世界一有名なエッチ映画「エマニエル夫人」はなぜ人々の記憶に残るのか? 僕のレズビアン作品の原点だった【二村ヒトシコラム】
2024年1月12日 22:30
作家でAV監督の二村ヒトシさんが、恋愛、セックスを描く映画を読み解くコラムです。今回のテーマは1974年製作、本国フランスのみならず日本をはじめ世界的に大ヒットを記録したエロティック映画「エマニエル夫人」。
現在、フランスの女性監督によるリメイク企画も進んでいるという本作の50周年記念4K版リバイバル公開を機に、二村さんがおよそ45年ぶりに観返した「エマニエル夫人」の感想や魅力を語ります。
これはポルノだと思いました。ポルノであると同時に映画でもあり、とてもへんな映画だとも思いました。誰でもタイトルだけは聞いたことがあるだろう、たぶん世界でいちばん有名なエッチ映画「エマニエル夫人」(1974)のことです。
エッチな映画だったらなんでもポルノなわけではありません。大島渚監督の「愛のコリーダ」(76)は撮影で俳優に実際にセックスさせているということですし男女の性愛がテーマではありますが、ポルノ映画とはいえないと僕は思います。
日活ロマンポルノや今も作られ続けているピンク映画などもエッチな映画ではありますが、それらが全部ポルノであるともいえません。「ロマンポルノはエッチなシーンがたくさん入ってさえいれば製作にGOサインが出るから、あとは映画として面白いこととか高尚なことをやろう」という監督の意思で作られたロマンポルノは、映画会社での業務上の分類がどうあれ、僕がいうポルノではありません。そしてそうやって作られた、エッチなシーンが多いけれどポルノとは呼びたくない映画の中に、面白い映画はたくさんあります。
現代の日本のように凝ったアダルトビデオが発達してない時代や国でもポルノとしてエッチな劇映画がけっこう作られていて、そういうものは今の日本では劇場公開はされませんが配信で観られたりします。「エマニエル夫人」もそうした映画の一本だったのかもしれません。これもおじさんたちには有名なイタリア映画「青い体験」シリーズとかもそうでしょう。
アダルトビデオはポルノ映像であって、もちろん映画ではありません。アダルトビデオの中にも劇映画のように物語があってそれが意外と面白いもの、予定調和ではないガチのドキュメンタリーになってしまったものもあって、そういうポルノは映画に近いというか、結果的に映画っぽくなってしまったポルノですが、そもそもはポルノとして作られている。
映画っぽく作られたポルノのほうが上等なポルノであるといいたいわけではありませんし、あたりまえですが映画のほうがポルノ映像より上だとも思いません。面白くない映画よりも、上等なポルノのほうが、はるかに「いいものだ」と僕は感じます。観た映画が僕にとって面白いか面白くないかはわかりますが「映画とは何なのか」「どうすれば映画になるのか」という定義や条件は知りません。でも何がポルノなのかは定義できます。いちおうポルノを作るのが本業なので。
ポルノとは、見る人を興奮させ、劣情をもよおさせることを最初から目的として作られたもののことです。映像の中でセックスしているシーンがなくてもポルノにはなりえます(過激なイメージビデオなど)。そしてポルノがポルノとして上等であるためには、そこで表現されてるエロスがドスケベでなくてはいけない。
ポルノというものは、作られてはどんどん消費され、消えていってしまうものです(映画だって、ほとんどの映画はそうなのですが)。では「エマニエル夫人」は、なぜ人々の記憶に残り、公開50周年でリバイバル上映されるのでしょう。
どういういきさつの映画であるのか、日本で初めて公開されたときどんな感じだったのかがウィキペディアに(https://ja.wikipedia.org/wiki/エマニエル夫人)わりとくわしく書いてあり、読みごたえあっていろいろ面白いので概要はそちらを読んでいただくとして、その「エマニエル夫人」を僕は今回45年ぶりぐらいに観たのです。それであらためて思ったことを書きます。
最初に「ポルノだと思う」とは書きましたけど、2024年の僕の感覚で観て、けして極上のポルノではありませんでした。でも、なかなかエロかった部分もある。どこがエロくなくて、どこがエロかったかは後述します。
