緋文字
1972年製作/90分/西ドイツ・スペイン合作
原題または英題:Der Scharlachirote Buchstabe
スタッフ・キャスト
- 監督
- ビム・ベンダース
- 原作
- ナサニエル・ホーソン
- 脚本
- ビム・ベンダース
- ベルナルド・フェルナンデス
- 撮影
- ロビー・ミュラー
- 編集
- ペーター・プルツィゴッダ
- 音楽
- ユルゲン・クニーパー
1972年製作/90分/西ドイツ・スペイン合作
原題または英題:Der Scharlachirote Buchstabe
エマ・ストーン主演「小悪魔はなぜモテる?!」スピンオフ製作へ
2019年7月7日「バジリスク ~桜花忍法帖~」畠中祐、水瀬いのりら出演で18年1月放送開始
2017年11月5日メグ・ライアン、心境を初めて告白
2000年10月17日少し残念。
どこを取っても こなれていない、駆け出しの頃のヴェンダースの作品。
カットごとは良いのだけれど、作業の中で全体を俯瞰して、そのための1カットずつを撮り重ねてゆくことの技術とセンスの難しさを感じる。
名を馳せた3部作まであと10年。
そしていったいどうしたことか?
BGMは、無いほうが良かった。
あまりにひどいサントラ。苦笑。
(子供たちの歌うわらべ歌は◎)。
ただし
1850年、原作者のホーソンが著作「緋文字」で提起した
・偏狭な男社会への疑義、
・宗教と法律をその男たちが取り仕切るから結局新しい土地でもこうなってしまうのだという告発。
そして
・女も人間であるという事実をば、この世に受け止めさせようと願う人権感覚の発露。
― これらが原作に沿ってフイルムに織り込まれていると感じた。
(しかしヴェンダースは力不足で、映画で原作を越えようと願うオリジナリティには未だ及んでいないが )。
・ ・
舞台となっている海辺の村には、中心に教会堂がある。
その前庭はコミュニティ広場、すなわちそこが村の集会場と裁判所と刑場を兼ねているわけで。
そういえば
キリスト教の祖であり、ヨーロッパ文化の大きな底辺であるナザレのイエスという人は、
彼の誕生は、まぎれもなく「夫の存在も知られずに婚外子を産んでしまった村娘」=マリヤの息子としてだった訳だが、
当時のユダヤ教の戒律によれば、許嫁イイナズケでありながらその「過ち」によって孕み、マリヤは村の広場に引き出されて裁判にかけられ、石打ちの刑で殺されるはずだったのだ。
姦通罪の母マリヤは。
・聖書本文にでさえイエスは「大酒飲みの子」(=スラングで「淫売の子」の意)と記述されている。
・イエス自身が十字架刑の裁判において裁判所で何を尋問されても「一切口を開かなかった」と書きとめられている。そしてもうひとつ
・宗教指導者たちがさんざん協議してマリヤの子イエスの処遇を相談していること。
これら
「緋文字」のへスター・プリンの置かれている状況が、「マリヤとイエスの母子像」に重ねてモチーフされていることは、きっと確かだろう。
あの頃は、全員がおかしいと、まともな一人が魔女とか異端とかにされてしまうのだ。
・ ・
劇中、ピューリタンの男たちはニューイングランドに上陸して、そこで自らの作った縄目で、旧態依然、(自覚はないだろうが) 彼らは自滅し、
片やへスター・プリンだけは本物の新天地を目指して出港するラスト。
ご立派な神政政治への否を突きつけて、後足で砂を掛けて出ていく姿は爽快だ。
へスター・プリンではなく、間男が罰される事でホーソンは女たちのために一矢報いたのだろう。
この後半はヴェンダースの映画作りもやっと波に乗ったようであった。
ドイツ語で演じられる英国人の物語。
何か不思議な雰囲気をかもしている。
「ドラマのこの舞台がいったい何処なのか」、
「天上なのか地上での話なのか」、
フワフワさせてよく分からなくさせる手法は、ヴェンダースならではのものだ。
Bunkamuraのヴィム・ヴェンダースの特集に釣られて
ひとりBunkamuraやってる
渋谷に行く暇がないのでU-NEXTでw
それの10夜目
初期の作品とのこと
題材は面白い、中世の風習の不自由さを想像する
映画としてはつまらないんだけど
船乗りの笛吹き男とパールのほんの少しのからみに
『都会のアリス』のコンビじやない⁉︎と嬉しくなった
話の展開が焦ったくて物語に興味が持てず、音楽の使い方が場面に合っていないようにも。
ヴェンダースのセンスを感じることは出来ず、最近の作品の駄目ブリやドキュメンタリー監督としての印象、今や当たり外れの激しい監督に!?
原作を読んだことは無かったが、「スカーレット・レター」を観たことはあったので、理解は何となく。
娘役のパールが「都会のアリス」のアリスに似ていると思いきや、その通り。
すぐに倒れる牧師にイライラする。