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様々なマイノリティが声をあげるようになって久しい現代で、なお無言のまま生きざるを得ない人間がいる。更紗の感情を追いながら物語を見ていたが、終盤に文が見せた姿に衝撃を受け、彼の背負った苦悩に気持ちが引き寄せられた。
第二次性徴が来ない病を抱えた文は、正しいことしか認めない母親に自身を受け入れられないまま育つ。幼い更紗を誘拐したとみなされ「犯罪者」となった後は、家の離れに数年間閉じ込められる。その後カフェの経営を始め、大人の女性であるあゆみとの交際を試みるものの、セックスが出来ないこと自体を打ち明けられず、行き詰まってしまう。
彼が心を開き癒されるのは、体の関係がなくても特別な絆を認め合える相手ということに、必然的になる。傍観者たちが彼のことをロリコンと呼ぶ場面があるが、彼を受け入れる大人の女性は少ないだろうし、そもそも打ち明けることさえ困難なコンプレックスだという事情を汲めば、本人にとっては純粋な趣味趣向というわけではなく、選択肢が狭まった結果なのかも知れない。
従兄からいたずらをされた経験からセックスに拒否感を持つ更紗となら、互いの痛みに触れずに癒しあえる組み合わせになったはずが、最初の出会いが早すぎたことで様々な悲劇が起こってしまう。
二人が時を経て再び接触したことが表沙汰になった時、世間の反応はひたすら冷たく、野次馬たちは残酷だが、警察や直接関わりのある人々に関してはそれも仕方ない。彼らの最初の邂逅は、形式的には完全に未成年者誘拐という犯罪であり、その行為は通常ほぼ大人側の悪意のもとに為されていることもまた事実だから、警戒しない方が難しい。映画の観客と違って当事者の周囲の人間には、文が善意なのかどうかや、更紗が騙されていないかどうかなどを彼らの言葉だけで判断するのは不可能だ。
シングルマザー安西さんの娘を預かって深刻な誤解を受けるのも、そういう背景がある以上どうしようもない。(ただし、週刊誌やネットの誹謗中傷、スプレー落書きやチラシばら撒きの野次馬、帰ってこない安西さんは許されない。)
文が社会から疎まれることなく、恋愛関係やそれに匹敵する他人のぬくもりや受容を得るハードルはかなり高い。カミングアウトで理解を得ることも、おそらく他のマイノリティに輪をかけてしづらい。想像を絶する孤独だ。
そんな彼が、最終的に更紗にありのままの姿を受け入れられてよかったと思う一方、このご時世の治安が染み付いた頭の片隅で、彼らの関係の始まり方を屈託なく肯定することが出来ない自分もいた。
もっとも原作者はそんなこと分かっていて、社会のルールを踏み越えざるを得ないほどの居場所のなさや孤独を描きたかったのだろう。ルール通りやることが、彼らを再び地獄に放り込むことになる場合もある。同じことを「万引き家族」や「ひとくず」でも感じた。
広瀬すずの熱演と、体を張った松坂桃李の静と動、広瀬の子供時代をシームレスな印象で演じた白鳥玉季、それぞれに見応えがあった。横浜流星の演じた亮の不穏さ、一見物分かりのよい彼氏の(薄っぺらい)仮面が次第に剥がれてゆく様はリアルで怖かった。
前半で、文と更紗が楽しく過ごす場面の劇伴が唐突にテンション高いポップスだった点だけは違和感を覚えたが、空の雲行きや欠けた月、地方都市の空気感などの映像描写は美しく、登場人物の心模様を暗示する場面も多く、印象に残った。
追記
文のカフェの店名「calico」は「更紗」を意味する。