【イントロダクション】
「ダウンタウン」の松本人志、第1回監督作品。
松本扮する孤独なヒーロー“大日本人”の日々をドキュメンタリータッチで描く。松本人志は、監督の他に、企画・主演、盟友である放送作家・高須光聖との共同脚本も務めた。
【ストーリー】
大佐藤 大(松本人志)は、6代目“大日本人”として、日本を襲う“獣〈じゅう〉”の脅威から日本を守っていた。妻とは離婚しており、娘とは半年に一度会えるかという頻度。そんな彼の姿を追うべく、密着ディレクターが記録していた。
大日本人とは、大昔から雷の力を借りて巨大化し、獣を撃退する使命を負った一族。かつては人気者として様々な商品とタイアップ、ゴールデンタイムにその活躍を放送する番組が放送される程の人気を博していた。しかし、獣の数がめっきり減った現在では、街の人々から忌み嫌われ、自宅の塀に落書きをされ、石を投げ込まれる始末。番組は深夜の数分枠に追いやられ、マネージャーはスポンサー企業の獲得に悪戦苦闘していた。
ある日、町に獣が出現し、いよいよ大佐藤こと大日本人の出番となる。かつては雷の力を借りて巨大化していたが、現在では日本に数ヶ所ある特別な施設で電気によって巨大化する。大佐藤は施設で特別な儀式を行なって巨大化し、獣退治に向かった。
【感想】
私は、ダウンタウンの『ごっつええ感じ』や『ガキの使いやあらへんで!』のファンであり、松本人志さんの著書『遺書』も読了済み。松本ワールドとも言うべき『ごっつええ』のコントでのシュールな世界観や、『ガキの使い』のフリートークでのトーク力、それらの番組で発揮されていた企画力は、かつて“天才”と呼ばれたのも納得の面白さだ。
しかし、そんな松本人志さんのキャリアにおいて、大きな分岐点となったのが本作による映画監督への進出だ。そして、時期的には監督第2作『しんぼる』(2009)以降、彼はそれまで蔑視していたはずの筋肉タレントへの道を歩むかの如く筋トレに魅了され、やがて黒髪を金髪に染め上げ、現在のスタイルになった。一説では、映画の興行的不振や世間からの否定的なコメントから自らを守る為の「自分を大きく見せよう」という行動だったのではないかとも言われている。
では、まだ路線変更を図る前に監督した本作はどうなのか。私自身は、本作の主人公・大佐藤のヒーローとは思えない冴えない日常、世間から嫌われつつも、政府からの要請があれば変身して戦わざるを得ない立場をドキュメンタリータッチで描いていく作風は、素直に楽しめた。
ライムスターの宇多丸さんが、過去にラジオにて松本人志さんのコントによくある「悲しみの中にある笑い」を指摘していたが、本作はまさに、そういった悲しみの渦中にある主人公を眺めながら、どうしようもなく笑ってしまう瞬間を楽しむ物なのだと思う。
都内の質素な一軒家、それも塀には誹謗中傷の落書きだらけ。自炊とも呼べない簡素な料理を作っては、1人で食事する日々。飼い猫こそ居るが、ペットが生き甲斐でもない様子。
夕方のインタビューの最中にも窓ガラスが割られ、急場凌ぎで補修した場所を夜に再び割られる始末。
大佐藤側は、奥さんや娘とはあくまで「別居中」という感覚だが、奥さん側は「離婚しているつもりなのですが」と答え、既に新しい男性とも親子揃って良好な関係を築いており、暮らしにも不自由していなさそうだ。娘はインタビューで父の職業や家族関係について「分からない」と答え、父親の事にあまり関心がない様子。奥さんのインタビューの内容から察すれば、娘は奥さんの新しい彼氏の方をこそ「お父さん」と認識してすらいるかもしれない。
何とも悲惨だが、同時にどうしようもなく、クスクスと笑みが溢れてしまうのだ。
また、東京都庁に出現した、匂ウノ獣♀(板尾創路)とのやり取りなどは、完全に『ごっつええ感じ』のコントである。そう、本作は“芸人・松本人志”が映画という枠組みの中で行った壮大なコントなのだ。クライマックスでピンチに陥った大佐藤を、某光の巨人にアメリカン要素を足した“スーパージャスティス”一家が助けに入る際、演出をそれまでのCG描写からスタジオセットと着ぐるみによるアクションにスケールダウンさせて描くのは、完全にコントのノリである。
この辺りは賛否が明確に分かれそうだし、私としても「え?」となりはしたのだが、では、「本作をどう締め括るべきか?」と考えた際、インパクトを残すという意味においては、確かにこうした方法はあるにはあるので、何とも言えない。
