼ完全に“人ならぬ者”の物語になっていること。「デッカードはレプリカントか?」問題はもう当然のこととして推し進められ、もはやほぼレプリカントしか登場しない。メインの登場人物ではロビン・ライトとジャレッド・レトしか人間がいないのだ。
科学が発展した未来において、レプリカントと人間を分けるものは何なのかという、オリジナルが提示しっぱなしだったテーマは確実に深化している。今やレプリカントは被差別者の象徴であり、格差社会の写し絵であり、そして人間性のよりどころでもある。「ブレラン」ってこんなエモーショナルな作品だっけ?とオリジナルファンが戸惑うような、熱い映画だ。
163分はあっと言う間の視覚体験!!
ソーラーパネルがガラスの海のように広がる2049年のメトロポリス、L.A.のビジュアルは、先人が視覚化した煙突から時折飛び出す炎が漆黒の闇を照らす画期的なイメージに匹敵するもの。もし、その前作を未見でも、人工知能を開発してしまった人類に与えられた限りある未来を、誰が、どう切り拓き、どう受け継ぐかという物語の経緯と、そして、涙なくしては見られない結論は、観る人全員を興奮させ、感動させるはず。35年の時を超えて再設定された映画は、だから決して世代を選ばない。ライアン・ゴズリングがここまで役にハマった例はそう多くないのでないだろうか?その透明な皮膚感といい、感情を封印した無表情といい。いずれにせよ、163分はあっと言う間に過ぎ去る視覚体験である。
大御所感が出てきたD・ヴィルヌーヴ監督の濃密な映像世界
「複製された男」そして「メッセージ」と、SF映画ファンの期待に応える快作を作ってきたドゥニ・ヴィルヌーヴ。監督作を重ねるごとにスケールを増してきた感のあるヴィルヌーヴが、満を持してSF映画の金字塔「ブレードランナー」の続編に挑んだ。前作でリドリー・スコットが創造した日本テイストあふれる近未来のLAなどさまざまな要素を引き継ぎつつ、P・K・ディックの原作小説の思索的・哲学的命題も新たな解釈で盛り込んだ(ディックの「模造記憶」の要素も意外な形で登場する)。そして何より、あらゆるショットがお金と手間暇をかけてじっくりと作り込んだと思える重厚で濃密な味わい。編集のテンポ感が少々ゆったりしすぎかなという気がするシークエンスもあるが、軽快なストーリー展開よりも作品としての重みと格調を優先したのだろう。BGMも重低音が圧巻なので、音響設備のよい映画館での観賞をおすすめしたい。
多様性?
ブレードランナー2049、トップガンマーベリックが最高に良かったという人に、「白い巨塔」を見たことあるかと聞いたら、「ある!あれもブレードランナー、トップガンの1作目みたいに暗かったから、アクションシーンを盛り込んだ続編に期待したいなぁ」
バーン:その後どうなったのさ?
