コラム:芝山幹郎 悪役映画祭 - 第2回
2020年5月8日更新
悪役の輝いている映画は、なぜ面白いのか。
悪役がしっかりと描かれている映画は、なぜ観客の心を奪うのか。
善玉やヒーローとは異なり、悪役にはモラルの制約がない。悪役は快楽的だ。悪役は負の感情を全開することができる。怒り、憎しみ、妬み、貪欲、凶暴、復讐……現実では抑圧されがちな感情を、悪役は心おきなくさらけ出すことができる。
しかも悪役には、実行力と技術がある。ときには知性や病的な体質も備えている。強力なヒーローと接戦を展開することも可能だ。
そんな彼らが、人心を操り、ハイテクを駆使し、ゆがんだ想像力を羽ばたかせて、観客の無意識の底に潜む欲望を解放し、ときには観客の代わりに滅びてくれる。
だからこそ、観客は悪役に惹かれる。映画という虚構に遊ぶ観客にとって、悪役ほど魅力的な存在はほかにない。悪役の歴史は映画の歴史だ。悪役の楽しみは映画の楽しみだ。そんな悪役の姿や言動や気配を、じっくりと探ってみようではないか。
第2回:化けて膨張するパラノイア 「キング・オブ・コメディ」のロバート・デ・ニーロ
どんな役でも演じられる人、というイメージがロバート・デ・ニーロにはある。ギャングのボス、ボクサー、サックス奏者、実直なサラリーマン、賭博師……。なるほど、と私も思う。どの役に扮しても、違和感がない。その役にすっぽりと入り込み、観客にため息をつかせる。この人には一体、引き出しがいくつあるのか。
メソッド俳優だから当然、という紋切型の指摘もしばしば見られるが、人間の肉体とはそう単純なものではない。自分以外の別人になり切るときには、それ相応の手順が要る。手順だけでなく、意識の、ひいては無意識の改造が求められる。
この過程を踏まないと、役作りは薄っぺらになる。あやつり人形と大差ないものになってしまう。どの世界でもそうだが、マニピュレーション(操作)は簡単にばれる。作り物だ、張子の虎だということが、すぐに露見する。
そんな事情など、デ・ニーロは百も承知だ。百の嘘を重ねてもひとつの真実に負けてしまうのならば、嘘を八百に増やせばよいのだろうか。それとも、別の回路をたどって嘘を構築し直せばよいのだろうか。
並置すると、後者のほうに説得力がある。嘘の上塗りは瓦解も早そうだが、役柄の核に実があれば、話がちがう。つまり、まぎれもない真実、あるいは自身に棲みついて拭いがたい真実を核に据え、その周囲を嘘で固めていく方法。これはけっこう堅牢そうだ。そう、嘘から出た真(まこと)ではなく、真から枝分かれした嘘。あるいは、真から突然変異した嘘。
私の見るところ、デ・ニーロにも、不動の核を思わせる体質がある。彼自身、その体質を動力源としているのではないか。他人にそう指摘されても、彼は苦笑しながらうなずくような気がする。その体質とは……。
パラノイアだ。
「ゴッドファーザー PART II」(1974)のヴィト・コルレオーネ。「タクシードライバー」(1976)のトラヴィス・ビックル。「レイジング・ブル」(1980)のジェイク・ラモッタ。「アンタッチャブル」(1987)のアル・カポネ。「カジノ」(1995)のエース・ロススティーン。
職業や立場こそちがえ、偏執狂的な体質はどの役にも共通している。いいかえれば、思い込みが激しく、無意識が過剰で、理不尽な衝動に振りまわされがちで、心ならずも破滅への傾斜に足を踏み入れがちな体質。
なかでも、永遠に輝く一番星はご存じトラヴィス・ビックルだろう。あの偏執狂ぶりは、一度見たら忘れられない。顔も、姿も、髪型も、鏡に向かってつぶやく独り言も……。だが、頭にこびりついて離れないデ・ニーロ流パラノイアは、少なくともあとふたりいる。「キング・オブ・コメディ」(1982)のルパート・パプキンと、「ケープ・フィアー」(1991)のマックス・ケイディだ。
どちらの映画も、マーティン・スコセッシとデ・ニーロの協働作品だ。デ・ニーロは、ともに悪役を演じ、どちらの作品も「B級」の匂いを強く漂わせている。「タクシードライバー」「レイジング・ブル」「グッドフェローズ」といった「名画」と同列に論じられることはめったにない。
それでも、「キング・オブ・コメディ」や「ケープ・フィアー」は、根強い人気を持つ。この2作には、名作や傑作をめざす意識よりも、楽しみながら見世物をめざす意欲や、映画で戯れようという気分が色濃く漂っている。
いいかえれば、職人が腕によりをかけ、スパイスを存分に効かせた逸品だ。高価な食材や豪勢な食器などには気を遣わない代わり、下ごしらえや火入れを丁寧に行い、けっして手を抜かない料理。下町の、どちらかといえば質素な店でこういう料理を出されたら、思わず舌つづみを打ち、また来ます、と口走ってしまうのではないか。
というわけで、ここで取り上げたいのは「キング・オブ・コメディ」のルパート・パプキンだ。34歳のルパートは、ニュージャージー州クリフトンの安アパートで母親と暮らす売れないコメディアンで、ピプキンとかポトキンとかパンプキンとか、しょっちゅう名前をまちがえられている。そして、ありがちなケースだが、妄想は人一倍強い。
