映画『深夜食堂』は、深夜零時にのれんを掲げる「めしや」を舞台に、夜な夜なさまざまな客が顔をのぞかせる物語だ。常連客は思い思いの料理を頼み、四方山話に花を咲かせる。初めて訪れた客であっても、マスターの作る味わい深い料理に心を癒されていく。
ドラマ版はほぼすべて鑑賞している。『ヤクザの竜とクミの再会』には思わず涙した。また、あがた森魚が出演する『函館の人』も心に残るエピソードのひとつだ。映画版でも、マスターの小林薫は、そんな悲喜こもごもの人間模様を、ちゅう房から静かに見守り続けている。
常連客は皆ひと癖ありそうな人物ばかりだが、その配置が絶妙だ。たとえば小寿々(綾田俊樹)の存在は、外見だけで“何か事情を抱えている人”だとわかるキャラクターであり、彼がいることで、他の常連客や一見普通に見える客たちにも「この人にも何かあるのでは」と思わせる。
この“癖のある常連客”を置くことで、監督はマスターの過去を観客に直視させず、むしろ謎めいた存在として浮かび上がらせている。
特に気になるのは、マスターの“顔の傷”だ。
その理由は語られず、誰も触れない。
マスターの過去を知る手がかりは、その傷跡だけ。
しかし、あえて説明しないことで、観客の想像を掻き立てる余白が生まれている。
「深夜食堂」とは、登場人物の背景を“視聴者の想像力で作ってください”という監督の意図が貫かれた作品であり、そこがまた魅力でもある。
映画版は、3つの物語のオムニバスで構成されている。
ドラマ版と大きく変わった点はなく、豪華さを盛り込むこともしていない。
しかし、タイプの異なる3つの物語を通して、深夜食堂の魅力を存分に味わえる良い機会になっている。
どの物語にも、小林薫演じるマスターの名セリフが静かに息づき、常連客のしみじみとした言葉にも必ず人生の真実が潜んでいる。
そして、どんな場面でも、日々の生活と地続きであることを忘れさせない。
悩んでしまった時、気持ちが塞ぎ込んでいる時、自分の人生にゆかりのある料理を食べると、懐かしい想いが蘇り心を和ませる。
年中無休の「深夜食堂」は、そんな時にふと立ち寄りたくなる“変わらない場所”だ。
メニューは豚汁定食とアルコール類だけ。それ以外は、客の注文に応じてマスターが作ってくれる。
この懐の深さこそが「深夜食堂」の本質であり、マスターという存在そのものが、客の人生を丸ごと受け止める器になっている。
マスターのセリフはいつもゆっくりで、
「じゃないのかな…」
といったようなニュアンスで控えめな言葉が多い。
断言せず、押しつけず、ただそっと寄り添う。
その語り口に、小林薫の声の温度と間合いが重なり、言葉以上の優しさが滲み出る。
観終えた後、
「いつの日も必ず、自分を支えてくれる誰かが、きっとどこかにいる」
と静かに思わせてくれる。
そして、映画に登場するオーソドックスな料理が無性に食べたくなる。
食堂を舞台に客たちの悲喜こもごもの人生が交錯する中、マスターが出す懐かしい味を前に、人々は心の荷をそっと降ろし、胃袋を満たして明日への一歩を踏み出していく。