「~の誇り」悪魔の呪文。それに囚われた男。
栄光はいつまでも続かない。挑戦よりも防衛戦の方が難しいと聞く。
栄枯盛衰。一つの価値観にしがみつけばこのことわりから逃れられない。
複数の、柔軟な視点・価値観を持っていれば変幻自在。持ちつ持たれつ。もしくは何度でも別のタイトルへの挑戦者になることも可能だし、小さくても良い、自分なりの他のタイトルをみつけることもできる。
だけれども、「~の誇り」という甘い響き・周りからの期待から逃れることは、とても難しい。まさに蟻地獄。
そんな、かっては憧れであり、今は家族の虚像となった兄を、意識的にも無意識的にも越えることを回避してしまう弟。勝つことは兄を超えること。だから勝ってはいけない。
有能で家族をひっぱっていく兄と、何もできないから世話を焼かれる弟という立場を変えることができない家族。
そんな面倒を見てやっている”はず”の弟に食べさせてもらっている家族。
バランスが少しでも崩れたら、砂上の楼閣が崩れてしまいそうな。
だからみんな幻想を現実のように信じる。
”誇り”の兄がいなくては、”無勝”の弟は勝てない。
そりゃあ、薬物でもやって現実を見ないようにしなければやっていけないよ。家族って怖い。
”ほめて育てよ”と”褒め殺し”。この違いの見極めも難しい。できたことだけ褒めるんじゃだめなんだな。ダメな部分も受け入れてあげないと…。
よくぞ、家族からの非難覚悟でお父さんが思いきった。
そのつもりじゃなくとも、子を潰す親もいれば、自分の欲望は抑えて子に必要なことをする親もいる。
家族を切るって辛い。
特に母親を中心として家族が成り立つの国では。
恋人の存在も大事。
でもこの恋人じゃ、お父さんがこの循環を切らなければ、厄介な姉達にもう一人厄介な女性が増えただけだったろう。同居の嫁姑戦争に巻き込まれて悩まされるみたいな。
それでも家族って大事って言いたいんだろうな。この映画は。
ベイル氏の演技がすごい。薬中毒のイッチャッテいる感が半端ない。
その陰にウォールバーグ氏やレオさんが隠れてしまう。
でも、ウォールバーグ氏は『テッド』と比べると、『テッド』の役柄を彷彿とさせる雰囲気もありながら、やっぱり違う。
レオさんは『オブリビオン』のサリー(知的で思いやりのある上司)と全く雰囲気が違う。
完全に違う役に成りきるのも役者の力量だが、似ているけど微妙に違う役を演じ分けるのも役者の力量。すごい。
兄の薬物を巡るストーリーが一つの山場。そこまでが、「えっ?!そうだったの?」とうまくできているなあと思う。
でも、そこからがちょっと端折っていて物足りない。
ミッキーが、産まれてから今まで生きてきたなれあい家族から、離れる不安を描くとか、
薬物からの回復=人との信の繋がりへの回復過程をもっと描いて見せてくれるとか、
母の想いの行きつ戻りつという葛藤とか、
の描写が あったらいいのに…。
あまりにもうまくいきすぎて”実話”を元にしているのに、嘘っぽくなってしまう。”実話”を元にしているから描きにくかったんだと思うけど。
とはいえ、この映画をご本人たち、ご家族がご覧になってどうかんじたのだろうか?
ここのレビューでは、このご家族に嫌悪感を持つ方が多いけれど、USAでは兄弟・家族のサクセスストーリーとしてとらえられているのだろうか?
映画の中で、兄の栄光のドキュメンタリーを撮っていると思っていたら、薬物落後者としてのドキュメンタリーとして編集されていたことを知って愕然とする場面が出てくる。当事者からしたら、そんな説明をうけて了承したわけではないだろうし、裏切られた感があるのは当然。
ならばこの映画は?なんて心配をしてしまった。
制作・主演のウォールバーグ氏が描きたかったものを漠然と類推するけれど、ちょっと中途半端になっちゃった感じ。
家族の再生物語や兄・弟の再生物語としては、序盤の家族のうざさばかりが際立って、葛藤部分の人間ドラマが端折られて、ラストのサクセス感で誤魔化されてしまった感じ。
家族の絆を描きたかったとしても、兄・家族との葛藤が不十分で(恋人はぎゃあぎゃあするけど、ミッキーの葛藤が不十分で恋人に押し切られたように見える)、兄と再び組む動機もさわりだけで、ドラマまで昇華していない。
事実を誇張したエピソードが欲しいわけじゃない。心理描写が欲しいだけ。それができる役者が揃っているのだし。
ボクシング映画としては、語れるほどに他の映画を見ていないのでわからないけど、ボクシング場面が少なくて物足りないのではないか?
誰とどう対戦させるか、そこから試合は始まっているのね。その組方によっては育つ選手も育たなくなる。
人を育てるって難しいですね。