そして映画としても、「エマニエル夫人」は劇映画として製作されているわけですが、ドラマ部分がずいぶん適当です。ヒロインであるエマニエルが何を考えてて、なんであんなに次から次へといろんな人とセックスするのかが、観ている人にはよくわかりません(ポルノというのはそういうものだ、ということもできます)。
観ている人を納得させようとする(というか映画監督や映画俳優が納得して仕事するため)なら、たとえば「エマニエルには何らかのトラウマがあって、そのせいでセックスしつづけている」みたいな言い訳が必要でしょう。そのようなよくある手をつかうと説教くさくなって、かえって映画としては誠実じゃなくなり、つまらなくなることが多いですが。
「エマニエル夫人」には、それがありません。いちおう「夫に言われるままにセックスの勉強と探求をさせられている」みたいな謎設定がありますが、謎すぎて見てるほうにはあんまり伝わりません。伝わらないまま美女エマニエルの性行為を見せられつづけているうち、納得できてないことがだんだん気にならなくなってくる。ところが映画が終わると、そこにはとくに教訓も結論めいたものもないので、やっぱり「この映画は何だったんだろう…」という思いが残る。
やっぱりシルビア・クリステルが素晴らしいんでしょうね。この人、お芝居はあまりうまくはない。エマニエルが何を考えてセックスしてるのかよくわからないのも、脚本が適当なせいもありますが、シルビアさんのせいでもあります。
ところがこの人、ドラマ要素として必要なふつうの演技をしてるときはあんまり魅力がないのですが、劇中で誰か(それが男であっても女であっても)からエマニエルが性的な関心を向けられそれに応じたり、好きあってイチャイチャしだすと、その瞬間にググッと可愛らしく、突如として抜群に美しくなるのです。
そういう人としてエマニエルを演じているのか、もともとのシルビア・クリステルさんがそういう人なのかはよくわかりませんが(という、女優さん本人とキャラクターが渾然としちゃってるところもポルノっぽい)とにかく「彼女」は性欲が強いのではなく「性的な関心をもたれることが好き」なのでしょう。
だからなのか自分の性欲を恥じているようなところがありません。それまでなんだかぼんやりした人だったのが、エッチな感じになると急に輪郭がくっきりして魅力が匂いたつ。そのいい匂いはセックスシーンまでずっと連続します。
これは「セックス演技の見せかたが上手な女優だ」というのとはまた全然ちがうことだと思うのです。
エマニエルと次々とセックスする、ほかの登場人物たちはどうでしょう。
まずエマニエルの亭主です。ひじょうに薄っぺらい人物です。若くて美人でセックスの具合がよくて世間知らずな女房に、自分以外の人も相手にすることを許して性の探求をさせ、もっともっといい女にしたいという説明ゼリフで説明したとおりの行動原理なのか、そんなことを口では言ってますがじつはたんなるNTR(寝とられ)趣味なのか、よくわかりません。
その適当さが、ダメなドラマもののアダルトビデオによくあるAV男優の説明的な演技っぽくもあり、でも同時に人間っぽくもある。現実で「セックスとはすばらしいものである」みたいなことをよく言う男性、これは僕も含めてですが、だいたい薄っぺらいです。マウンティングしてるだけですからね。
薄っぺらいといえば後半のメイン男優である、性の達人というふれこみのインテリおじいさん。この人も薄っぺらい。SNSによくいる「キミはまだ本当のオーガズムを知らない」と必ず言う説教おじさん、もしくは理屈ばっか言ってて基本的に失礼なナンパ師です。
ただ、このじいさんがべらべらしゃべる理屈にエマニエルが耳をかたむけることで、この映画のテーマがアンチ・キリスト教なのだということがやっとわかります。欧米の人たちはキリスト教の影響のもとでは、つまり神の目に見られているところでは罪悪感なしに淫らなセックスを楽しむことができない(日本にはキリスト教のかわりに「世間の目」というものがありますね)。じいさんもエマニエル夫妻も、だからフランスを離れてはるばるタイまで来る必要があったのだということがわかる。
じいさんはそんな理屈をこねながら、そのへんで遭遇した見知らぬ酔っぱらいにエマニエルの美しい脚を舐めさせたり、悪い場所に連れていってみたり、そういうエマニエルにとってハプニングバーみたいな体験で彼女は次第に変容していくということらしいのですが、精神がどう変容したのかはよくわからぬままラストシーンでエマニエルはケバい化粧になって(せっかくの透明感が……)例の籐椅子に座って例のエマニエル・ポーズをキメてカメラ目線で艶然と微笑んで終劇。