目下のところ、彼の頭を占めて離れないのは、大物コメディアンのジェリー・ラングフォード(ジェリー・ルイス)だ。ある意味ではあこがれ、ある意味では嫉妬と怨嗟の対象。いずれにせよ、気になって仕方がない存在だが、いまのルパートは、彼とは月とスッポンの境遇に置かれている。
ある夜、ルパートは、ストーカーに追いまわされていたジェリーを救出し、内ぶところに潜り込む口実を見つける。ジェリーも社交辞令で、「ネタを見せに来なさい」などと甘い言葉をかけてしまう。実をいうと、これもルパートがたくらんだ仕掛けだ。ジェリーに付きまとっていたストーカー女のマーシャ(サンドラ・バーンハード)は、ルパートに雇われた芸人仲間だった。
ともあれ、ルパートは、サカリがついたようにジェリーの周りを徘徊しはじめる。マンハッタンにある事務所に日参し、デモテープを秘書に渡し、面会を求めて警備員につまみ出される。それでもめげない彼は、高校時代に同級生だったリタ(ダイアン・アボット。78年から88年まで実生活でもデ・ニーロの妻だった)という女性バーテンダーを誘い込み、ロングアイランドにあるジェリーの別荘にまで押しかけていく。当然のことながら、我慢しきれなくなったジェリーは、別荘からルパートを叩き出す。
ただ、そこで懲りないのが、ルパートのスーパー・パラノイアたるゆえんだ。彼の行動は、むしろエスカレートしていく。
なんとルパートは、マーシャを助手に使ってジェリーを誘拐するのだ。白昼堂々、街頭を単身で歩いていたジェリーにいかがわしい銃を突きつけ、車に押し込んで、マーシャのアパートに監禁してしまう(ここはさすがにご都合主義的な展開だが、スリラーではないので、大目に見ておきたい)。
あとはお約束の……といいたいところだが、「キング・オブ・コメディ」は、このあと、なんとも奇妙な展開を見せる。
工業用テープでジェリーをぐるぐる巻きにしたルパートは、彼のマネジャーやテレビ局のプロデューサーを脅し、ジェリーの番組に、彼の代役として出演させろと交渉しはじめる。もちろん、要求を呑まなければ、人質の命はない、という脅しは忘れない。そして、これまた意表を衝く展開だが、派手な衣装に身を包んだルパートは、公開収録の現場にまんまと潜入し、ジェリーの代役として聴衆の前に立ってしまうのだ。
いやはや、なんとも強引なストーリーだが、見ている間は、ほとんど気にならない。スコセッシの腕力が強いせいもあって、映画にずるずると引きずり込まれてしまう。加えて、デ・ニーロの磁力が並ではない。演技の核に置かれたパラノイアの体質があまりにも強烈で、多少の無理や矛盾など、観客は気にかけなくなってしまうのではないか。
この不条理感が、観客の後頭部をしびれさせる。ルパートは、「タクシードライバー」のトラヴィスほど暴力的ではない。声を荒らげたり、人を殴ったり、刃物を振りまわしたりはしないし、ジェリーを脅すときに使う銃も、もしかしたらおもちゃではないかと思わせるくらいだ。
ただ、妄想の激しさと、ストーキングのしつこさは、やはり常軌を逸している。デ・ニーロお得意のニタニタ笑いの陰で、異様までの執拗さが、湿地帯にはびこるカビのようにじわじわと広がっていく。
まともな理性を持つ観客ならば、これはたまらん、君子危うきに近寄らずだな、などとありがちな感想を抱くかもしれない。しかしこのカビは、こちらから近づかなくても、ひっそりと忍び寄ってくる面倒な代物だ。
この不快感と嫌悪感が、映画を引っ張るエンジンとなる。デ・ニーロも、自身の不気味な笑顔や、退くことを知らぬ屁理屈体質が観客を落ち着かなくさせ、怖いもの見たさに近い不安定な宙吊り感をもたらすであろうことを、十分に自覚している。
そう、孤独が高じて、リミッターの針が振り切れたサイコパスになってしまったトラヴィスとは異なり、ルパートは「あなたの隣にいる」サイコパスなのだ。一見、凡庸。露骨に凶暴だったり過激だったりするわけではないのだが、腹の底にとぐろを巻いたひがみと不満と野心の量は、自身でも制御できないほど大きい。
では、良識的と思われている社会は、そんなサイコパスにどう対応しようとするのか。逮捕、排除、抹消、封殺、拘禁……ありがちな解決策はいくつか頭に浮かぶが、「キング・オブ・コメディ」は、このすべてに当てはまあるようでいて、実はどれにも当てはまらない結末を示唆してみせる。なるほど、考えようによっては、ありうる選択肢だ。ルパート自身も映画のなかで、「一生どん底で終わるより、一瞬でもキングになりたい」とうそぶいているのだが、スコセッシはもう一段上の驚きを用意する。
それでもなお、映画を見終えた観客の脳裡にこびりつくのは、なにを考えているのかわからないルパートのニタニタ笑いだ。もちろん、スターになりたい、大物コメディアンに取って代わりたいという彼の欲望と衝動は、手に取るようにわかる。だが実際、彼は、自分がなにを考えているのか、そして自分がどんな位置にいるのか、という事実がわからないままだったのではないか。そういう状況から生まれた悪を、制御するのはむずかしい。