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1 失われた10年が生んだ癒しのヒーローを描く原作小説
原作『間宮兄弟』はバブル経済が崩壊した日本の傷を癒す小説だと思う。
揃って女性にモテず、生まれてから一度も女性と付き合ったことがなく、子供時代から女性に関しては屈辱の個人史しかない兄弟2人。それでも時にキッカケがあると、相手のことはお構いなく勝手に思いつめ、よせばいいのに告白しては撃沈し、兄・明信は部屋に閉じこもってジャズを聴き、弟・徹信は新幹線を眺めに行く――。
30代にもなれば、兄弟と暮らす鬱陶しさに耐えきれず、さっさと一人暮らしを始めるのが普通だろう。でも、この兄弟はずっとマンションで2人暮らしを続けている。
いつものようにフラれても、立ち直りは案外早く、毎日きちんきちんと仕事に出かけていく。
明信はビール会社の社員、徹信は小学校の用務員だ。明信は亡き父と同じ弁護士を目指したこともあったが、高くそびえる司法試験の山を前に早々に引き返した。集団行動が苦手な徹信の理想は初めから用務員で、数多くの研修を受講して、見事に理想を実現した。
彼らは残業もせずに帰宅すると、TVの前でプロ野球の試合に見入りながらスコアカードをつける。
週末にはレンタルビデオを借りて好きな映画を鑑賞したり、好きな本を読みふけったり、公園で紙飛行機を飛ばしたり、夜中に巨大なジグソーパズルを始め徹夜で完成させたりする――全部、2人揃って熱中してやるのである。祖母の面倒を見ている母親の誕生日には、必ず食事会をして祝う。
ある夏、彼らは性懲りもなく女性に誘いをかける。今度は弟の勤務先の教師・葛原と、ビデオショップのアルバイト・直美。自宅でのカレーパーティとか、花火大会などを実施すると、一応女性たちが参加してそれなりに盛り上がったりするものの、最後は予想通りあえなく討ち死にしてしまうw
その後、明信の先輩・大垣の不倫と離婚騒動、直美とその彼氏とのひと悶着、彼女の妹・夕美とその彼氏の登場…などなどが絡んでいくのだが、彼らの多くも恋愛関係に満足しておらず、それぞれ悩みをかかえ、心を痛めたり煩悶したりしていく。何故か、そんなときに彼らは間宮兄弟を思い出すのである。
直美は、彼氏の気持ちに不安を抱きながら「ふられて、そのあと誰ともつきあえないとしても、将来間宮兄弟みたいに、妹とたのしく暮らせるかもしれない。あんなふうにまっすぐに生きていたら。他人の目とか、格好とか、下らないことにしばられずにいたら」と願う。
夕美はフラれた弟の背中に抱き着いて「これは違うよ。アイじゃないよ。友情の抱擁だから」と囁いてくれる。
大垣に別れて欲しいと言われた妻は、徹信の電話をきっかけに、夫に捨てられた自分の悲しみを自覚して涙を流し、最後には心を開いて離婚に同意する。
登場人物たちは間宮兄弟に癒され、読者も同じく癒されるのである。何故か。
兄弟には大きな夢とか出世欲はカケラもない。しかし、自分の足元をきちんと見据え、生活を大事にし、兄弟同士も母親も、周囲の人々も大事にするからだ。経済で、仕事で、異性獲得レースで競争に疲弊しきった人々に、それが大きな慰めとなる。
バブル経済が1991年に崩壊し、失われた10年の後、2004年に江國香織が発表した新たな癒しのヒーロー、バブル崩壊後のライフスタイルをいち早く先取りした人物、それが間宮兄弟なのである。
2 原作の癒しを十分生かせなかった映画化
バブル経済崩壊の6年後、森田監督はサラリーマンのバブル清算とも言うべき『失楽園』を撮ったが、その9年後の2006年、今度はバブル後のライフスタイルを示唆する本作を撮った。
ところが、そのテーマが森田の中で十分熟していなかったのだろうか。本作は落ち着いた笑いと癒しを描くべきところ、肝心の「癒し」の部分を十分前面に出せていないのである。
その典型が、弟が人妻・戸田菜穂にMDを渡そうとして、断られるシーン。
原作では彼女は弟の電話に対し、冷たい言葉を投げつけで受話器を置いた後、突然落涙する。しかし、映画では彼女は自分のiPodを見せて、MDはいらないというのである。これは映像で新しいゲームや家電製品を取り上げて喜んでいたバブル期のアイデアだ。
沢尻の間宮兄弟に対する親密感も描けていない。この結果、兄弟はただの道化回しとなり、ちょっと変わったギャグ映画と化してしまったように思える。
また、北川景子のキャラクターは不十分で、彼女の登場するシーンはほとんど上滑りしている。彼女の演じる夕美の彼氏は、原作では「なんか、こういう仕事、いいですね」としみじみ呟いて徹信を喜ばせるのだが、映画では奇妙に有能なオタクと変更され、最後にはフランス留学することになっている。まだ、<世界と競争>的な残滓を引きずっているのである。高嶋政宏の人物像はヘラヘラ笑っているだけで中身がない。沢尻エリカもいま一つ。
それは森田が原作のテーマに無自覚で、脚本が練れていないからだと思われる。それも無理はないだろう。失われた10年が失われた30年になるとは、当時誰も思わなかったのだから。