パラサイト 半地下の家族のレビュー・感想・評価
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至福
「殺人の追憶」で韓国映画にハマって早10年以上。
ポン・ジュノ作品のソン・ガンホを映画館で観れて
幸せ。そして面白いからこの上ない幸せでした。
半地下に住む下層の人たちが金持ちの家に侵入して行く
と言う情報は得てたので、
初めの展開は分かるけど、そこからがもう次に何が起こるか予想が出来ず、
何が起こるんだ?まさか?予想と違った!
の連続でとても楽しめた。
ポンジュノは観客の「面白い」を分かってる気がして、
手の平で心地よく転がったと言う感覚です。
前の家政婦が怖い顔でインターホンの前で立ってるのも
ソン・ガンホが一瞬キレるのも、
まさか急にここからホラーになる?
いや、サスペンスか?
と揺さぶられました。
シリアスとコメディのバランスもとても好みだった。
監督はもちろん狙っての事だけど、
登場人物達は必死だから余計に面白い。
金持ちと貧乏人の対比も上手く
特に大雨と雨が上がった後のギャップは
観てて苦しくなるほど丁寧に演出されてて
行き届いてたし、
金持ちも決して悪い人じゃないけど、
その気遣いが、その余裕が、その仕草が
自分を惨めにするんだ。
と言うのが伝わって来て苦しかった。
匂いがトリガーになるのも説得力が凄くあった。
匂いで、生き物として君と僕とは違うんだよ
と言われてるような無意識の差別は
映画だがら実際臭わないけどリアリティがありました。
何かアトラクションを体験した。
今そんな気持ちで感想を描いてます。
2020年発映画館、良い体験でした。
賞を取るほどの映画なの???
山水景石
貼付いてくるその凶器は、自分の死を暗示しているかのような啓示だったのだろう。「責任を取る」という台詞に、伏線回収が成されているのは韓国映画としての矜持か、それとも『カンヌ』流の作家性の“臭い”の攪拌なのか・・・。それ以外は、とにかく“オトボケ”色満載の作品である。その煙に巻く展開は、観客の好みがハッキリと分断される問題作でもある。かなりの寓話性が伴うプロットなので、このフィクションを如何にリアリティに映像化できるかに監督の力量が試されるのであろうが、ポン・ジュノ監督、または俳優達のレベルの高さが“問題作”としての引き上げをたらしめたと強く感じた。
但し、後半の唐突な展開による第二幕の畳み方が、少々拙速気味なのが感じられてしまったのが寂しい。勿論、スリルとサスペンス感は充分演出されているのは体験できたが、クライマックスの激しさと、その顛末及び、ラストの兄貴の妄想?シークエンスを見せつけての現在時間に引き戻すオチは、“計画”と“無計画”というテーマ性故とはいえ、一筋縄ではいかない観客への忖度ゼロ度の宣言をぶつけられたようで、そこに何処まで監督の意図を汲み取ることが出来るか、リテラシー力のリトマス試験紙的作品なのかも知れない。文学性、作家性のみで構築されている今作に於いて、単純に経済格差、貧富の問題を引合いに出すのは簡単である。実は別の“地底人”が住んでいたなんていうオカルト色も驚愕した。唯、その大掛かりな仕掛けをしなければいけない程の訴えが、前述した“格差社会“へのアンチテーゼ、そしてルサンチマンへと結びつけるだけだとしたら疑問であり、もっとそれ以外の何かを”隠しテーマ“として訴えている筈である。それがどのようなものであるのか、頭脳が覚束ない自分では解明できる訳もなく、解釈の難しい今作の真意を、その都度考え続ける事になるであろう。それこそが狙いなのかも知れないのに…。
死んだ人、生き残った人、それぞれの境目にヒントが隠されていると睨んでいるのだが、ハテサテ…韓国の大学入試並の難易ということだけはハッキリ理解出来た。