ゴーディ:その後?その後なんてないさ。そこで終わり。
(スタンドバイミー)
絶望と少しの希望
埃っぽい一面灰色の廃墟。さびしく一本立っている木。土。人工的でスタイリッシュな空間。「ブレードランナー」と言えば、の降り続く雨の中の極彩色で混沌としたアジアの都会。大洪水を経て、静かな雪の世界が驚きと共に胸に迫った。
映像の美しさと迫力と荒涼感に圧倒された。悲しくさびしく絶望に押しつぶされそうになった。哲学は希望と力を与えてくれると信じたいので最後に小さくても希望を置いてくれたのだと思いたい。が、今の自分には辛い映画だった。
映像美と世界観を楽しむ映画
初めて今作を鑑賞したときは退屈なストーリーで、ただ映像美と世界観を楽しむだけの映画だと思っていた。しかし再鑑賞してみると、ストーリーに対する理解が深まったからか、それなりに面白いと評価が変わる。
レプリカントに子供がいるという衝撃。そして主人公Kの出生の謎が明らかにされていくと同時に、自分という存在について悩むストーリーは中々面白い。実体の無いKの彼女の葛藤も、ストーリーに深みをもたらしている。
初鑑賞したときと同様に思うのが、説明不足で分かりづらい部分が多い。ウォレス社に殺されかけたKの居場所を、レプリカント達による反体制派グループはなぜ探知できたのか。研究所の女が、Kの記憶が自分の移植された記憶であることを知るシーンは、解説を調べてやっと理解した。
アクションシーンは全体的に間延びしている印象。ここはもっと時間を短縮してメリハリをつけた方が良かった。
しかし今作最大の見どころは、なんといっても映像美と荒廃した近未来の世界観だ。雨が降りしきる夜の街。変な日本語の看板があり、歌舞伎町のようにネオンが輝く。放射能汚染で人が住まないエリアは全体がオレンジ色に染まり、謎の銅像が不思議な世界観を感じさせる。
リドリー・スコット監督による前作の方が評価が高めだが、個人的には今作の方が総合的に優れていると思う。
よく練られたストーリー
次々展開していくストーリーにいつの間にか引き込まれる
Kは自分こそが「うまれきたもの」なんだと気がついて嬉しかっただろう。でもそれは植え付けられた記憶だとわかってさぞがっかりしただろう。
それなのに命懸けで行方不明のブレードランナーを救い出した。
スッゲーいい奴だ
ラストもいい終わり方だった
ブレードランナーの世界
Amazonプライムで見ました 長い作品ですが区切りながらでもやはり最後までしっかり見ちゃいますよね 長いといってもラスト10分くらいはテロップが流れるので 実質2時間半くらいです まあ良いデキですね ドゥニヴィルヌーブの作品はプリズナーがすごい面白かったですし 最近見たデューン砂の惑星ですよね これがすごい良かった そしてこの2049ですけどデューンと同じというかSFですね 映像美も綺麗ですけどハンスジマーの音楽特に音響がすごいドゥーーーンーという感じできますね ブレードランナーの世界観が好きな人々にとっては面白い作品といえるかな このストーリーでポイントなのはレプリカントの存在ですね"人造人間"ということでただの人間より遥かに頑丈で強いんだけど死があります この点がなんか儚さみたいのを生み出しているのかなと 前作もそうでしたよね 主人公のジョーはどちらなのかわからなかったです
住みたくない世界
…近未来SF
アンドロイドの世界
人との温もりとかなく
冷えきった世界
荒れ果てた街
生きる望みも持てないの様な世界
何を伝えたいのか分からない
…記憶の中の木で作られた犬
足裏に番号が記されていた
追跡していくうちに自分は…
・・と思った。思い違いだった
記録の中の記憶だった
母親との接点を探していた
愛すること
誰にも愛されない気持ちが
…とても切なくなる