一つ擁護するならば、松本人志という作家の「オチへの無関心さ」があるように思う。再びライムスターの宇多丸さんの言葉を借りるならば、「松本人志さんのコントは、オチは割といい加減。それまでのやり取りで十分楽しめたでしょ?といったニュアンスのものが多い」のだ。思えば、『ごっつええ』は勿論、VHSでリリースされた3作のオリジナルコントシリーズ『ヴィジュアルバム(HITOSI MATUMOTO VISUALBUM)』でも、そうした唐突な終わりを迎えるコントは多かった。つまり、松本人志さんは映画は勿論、コントにおいても「物語を畳む」という能力には乏しいのだ。なので、本作の終わり方はある意味では作家性の発露として致し方なしといったところなのかもしれない。
ところで、私が本作を評価したいポイントとして、“さり気ないリアリティ”という部分がある。ディレクターがコメントを聞き取れず、大佐藤が直前の台詞を言い直す姿は、ドキュメンタリータッチながらも台詞はハッキリと記録される他のフェイクドキュメンタリー作品にはない演出であり、リアリティと新鮮さが感じられた。
巨大化への儀式にやり直しのディレクションが飛ぶ姿など、まさにテレビ的な要素であり、テレビの力によってスターダムにのし上がった松本人志さんならではの演出だろう。
一方で、本作の製作費は10億円とされているが、果たして何処にそれだけのお金が掛かったのかは疑問ではある。恐らく、CG製作に多額の費用が掛かったのだとは思うし、当時としては本作のクオリティも十分及第点ではあったのかもしれないが。しかし、ならばせめて建物はもう少し派手に壊してほしかった。それこそ、ラストのコントへのスケールダウンというネタを際立たせる意味でも、そこに至るまでは特撮ヒーロー物として本格的なクオリティは必要不可欠だったはずだからだ。
【クセの強い“獣”達の面白さ】
私が本作で最も評価したいのは、作中に登場する怪獣達のシュールなビジュアルと個性的な習性だ。まるで、中学生が退屈な授業中にノートの隅に落書きした怪獣を、そのまま映像化したかの如き姿は、本作のような、所謂“珍品”でしか味わえない独特な魅力がある。
登場する獣は以下の通りで、
・締ルノ獣(海原はるか)…輪となった伸縮する長い手を高層ビルに絡めて倒し、地面に卵を産んで繁殖する。破壊や戦闘の最中でも、髪型を気にしている様子。
・跳ルノ獣(竹内力)…一本足に巨大な頭部が付いた妖怪のようなビジュアルで、絶えず跳ね回って行動する。まるで進まなければ死んでしまうマグロのように、ビルの間に挟まって身動きが取れなくなると、そのまま絶命した。
・匂ウノ獣♀(板尾創路)…まるでタコさんウインナーを頭から被ったような数枚の花弁に似たヒレを持つビジュアルで、その下には乳房も確認出来る。対話も可能で、自身を退治に来た大佐藤とは「♂に求愛されて迷惑している」と語っていた。
・匂ウノ獣♂(原西孝幸)…繁殖を求めて、♀を絶えず追っては求愛行動を繰り返す。その独特な動きは、演じるFUJIWARAの原西さんならでは。どうやら、無事♀との生殖行為には成功した様子。
・童ノ獣(神木隆之介)…人畜無害な子供の獣。何やら母親と競争をしていた様子で、抱きかかえた大佐藤の乳首を吸ったばかりに落とされてしまい、命を落としてしまう。世間では、無害な彼を葬った大佐藤に批判が殺到する羽目に。
・赤鬼の獣…作中では名前が明かされないので、この名称は私による仮称である。大日本人を凌駕する力を持ち、彼を退散させる。再び出現した際には、駆け付けた4代目を撃破し、助っ人であるスーパージャスティス一家にフルボッコにされる。
このように、作中に登場する怪獣の種類は多く、そのどれもが個性的で、印象に残るのだ。登場した獣を紹介する説明文の面白さ含め、本作の白眉は、こうした個性豊かな獣達だろう。
【総評】
お笑い芸人・松本人志が、規制が厳しくなっていくテレビ業界に反抗するかの如く、映画という枠組みを使って描いた壮大なコント。映画として評価出来るかはさておき、彼の作家性は十分に出ていたと思う。
それにしても、本作の当時はイケイケだった松本人志さんも、今や自身の行いによって窮地に立たされており、テレビからは実質的に姿を消してしまっている。自業自得ではあるのだが、かつてその才能を遺憾なく発揮していた人物が、自らの軽率で傲慢な行動か失脚していく姿というのは、勿体無いと言わざるを得ない。