PS.何故だか、翌日からずっと今作品の事ばかり気になり出し始める。何故、妹のみが犠牲になったのか、何故あの洪水の翌日も又、性懲りもなく金持ちの家に仕えたのか、兄がモールス信号を偶然発見した時期には、もう警察は尾行していなかったのか、そして最後の演出である、金持ちになって父親を救出するあの荘厳な場面を所謂”妄想オチ”としたのか、緻密で複雑且つ数多の伏線回収の施しにより、観た直後よりもこうして数日経った時に不意に脳裏をかすめてしまう今作品の底力に改めて驚愕するので、点数を上方修正することとする。
PS2.芥川龍之介著『蜘蛛の糸』を思い出して、今作のモヤモヤ感の一端は解消されたように思えた。今作の割り切れない最大のキモは、正に”弱者同士の醜い争い”に尽きる。この問題に”芯を喰った”概念の映像化が、今迄のどの映画作品よりもより鮮明且つ押し出しの強大さによって観客に揺さぶりを掛けているのであろう。本来ならば弱い者同士、連帯するのが清々しい。しかし現実は、圧倒的に覆すことが不可能である経済格差によって、人権そのものが停まる寸前のコマのように芯がブレてしまっている現代である。そして生存競争の対象は”施しを受ける神”ではなく、隣にいる同じ弱者なのだ。そのさもしさは、人間の本質として蓋をしてしまっておきたい”恥”なのである。パンドラの箱を開けた今作のアカデミー作品賞受賞を祈らざるにはいられない。
くせありすぎな家族。
評判通りの傑作
面白いというには複雑すぎる
あーどうしてこの監督はコメディをとってくれないのかな、と思うほどコメディ的な面白さもいっぱい。でも貧富の差というほど単純ではない抜け出ることのできない泥沼の世界と、こちらも決まりきった豊かな生活の人々の心の動きがうまく描かれていて、かなり苦しい。
考えてみれば、最もお金のある人の家に住み込みで働くのは最もお金に不自由している人たちとも言えて、私などは普段決して垣間見ることのない二つの極端な世界が接点を持っていることに人生の憐れがある。
3つの家族、は共に少しの思いやりと をもっていればこの惨事はなかったところがなんとも皮肉。軽蔑しているものに興奮を覚える下卑た人間、匂いへの嫌悪感、ずる賢さには頭は回っても大きな図の書けない矮小な人間、外国かぶれ、誰もが少しは思い当たる人間のちょっとした嫌さがほんとに上手に描かれていて、物凄く複雑。
アカデミー賞?取るかも😃
どの国も問題多い
紹介から会社社長の家庭教師へ入り込み、前に働く人たちを解雇させて家族を職へと結びつける様は面白くて、家族の頭の回転の良さに驚いた。
しかし、やはり金持ちと金のない人との差が激しく、表面的には優しくしているが、結局は見下している。
金持ちの匂いと半地下の匂いはかなり違うらしい。
最後は定番の貧乏人たちの殺し合い。
親父は腹の立つ金持ちを殺し、家政婦夫婦が暮らしていた、完全地下へもぐる。
ずっと暮らして行くことになり、半地下から本当の地下へ。
パルムドール
こんな風に映画を作れたらいいのに
とても楽しめました。観ている途中、ふと「ジョーカー」を思い出しました。坂のシーンが印象的だったからかもしれないけど・・・
ただ、どちらも世の不条理だったり、計画通り人生ってまわらないよねってところを描いている部分はリンクしてるのかも。
アメリカの今が「ジョーカー」だったら、韓国の今は「パラサイト」なのかもしれませんね。
そうしたら日本はどうなんだろう?キラキラした観客に押し付けるような、こびるような、そんな作品作ってるばあいじゃあないんじゃないかなー。
ま、需要あるから作ってるんだろうけど。
こんな風に映画を作れたら、きっと、良いだろうなあ。
最近なにかの映画の本で、ワンカットの中に、どれだけ情報を入れられるか、みたいなことを書いてあったので、そういう視点に立って見たりするんだけど、いっこうによくわからんというのが正直なところなのです。
でも、例えば今作品の半地下から見える通りの風景だったり、豪邸の庭でパーティーやってるのを2階の部屋から撮ってて、カメラがパンするとキスしてる2人とか、そういうことなんだろうなあ、と独りごちていました。