常に無機質な空間ばかりを目にして
木々の鮮やかな緑にホッとする
でもそれはバーチャルに
映し出された建物の中
植物さえも生きられない
人の感情を
もっても意味のないアンドロイド
どんな未来になるのだろう
明るい未来ではない
…行く先の未来は。
先の読めない
プロセスがおもしろい
この監督の独特な
音楽と映像。砂の惑星と同等のレベル
少し音楽が過剰すきる場面もあったかな
前作より好きだ
孤独で、特別でもない。「大義のために死ぬ」ことを否定したジョーは人間らしい、と言うか、もはやレプリカントか人間かは問題ではない。少なくとも、「モノ」ではない。ジョーという個人が存在し、自由意志によってあの選択をした。そして彼のおかげで父子は再会できた。
ジョイとの関係性がものすごく切ない。娼婦の身体を借りて、ジョーと身体を重ね合わせる。どれほど心が通じ合っていても触れ合うことはできないが、確かな愛を感じた。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ作品の、映像と音楽はかなり好みだということを再認識。美しく、重厚感があり、落ち着いている。
続編皆勤賞俳優と呼ぼう
ハリソン・フォードって自分の主演作の続編によく出てくるよねー、とふと思ってタイトル付けてみた。
SFカルト映画の金字塔、ブレードランナーの40年後の世界を描いた続編、だけどオリジナルを知らなくてもさほど取っ付きにくさは無いかも。
レプリカントのKD6-3.7は旧型レプリカントの掃討を行うプレードランナー。彼の管轄のロス郊外で一人の旧型レプリカントであるザッパーを解任、つまり抹殺したところで、ザッパーの家の庭に不自然に置かれた一輪の花を見つけ、その周囲を探索すると地中に箱が埋められているのを発見する。
その箱を回収し中身を確認すると、中には女性のものと思われる人骨が入っていた。
その人骨はレプリカントのものであることが特定されたが、骨の一部にレプリカントではまず起こり得ない傷が発見される。その傷の持つ意味とは。
いつも言うけど続編映画って難しいよねぇ。前作の世界観を維持しつつ新しい物語を作り出していかなきゃいけないし、前作で起こったことを無かったことにはできない。そういう意味で、うまく前作から30年後という設定を生かしたメインストーリーにしていると思う。
これ、例えば10年後とか、60年後だとあまりピンとこないし、何より実際に前作から35年後と近いところも意味が出てくる。ハリソン・フォードの老け方とかね。
ただ、ロスの街並みなんかは前作を強く意識しすぎているので、そんなに日本がアメリカ文化を席捲するようなことになってんのかなぁとかちょっと違和感も。ただ監督曰く前作の世界観を意識したって事なので、やっぱりこうなっちゃうよね。
俳優陣でいうともうアナ・デ・アルマス嬢の可憐さ、健気さがダントツ心に響く。でも、彼女メイドAIなのよね。なのでとっても献身的、いやそれ以上のものを感じさせてくれる。
レプリカントや人間なんかより、よっぽどエモーショナルなところが本末転倒なような、でもAIだと実際そうなっちゃうのかなぁ、もう沼にハマったら戻れなさそうだなぁとか。
あるシーンはAIを愛した人がぶつかる問題のある種の解決策…になるかな。
物語は…ちょっと長い。ダレる。淡々としているので寝そうになる。
一つ一つのイベントがちょっと冗長かなぁと感じた。もっとスピーディーにしたらもっと評価は上がりそうだし、小難しい話を端折ればできそうなんだけど。リドリー・スコット御大が絡むとどうにも講釈が長くなりがち。
あー、このサイバーパンクな世界観懐かしいわーと思えれば星四つかも、でも単品映画としては尺長すぎで-0.5。
フィリップディックの原作を読んだ後にこの映画は封切りで見た。八千代...
