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○作品全体
終始「無頼人」「根無草」と言った「宙に浮いた存在」を示す言葉が漂う作品だった。自分の居場所を模索し続けるマチルダの姿と、自分の存在意義を見出そうとするレオンの姿が印象的だったからかもしれない。
作品タイトルを出すファーストカットは、繁々と根を生やす木々から、そのとなりに並び立つニューヨークのビル群を映すカットだ。いずれも太陽の下で「根を生やす」という言葉が共通項として浮かび上がるが、そこで影の中で暗躍するレオンの姿は対比的で、鉢の中で生きる「友人」と共に、落ち着ける空間を無くした存在として強く映る。のちにレオンがイタリア移民であることも語られるが、そう言った部分からも「孤独」であり、かつ長期的な安息地を持たぬ「漂流者」としての登場人物の要素が点在していた。
マチルダも同様だ。マチルダの初登場シーンはアパートの吹き抜けに足を投げ出しているカットから始まる。宙に浮いている足元が強調されるパンワークは居場所が見つけられないマチルダ、というのを端的に示していた。
家族が殺害されたあとのマチルダは見ての通りの「根無草」になってしまった。特に序盤のマチルダはレオンからも追い出されそうになる、居場所のない人物として描かれる。だが、一方でその状況こそが、レオンがマチルダに見出した自分自身を投影する共通項となる。これがなければレオンがマチルダの願望を叶えようとする状況になり得なかっただろう。
2人の距離が近づき始めると、「2人がいる空間」という居場所が徐々に確立されてくる。「宙に浮いた存在」の2人が地に足をつけることができるのでは…という淡い期待を私たちにもたらしてくれるが、その裏で「大人」と「子ども」という新たな線引きがこの空間に生まれてくる。
レオンはマチルダの視点を通して「大人」と区別される存在だが、自身では金の管理が出来ず(トニーに一任してしまっている、とも言い換えられる)、牛乳を偏食する「子ども」の要素が見え隠れする。
マチルダも普段の立ち振る舞いは「子ども」だが、レオン以上の社交性を持ち、口調や目線によっては「女性」に変貌する一面も持つ。
2人の身体面や社会的な部分では間違いなく「大人と子ども」に区別されるが、精神的な部分ではその区別が曖昧になる。距離感が確立しない「宙に浮いた」ような曖昧な関係性がもどかしくもあり、そしてなによりの本作の魅力だった。シンプルなラブロマンスではなく、疑似家族ものでもなく、バディものでもない。枠に収まらない関係性は完全版で加わったシーンによって補強されているのも注目したい。マチルダが背伸びをして大人に近づこうとするシーンは二人の関係性を良い意味で曖昧なものにしていたが、マチルダ役のナタリー・ポートマンは少女の性的消費だと感じたという。たしかにそう感じる部分もあったが、個人的にはむしろ少女が無理やり大人に近づこうとする歪さが、レオンとマチルダの関係性に新たな一面を作っていたと感じた。
物語の結末はその歪さの末路といったように感じる。居場所を求めながらも無謀な復讐に挑むマチルダと、そのそばにいようとするもヒットマンとして暗躍するレオン。二人が別れ際に話す「これから」のことも状況からして現実的でなく、曖昧で宙に浮いた言葉だ。
ラストはレオンの形見のようにマチルダが抱いた観葉植物を植えて、ようやく地に足が着いたといったところだろうか。作品のファーストカットともリンクするこのシーンは、居場所のない、歪さを抱いた人物がなんとかたどり着いた場所として描かれていた。ほろ苦さがあるラストが良い味…と言えばたしかにそうだけれども、登場人物の幸せの限界がここであると突きつけられているような気もして、悲しいラストだと感じた。
〇カメラワークとか
・マチルダに復讐者としてのスキルを教えることをレオンが呑むまでの二人のカット割りが印象的。それに至るまでは二人だけの空間でも切り返しショットが大半で、ほとんど二人を同じフレームに入れようとしていない。孤独な2人、という関係性の強調というべきだろうか。
・家族を殺されたマチルダがレオンの部屋に入れてもらうカットと、終盤の激戦から脱出を目の前にしたレオンのカットは、どちらも主観カットで強い光の方へと向かっていく演出。マチルダがレオンを希望として見出したときと、レオンがマチルダを希望として見出したときには大きな隔たりがあった、ということか。だとするとそこも一つ、「二人の歪」の要素と言えるだろう。
〇その他
・やはりナタリー・ポートマンの名演に惹かれる。無邪気な子供の目をするときもあれば、20歳前後のようにも見える色気、冷たさ、含みを持った雰囲気を作りだすこともできる。シーンによって全然印象が変わる芝居が衝撃的だった。