こういう色々よく考えられて撮られている映画って、そういう視点で見るのも面白いものですね。
この映画観て周りの人がどんな感想を持つのか、そういうのを話すのが楽しみになる映画でした。
持てる者と持たざる者と…
『周囲には多少なりとも匂いに気を配ろうと思った』
ご贔屓の監督最新作。前半はブラックコメディの様なテイストだが、両極化する格差と加速する金権・拝金主義、見棄てられ孤立化する核家族、経歴詐称・身元不明失踪者、大雨による自然災害等、現代が抱える社会問題が盛り込まれており、中盤以降一挙にストーリーが加速すると不穏な空気を残した儘、突如幕を閉じる。全体としては監督のキャリア初期の佳作『ほえる犬は噛まない('00)』に似た印象で、過不足感が無い反面、物語的に着地点を模索していた様な後味も残る。随所に監督独自のセンスフルでアーティスティックな画面が窺え、一筋縄ではいかない珍作と云えよう。65/100点。
・この物語のそもそものきっかけを作ったパク・ソジュンの“ミニョク”から託された盆石が重要なアイテムっぽく意味有り気に描かれていたが、何を意味する物だったのか、或いは何かの象徴だったのか今一つ判らなかった。恐らく作中内での扱われ方が中途半端に思えたからであろう。
・チャン・ヘジンの“キム・チョンスク”が元ハンマー投げのメダリストの設定だったが、“キム・キテク”役のソン・ガンホが水没する我家から大切な私物をピックアップする際、手にしてたメダルがそれであると思われる、そう云えば、ペ・ドゥナが演じた『グエムル -漢江の怪物-('06)』に登場する“パク”家の長女“ナムジュ”はアーチェリーの選手であり、矢が重要なアイテムを担っていた。
・道路以外はほぼ全てと云う大規模なオープンセットにて撮影は行われ、登場する“ナムグン・ヒョンジャ”なる建築家は架空だが、この豪邸は映画の為に一から建てられた。尚、撮影は77日間に亘り、総製作費は約130〜150億ウォン(11.8憶~13.6憶円)だと云われている。'19年6月24日に公開されたインドネシアでは、'19年7月28日の時点で、50万人以上の観客動員となり、韓国映画として過去最大となる興行収入を記録した。
・パク・ソダム演じる“キム・ギジョン”が偽造するチェ・ウシクの“キム・ギウ”の入学証明書等、大学関連の書類は監督の出身校である延世大学を基にしているらしい。亦、“キム”家が水没するシーンでは大量の泥パックを使い、水を濁らせ汚水に仕立てたと云う。
・豪邸の新しい所有者がドイツ人だとされているが、冷蔵庫に附けらているマグネットは、ベルンの旗、スイスの旗、カペル(ルツェルン)橋、ユングフラウ山名とスイスに由縁する物ばかりである。
・監督によると、本作の構想は『オクジャ/okja('17)』の準備をしていた'15年頃からあったらしいが、乗り気になれず遅れたと云う。その後、一念発起しハン・ジノンと共に約三箇月半でスクリプトを書き上げたらしい。尚、エンドクレジットで流れる「A Glass of Soju」と云うナンバーも監督の手によるもので、唄うのは“キム・ギウ”を演じたチェ・ウシクである。
・脚本を書き乍ら監督がイメージしたのは、“キム・キテク”に過去四度(『殺人の追憶('03)』、『グエムル -漢江の怪物-('06)』、『スノーピアサー('13)』、『オクジャ/okja('17)』)使ったソン・ガンホと“キム・ギウ”には同じく『オクジャ/okja』で一緒だったチェ・ウシクを最初にキャスティングしており、この二名のみ所謂“当て書”である。“パク・ヨンキョ”のチョ・ヨジョンは『情愛中毒('14)』の演技が監督のお眼鏡に叶い実現した。
・某サイトに載ってた評が本作を端的に語ってたので以下、引用──
> 或る瞬間から映画のジャンルが変わった。歴代級におもしろい映画。
> ポン・ジュノというジャンルだ。
> ホラー映画でもないのに、どうしてこんなに心臓がドキドキする?