最後のからみが男優をいっぱい出して勢いで乗りきろうとしたのにショボくて、このままじゃ終われないのでイメージカットで逃げて終わらせるというのもダメなポルノ的というか現代のダメなAVっぽいですね。
総じて、男たちの理屈は「うん、理屈だね」という感じで、もしかしたら当時の欧米の娯楽映画としては衝撃的だったのかもしれませんが、今も昔も日本人には遠い話のように感じます。そして、総じてエマニエルと男性たちとの性的な行為はポルノとしてはショボく、エロティック映画としても美しくも生々しくもないです。
ところが。
時系列は前後しますが映画の前半、タイに到着して駐在妻たちの社交界に混ぜてもらいはしたものの何を考えてるかよくわからないので微妙にハブられているエマニエルの前に、つねにペロペロキャンディを舐めてる挑発的な小娘が登場し、二人は庭先のベランダで南国の風をうけながら、それぞれ自慰行為を楽しみ果てたあと、なかよくウトウトします。このシーンがなかなかエロいんですよ。少女は自分ですぱっとTシャツを脱ぎすて、開放的に自分の体を楽しんでいきます。開放的というのが「エマニエル夫人」のセックスのテーマの一つなんでしょう。
次に登場するのが駐在妻グループのボスみたいな、綺麗だけど性格は悪そうな熟女です。この人は男好きですが女も好きで、お姉さんぶってエマニエルをインドア・スポーツに誘い、そのままレズビアン行為にも誘います。ここもエロい。
少女と若妻が二人並んでオナニーに耽っている。少女が夢見心地で自らの体をまさぐり楽しみ、それを若妻は見せつけられて発情していく。熟女が、運動着を汗で濡らした若妻の首筋をねちっこく舐めて愛撫する。少女と熟女それぞれの、若妻に対する微妙な感情と美しさへの激しい欲望。この2つのシーンには、エマニエルと男性との無粋で乱暴なセックスのシーンとは比べものにならないぐらい、性行為そのものに関係性のドラマがあります。だから色気があり、繊細でエロい。
まったく余談の私事ですが、僕はテレビの洋画劇場で小学校高学年か中学生くらいで「エマニエル夫人」を観てるのですが、大人になってAV監督になって女性同士のからみを撮ることになったとき、この2つのシーンめっちゃパクッてました。そのことを今回あらためてハッキリ思い出しましたね。脳裏に焼きついてたんでしょうね。「エマニエル夫人」は僕のレズビアンAVの原点でしたわ。ありがとう……。
年配の人たちがみんな「エマニエル夫人」を(じっさいに観たことはない人ですらも)おぼえているのは、配信でも観られるのに今回わざわざリバイバル上映されたのは、それぞれの人がエッチだと強烈に感じたシーンや、観たことない人でも籐椅子のエマニエル・ポーズやあのテーマ曲や、なんなら「エマニエル夫人」というタイトルそのものが、「とにかくエッチなもの」として各自の心それぞれに焼きつけられてしまっているからかもしれませんね。
登場人物としては次に、女性の考古学者がでてきます。駐在妻たちはみんなヒマでヒマでしかたない有閑マダムで(ペロペロキャンディの少女もきっとタイ駐在フランス人のえらい人の家族なのでしょう)浮気やオナニーしかやることがない生活なのですが、考古学者はエマニエルの前に初めて現れた「仕事をしてリアルに生きてるタフな女性」だったのです。すでに熟女から女同士の手ほどきを受けていたエマニエルは、たちまち考古学者のことを好きになってしまいます。そのことに熟女はあからさまに嫉妬します。
後半でおじいさんから差しむけられるモブのタイ人男性たちのことはもちろん少女のことも熟女のことも、エマニエルは性的に受け入れはしますが、その人たちに恋をするわけではありません。好きじゃない人ともエッチなことができてしまうのが、知らない男に乱暴にされてもそれを楽しんでしまえるのがエマニエル。それもまた「開放的」ということなのかもしれません。なんなら亭主のことも何も考えずに夫として愛してはいる(愛することがあたりまえと思っている)のでしょう、しかしエマニエルは夫に魅了されているわけではありません。
