◯作品全体
キューブリック監督作品に多く共通する部分として、「狂気」と「正しさ」が関連して語られる点がある。本作の公開前におけるキューブリック監督作品で見てみると、初映画作品である『恐怖と欲望』は孤立した戦場で自分を見失う若者が、『突撃』では不当な銃殺刑を言い渡される兵士とそれを強行する上層部が、『ロリータ』では少女に固執する主人公が、『博士の異常な愛情』では極端な選民思想を訴える博士が登場する。いずれも狂気をまとったような仕草や表情の映し方が非常に印象的で、カメラ目線の異常な目線や、FIXのカメラによる登場人物との独特な距離感が心の中の暗い部分をまざまざと見せつける。
それだけでもインパクトある作品たちなのだが、その「狂気」と併せて語られるのが「正しさ」の在り処だ。
先に挙げた作品の登場人物たちは支離滅裂な狂気ではなく、それぞれがもつ正しさを示すために常識から逸脱した行動を見せる。例えば『突撃』では、命令無視をした部隊への懲罰として銃殺刑を言い渡す上層部の「正しさ」と、何も悪いことはしていない、部隊員の一人である兵士の不服という「正しさ」がある。上層部は上層部で無謀な突撃を指示する「狂気」を内包し、兵士はそれに抗えずに死と直面して精神崩壊する「狂気」がある。作品の世界ごとに存在する「正しさ」と「狂気」。その並立と不協和音の応酬が、キューブリック作品にはある。
前置きが長くなったが、本作はその「正しさ」と「狂気」の表現がより鋭く尖っていた。今までの作品でじっくりと研ぎ澄ませていたその鋭利な表現に、ただただ打ちのめされた。
アレックスが抱える暴力は、暴力を超えて狂気の沙汰だ。一方でそれを抑止しようとする政府の「正しさ」の治療もまた、狂気でしかない。終盤ではその狂った「正しさ」の恐怖から抜け出すアレックス。ただ、その経験を経てもアレックスの頭にある暴力とセックスの景色は、やはり「狂気」だ。そんな行き場のない「正しさ」と「狂気」は一見すると滑稽でSFチックな光景なのだが、狂気を孕んだアレックスの目線や表情、そして「正しさ」に治療されたアレックスを見る周りの人物たちの目線や表情は、心の底からゾッとする。練りに練られた「正しさ」と「恐怖」の応酬とその映し方に釘付けになった。
一朝一夕の「狂気」と「正しさ」の表現ではない。長年培ってきたキューブリック印の「狂気」と「正しさ」の集大成と言える、濃厚な作品だ。
◯カメラワークとか
・冒頭のOPで真っ赤な画面が長く映される始まりは『2001年宇宙の旅』の真っ黒な画面が長く映される冒頭と重なった。何も映されない、始まらない恐怖。いろいろ映されるよりも画面から目を逸らせなくなる。
・一点透視の画面の整然とした空気感。本作以前から一点透視の画面はあったんだけど、『2001年宇宙の旅』から長めの尺で使われてる気がする。そっちの方ではガランとした空間の「静寂」みたいな印象だったんだけど、本作だと「嵐の前の静けさ」みたいな、ちょっと不気味な印象がある。
・「嵐の前の静けさ」で関連して浮かんでくるのが、音楽の使われていないカットの静けさも不穏だった。作家の家と猫屋敷に乗り込むまえの空気感とか。後者は警察に電話した家主が受話器を置くカットで一拍おいてアレックスが奥のドアを開ける。作家にワインで眠らされるシーンも、会話の中で一拍静けさがあって、スパゲッティに突伏する。こういうテンポ感が本当に凄い。
・ナンパした女とセックスするシーンを早回しで「ウィリアム・テル序曲」流すの、何回見てもすげえってなるなあ。ギャグっぽいシーンでクラシック流すのは結構ある気がするんだけど、本作ではクラシック音楽が物語に絡んでくるから突拍子のないものではないし、色気を一切なくした滑稽さの演出として、なんというか、会心だなあと思う。
◯その他
・グロテスクなものに対する耐性はかなりある方なんだけど、治療で目を強制的に開くところは何回見ても直視できない。見てるこっちが涙出てくる。
・看守長がいいキャラしてるんだよなあ。『フルメタル・ジャケット』にも繋がりそうなあの感じ。
・この作品を今見ても古臭く感じないのは、どの世代にも属さないアレックスたちの衣装とナッドサットを使って話してるところが大きいんじゃないかなと感じた。それぞれの時代の作品でヤンキーとか不良を描こうとするとそれぞれの世代でのそれを意識したデザインになっちゃう。シャツの着こなし方とか髪型とか、その時代の口調とか。その点、衣装では世代を見定められないし、ナッドサットもどの世代でもない。でも今でいう「ネットスラング」っぽい感じの、内輪向けな流行語を使ってますよっていうのがどの世代にもある「若者の舐め腐った感じ」の演出にすごくマッチしてる。