> 不快で残忍な映画だった。
> 時間が経つ程、心苦しくなっていく。
> 家族悲喜劇の様に見えても、子供連れで見るのはお薦めしない。
> サイダーみたいにスッキリ爽快なのを期待してたけど、焼酎を三杯注がれた気分だった。一杯目は楽しく、二杯目はめまいがして、三杯目はとっても苦いネ。
> 映画と云っても、私には殆どドキュメンタリーに思えた。この映画を観てスタンディングオベーション出来るなんて、私は胸を押し潰されて、暫く立ち上がる事が出来無かった。
爽快で、滑稽で、残酷で、哀しい…心搔き乱される作品。
凄く良かった。
現代版 “蜘蛛の糸”。
強固な身分制度が生み出す閉塞感。
その息苦しさに一筋の光明が差したかと思いきや、この世に生を受けた同じ人間にも関わらず、生まれながらの格差が、越えられない高い壁が行く手を遮る。壁の向こう側、糸を持つ者たちの理不尽な物言いに絶望して…遂には。
そこには弱者が強者の裏をかく爽快さ。
強者の驕りと間抜けさ、弱者が故の滑稽さ、両者が相対する際のチグハグ。
弱者が成り上がるために同じ弱者を押しのけ虐げる残酷さ。
強者側に立ったと錯覚した弱者の、これまで意識もしていなかった乖離の哀しさ。
喜怒哀楽、パキッとどれかの感情に偏るのではなく、必ず何かと何かの感情が入り混じり、心搔き乱されます。
観終わった後、揺さぶられ続けた心の置き所に迷い、暫し放心して、気が付けばドッと心地良い疲れに浸っている…そんな作品でした。
特筆すべきは、視覚的な対比。
嫌という程に、残酷なまでに強者と弱者の対比を丁寧に描く。
山の上と山の下。
広々とした空と電線だらけの空。
開放感溢れる窓と足元だけが見える地下窓。
贅沢なソファとテーブル、地べたと汚い台。
白い壁と薄汚れた壁。
間接照明と裸電球。
そして雨が山の上から流れ、濁流となり地下に流れ込む。
夢のような時間が過ぎれば、地獄のような現状が待っている。
表面上は取り繕うことは出来ても、本質は、“匂い”は見抜かれ、明確な線を引かれ、越えられない壁が立ちふさがっている。
その閉塞感に心を蝕まれ、息苦しく。
また弱者の“弱者が故の間抜けさ、滑稽さ”も哀しい。
憧れた環境で弱者達が謳歌する、その陳腐さ。
やりたいことの品の無さは間抜けであり、滑稽であり…哀しい。
弱者と弱者の罵り合いも間抜け。
でも、薄い膜一枚剥がせば、そこには死が待っているという切羽詰まった状況が哀しい。
或る人物の一気通貫した“だらしなさ”も幸せになる資格が無いように見えてしまい、無性に哀しい気持ちに。
爽快で、滑稽で、残酷で、哀しい…心搔き乱される本作。
全編通して“不謹慎”な笑いに溢れていてゲラゲラ笑いながら、暗い影が差すという絶妙なバランスを成立させた監督の手腕に脱帽。
正直な話、溜めに溜めに溜めた…後のアレは思わずガッツポーズが出ました。
ヒトとして間違っているかもしれませんが爽快感に痺れました。よくやった!
兎にも角にも前情報無しで鑑賞するのが鉄則。
劇場で流れる演者達の前紹介、その背景、服装が妙な皮肉感で溢れているのも劇場で観てこそ。
オススメです。
2010年代格差社会映画の集大成にして20年代への希望
エンタメや芸術は一種の時代の写し鏡である。
中でも映画が現代をえがこうとすると、
時代の象徴そのものになる。
人間、街、社会を直接扱わなければならないナマモノだからである。
だから時代を代表する作家たちの問題意識は底通している。共同的無意識のように。
そして映画作家のトップに君臨するポンジュノが、10年代の貧困問題にトドメをぶっ刺しにやってきた。
近年、脚本の中にあえて「これは象徴的なものである。」といった旨を直接説明する、メタ的なセリフが多々見られるように感じるが、
(「バーニング」、「聖なる鹿殺し」なんかがそうだった)本作でもそれが見られる。
半地下に住む父と息子が劇中「象徴的だ。」と、何度も呟く。
映画には当然、映像表現としてのメタファーが存在して、普段はそれを言葉ではなく映像として観客に悟られないように見せてきたものだが、それらがわざわざ自ら我々に語りかけてくるのは何故なのか。
何故ならば、それらの映画では「メタファー」こそが主人公たちを振り回す諸悪の根源そのものであり、物語を掻き乱すストーリーテラーだからだ。
そこで、本作に登場するメタファーが超重要なのでそれについて話そうと思う。
〜以降ネタバレ〜
この映画は格差社会をだいぶ直接的なメタファーを用いて象徴的に描く。
「丘の上の高級住宅」⇨「長い長い階段」⇨「半地下の貧困住宅」といった風に。
「スノーピアサー」の電車のメタファーが、更に洗練されてシンプルかつ印象的になったように感じる。
とにかくメタファーが洗練されているのだ。
今回は「家」「窓」「階段」「石」「雨」「ネイティブアメリカン」「匂い」など様々な「メタファー」が彼らを振り回す。
そもそも彼ら自体が現代の韓国の対極的な家族の「象徴」に他ならないが、それらが混ざり合うきっかけになる「石」こそがやはり、本作の裏側で暗躍していた「悪魔」そのもののように感じる。(石のおかげで貧困から脱出するが、それとともに彼らは徐々に人間性を失っていく。元は金持ちの家にあったもので、金持ちからおこぼれを拝借しようとする精神そのものの象徴か?)
