ハロルドと「肝っ玉ばあちゃん」のモード。二人の出会いが、ハロルドの死生観を決定的に変革したことは、間違いないところだと思います。
学生の頃の蹉跌から、すっかり内向きになってしまっていたハロルドは、希死念慮に取り憑かれていたというよりは「死」というものを、どちらかというと興味本位、面白半分で捉え、重くは捉えていなかったように見受けられます。評論子には。
そうでなければ、他人の葬式を巡り歩いたり、マイカーとして霊柩車を乗り回したり、「せめてガールフレンドでも」と母
親が連れてきた女性の前で、手首を切り落とすようなパフォーマンスなんか、するわけがないと思うのです。
けっきょく、このことを憂いたモードがら、薬を飲んで自ら死を選びとることで、ハロルドに「死」の本当の意味=生きることの意味に気づかせた、ということになるように、評論子には思われます。
つまり、彼女自身が、文字どおり身を挺することで、いわば触媒となって、ハロルドの内側に「化学反応」を起こさせたと言えるのではないでしょうか。
そう考えると、親友としてハロルドを想うモードの心根が、ずしりと胸に痛い一本になると思います。評論子は。
老い先短い自分とは違って、ハロルドには、死を興味・関心の対象として捉えるのではなく、若者らしい生命感に満ちみちて生きて欲しいと、彼女は希(こいねが)っていたことは、疑いがありません。
それは、おそらくは死地(ホロスコート)から九死に一生を得てきたモードの本音だったことでしょう。
そして、その想いに気づき、その想いに応えたハロルドは、愛車の霊柩車をかっ飛ばしたあと、崖から落として粉微塵に壊してしまう。
それらの心根の純粋さというのか、温かさというのか、それらの想いに、胸がいっぱいになりそうな感慨が迫りました。
地元の市が主催する令和5年度男女共生セミナーで、女性納棺師のお話を聴く機会があり、「死を考えることで、より良く生きる」という考え方に触発されて来ましたが、本作も少年の死生観(の移り変わり)を描いた作品だったと記憶していたことから、初観から数年を経て、その講演を契機として、改めて観直すことにしたものでした。
観終わって、その「輝き」が少しもくすんでいないことも、嬉しく思いました。
何年間ぶりに再観しても、やはり、その素晴らしさはら、変わりはありませんでした、評論子には。
やはり、秀作であったと思います。
<映画のことば>
「死んでるのって楽しいと気づいたんだ。」
「分かるわ。そう思っている人って多い。でも、生きてるの。人生から逃げ腰になっているだけ。当たって砕けなさい。時には傷つくことも。でも、思いきりやるのよ。頑張って、相棒!懸命に生きるの。生き甲斐を求めて。じゃないと、面白味のない人間になる。」