愛も好奇心も性欲もあったけれど、恋する心はもってなかったエマニエル。なにも求めないのにセックスはなんでも受け入れるエマニエルが、少女の目には(自分のほうが若くオジサン殺しのはずなのに)自分より圧倒的に魅力的に見える。熟女は自分たちが作った世界に加わろうとしない天然なエマニエルを、性的に陥落させ支配してやりたくなる。けれどエマニエルは彼女たちのものにはならない。夫はそんなエマニエルが(法律上)自分のものであることに自信があった。
ところがエマニエルよりもっと天然な、女同士のセックスも抵抗なくするけれど本当はセックスよりもエマニエルのことよりも遺跡発掘のほうが好きな美しい考古学者に、こんどはエマニエルが心を奪われ、天然じゃいられなくなってしまう。恋をすることでエマニエルに初めて人間の感情らしい感情が生まれてしまう。恋愛のパワーゲームです。
セックスしまくっている人たちが、じつは皆さん、ぜんぜん自由じゃありません。セックスそのものにはとらわれていないかもしれないが、嫉妬とか自分の恋心には充分とらわれている。
もしも僕が「エマニエル夫人」を現代にリメイクするなら、50年前の西欧の映画だから仕方なかったタイの風土に対するナチュラルな差別感覚(それと登場するタイ人にキャラクターがないの)と、同性愛への無意識の差別(女同士だと悲恋に終わるとか、男性同性愛的な表現が出てこないの)をなんとかしたいですね。
具体的には、エマニエルの亭主をもうちょい面白い人にしたい。エマニエルがバンコクに到着すると亭主はタイ人の男性執事を愛人にしていて、いきなり3人でやるとかね。あからさまにアンチキリスト的なセックスを先に見せといたほうがいいんじゃないかと。
そして、考古学者に恋するシークエンスと、おじいさんにあちこち連れ回されるシークエンスの順を逆にします。熟女から女の味を教えられたことを亭主に報告、それからおじいさんの指示でモブではないタイ人の若い男と交わり体は開発されていく。そこで考古学者と出会う。亭主を捨てたエマニエルは考古学者と淫らに愛しあいながら二人でアジアの他の国へと旅立つ……(それ以降を続編にして、つまり「続 エマニエル夫人」や「さよならエマニエル夫人」では女性の考古学者が夫の役回りになる)。
というふうにすれば、まあまあ現代ふうなんじゃないでしょうか。以上、勝手な妄想でした。
あと最後にどうしても、例の主題曲についても触れておきたいです。映画のタイトルと同じくらい有名なエマニエル夫人のテーマ(検索すればすぐ出てきますが、いちおう貼っときます。https://youtu.be/ksKr6p6GyFA)、フランス語だから歌えないけどメロディだけいつまでもリフレインしてしまう。僕は年越しそばを茹でながら鼻歌でずっと歌ってました。
あんまり「映画とは音楽だ!」とは思わないんですけど、たとえば世界一有名なSF映画「スター・ウォーズ」のことは、けっきょくダースベイダーというキャラクターの造型(くりかえされる父と息子の物語)&あの勇ましいテーマ曲なんだよなーとは思います。同じように世界一有名なエッチ映画「エマニエル夫人」も、けっきょくシルビア・クリステルという女性の魔性の魅力&この主題歌こそが、映画そのものなんだと思います。
歌詞は字幕で見ると「愛の歌を歌うエマニエルよ、君は若く美しく淫乱……」みたいな、わりと映画の内容そのまんまなんですけど、鼻にかかったような男の歌声と曲調の哀愁が胸にひびきます。
「エマニエル夫人」 は悲恋劇ではなく、若妻がさまざまなセックスを知って自由になっていく物語のはずです。なのに、まるで過去にすぎた恋を想うような、死んだ恋人にささげるようなこのメロディがぴったり。この曲あっての「エマニエル夫人」です(ところが驚くべきことに「続エマニエル夫人」にも「さよならエマニエル夫人」にもこの名曲は使われてないんです。現代の大ヒット映画の続編なら考えられないことです)。
美しい人間がたくさんいろんな相手とセックスをするということ、映画でもありポルノでもあるこの映画の観客が見たくて興奮したかったそのことに、こんなに哀しさと儚(はかな)さがマッチする。もしかしたら「エマニエル夫人」のテーマってアンチ・キリスト教とか性の解放みたいな単純なことではなく、「人間がセックスにおいて自由であることのさみしさ」なのかもしれませんね。なんか最後の最後で急にこむずかしいこと言い出してすみません。
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