フィリップディックの原作を読んだ後にこの映画は封切りで見た。八千代のTOHOシネマだった。金曜日の仕事帰りのレイト・ショーの様な物だったので、大分寝てしまった。今日が初見と言っても良いかもしれない。ラ・ラ・ランドの俳優が出ている事は覚えていた。さて、
女長官が言う
『この社会は壁で仕切られている。その壁がなくなれば、社会は壊れる』この言葉だけで、誰が間違っているか先ずは分かってしまった。
プレジャータイプの話が少し出てくるが、所詮、この領域の技術は『南極3号』の域は脱していない。つまり、物理的男性に於ける性の処理の域を脱していないと言う事で、生物の初期の欲望なのだと思う。女性を含めた生きる哲学はそんな単純なものではないと言い換えられる。『さまよえるオランダ人の妻』の例えはもう語り尽くされた。
ルドガー・ハウアー演ずるレプリカントは雨の中で死を迎える訳であるが、フィリップ・ディックの描くアンドロイドもその運命をたどっていると思う。つまり、電気で動くアンドロイドは夢を見ることが出来ない。たから、この映画の様に奇跡は哀愁を帯びたもので終わるのだ。つまり、所詮、その夢は作られたもので、奇跡なのである。そうでなければ人間の未来は無いのだ。この映画の結論は原作に対するアンチテーゼとして評価する。作られた夢に対する結論だと思う。大変に残念な事だが、レプリカントには生殖能力はないのだから、この娘も人類の後継者ではないし、例え後継者であっても、物理的な男性の存在がなければ、人類の流れは途絶える。つまり、人類は滅ぶのだ。2049年の運命がそうであるならそれはそれで良いとは思う。
愛の無いAIに未来は無い。手塚治虫先生の火の鳥 宇宙編を想い出した。この映画もある意味に於いて傑作だと思う。でも、男のヒゲ面はやめてもらいたい。何しろ汚い。
35年経って作る続編の謎が未だに解けず
中学生の時に劇場で観て衝撃を受けた1982年公開の大傑作カルトSF映画「ブレードランナー」
その続編をなぜ35年も経った2017年にやるのか?という疑問を持って初公開を鑑賞したけど答えは全く得られず無駄に作ってしまった続編ものという感想
そしてドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の新作「デューン砂の惑星 part two」公開に向けて監督作の復習で2024年の今、2度めの鑑賞するも、やっぱりその理由は今だ全然わからず・・・
ダイナミックでスペクタクルな映像は素晴しいですが、広大な映像が多く風景画の様で動きをあまり感じないのと全体的に映像そのものが暗すぎる
そしてそれらセリフのない無言の映像のバックに終始流れる重低音の効いた不穏な音楽、と観ていて非常に疲れる作品です
という所で、抑揚を感じず冗長、一番気になる35年間というギャップを埋めるだけの必然的なストーリー展開も感じず、今回もまた全然ノレませんでした
本作の唯一の見どころはやはりジョイを演じるアナ・デ・アルマスさん
メチャクチャ可愛くて綺麗でスタイル抜群、特にチャイナドレスも似合って最高に魅力的、彼女を観るためだけに鑑賞する価値のある1本
何がイマイチなんだろうとずっと考えてましたが、たぶんストーリーなんだろうな、と思ってます
長いな・・・
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旧型の人造人間レプリカントを捕捉し殺す新型レプリカントが主人公。
人間はそうやって旧型を完全排除しようとしていたが問題発生。
レプリカント同士が作った子供がどこかにいるとの情報が入る。
それは人間側にとっては恐るべきこと。よって主人公が排除を要請される。
主人公にはある記憶があったが、それは問題の子供が持ってるはずの記憶だった。
捏造された記憶だろう、と記憶捏造士を訪ねたが、それは本当の記憶だと言う。
こうして自分こそ問題の子供と信じ、その父親ハリソンを探し当てる。
しかし人間の手によってハリソンは連れ去られる。
そして主人公は自分が問題の子供でないことを知る。
やはり記憶は捏造で、問題の子供は女の子らしいとのこと。
失望しながらもハリソンは命がけで救出した。
結局、問題の子供とは記憶捏造士だった。
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劇場で見た。長い。160分以上。
そんなに長くしなきゃいけない内容でもないってのが正直な感想。
特に最初の1時間なんて話に動きがなくて眠かった。
あと集中力が欠けてたせいか何が何なんだかよう分からんかった。
記憶捏造士が何故に自分の記憶を主人公に移し、それを隠したのかとか、
人間がハリソンを誘拐したのは何故かとか。やっぱり長いのはアカンわ。
前作のようなSF史に残るような作品ではないが。
無限の彼方まで上がりきったハードルは、そりゃあ越えられるわけないですが。
個人的には、レプリカントと実体すらないホロのみのAIの恋愛(のように見えるもの)という概念に一番食いついたかも。アナ・デ・アルマスいいですね。その後の躍進も納得です。
前作の劇場公開版の続編という理解でいいのかな。
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