「家」は生活空間の対比を表し、「窓」から覗く景色の対比は社会背景の対比である。
本作で「階段」はマーフィーの法則が働く空間になり、「雨」は黒澤明的映画言語で言えば「物語の転機(悲劇の訪れ)」である。
ネイティブ・アメリカンは略奪の象徴またグローバリズムや資本主義社会への風刺のようにもとれる。
父が発する匂いは「こびりついた半地下生活の悪臭」や「加齢臭」「貧乏臭さ」「古臭さ」などを彷彿とさせるが、「学習性無力感」やら「向上することへの諦め」といった、精神的に根付いた「負け犬根性コンプレックス」を生まれついての金持ちが本能的に「見下している」ことへの表現のように思える。(度を越した匂いがするのは父親と地下に住む男のみ、二人は起業に失敗した過去と金持ちに媚びへつらう様子が共通〔父は息子の金持ちの同級生にさんづけする様子などから推測できる〕)
そういったものを積み重ねて、全てが悪い方向へと、上から下へと物語は流れていく。もうなるようにしかならない。
物語は予想外だが全て必然的に作り込まれているのだ。(全然ちゃうけどヘレディタリーぽい)
ポンジュノ作品はラストシーンが極めて印象的だが、本作の場合はどうだろう。
まず息子は石を川に帰す。(運や金持ちに縋るのをやめる、自分の力で幸福を手に入れることの決意)
最後に半地下の部屋で、父への手紙を書く。
「就職も大学も結婚も諦めるけど」という韓国の7放世代と呼ばれる若者になる宣言をしてしまうが、次に「金持ちになる計画をたてます」という夢も固く決意する。
そして家を買って親父を救い出すと。
彼の背景の半地下の窓からは雪がしんしんと降り積もり続ける。
これは現在の若者の苦しい現状を表現しているとともに、やがて彼らにも春が訪れることを意味しているのではないか?
厳しい冬はやがて終わり、徐々に雪は溶け、やがて春は訪れるはずだ。
7放世代の絶望の時代に生まれた息子は、本作で格差社会の現状を痛感して、愛するものの犠牲を通して、これからようやく立ち上がろうとしている。
そして地下から出られなくなった親父世代を救おうとしているのだ。
これはなんとも、希望に満ち溢れてはいないか。
これが、若者が既存の価値観以外の手段を模索して立ち上がろうとしていることを暗喩しているとしたら。
努力が意味ないことだと伝えられ、学習性無力感で厭世的だった10年代若者が、悲劇の果てにある一つの目標を立ち上げて再び社会に立ち向かおうとしている、そんな「匂い」を、あの半地下の窓から覗く「雪景色」そして息子の決意の「目」がこちらを見つめるあのラストシーンから、感じ取れてならないのだ。
そんな強い思いが込められていると、信じていいよね、ポンジュノ?
ゾンビが出てこない『ランド・オブ・ザ・デッド』
半地下のアパートに暮らすキム一家は全員無職の極貧家族。長男のギウは親友から女子高生ダヘの家庭教師のバイトを紹介されて勇んで面接に出かけると、そこはIT企業の創業社長パク氏の豪邸。ダヘの弟ダソンがデタラメな絵を描くことを知ったギウの脳裏にある計画が思い浮かぶ・・・からの奇想天外なブラックコメディ。
パルムドール受賞も納得の圧倒的な風格を持った作品。先行上映ということで映画が始まる前にポン・ジュノ監督や出演者の方々がとにかくネタバレだけはやめてくれ的なコメントを入れていましたが、確かに中盤以降の展開は知らないに越したことはないです。そんな意外な展開も納得して受け入れることが出来てしまうのは作品の背後に横たわる絶望的な貧困が全然リアルだから。何気に私は半地下に2年ほど下宿していたことがあるのであくまでギャグとしてブチ込まれる極貧あるあるの凶暴さに身の毛がよだちました。鳥肌立てながら笑うというのは生まれて初めてかも。
『万引き家族』、『永遠の門 ゴッホの見た未来』、『グリーンブック』、『存在のない子供たち』、『ある女流作家の罪と罰』、『ビール・ストリートの恋人たち』、『ROMA/ローマ』・・・昨今の賞レースを賑わせた作品群が挙って貧困をリアルに描いていますが、この傾向はすなわち世界中で貧富の差がシャレになっていないということを表しているわけで、そんな作品をスノッブの牙城であるミッドタウン日比谷のプレミアムスクリーンでかける、どんだけ皮肉やねんと目眩がしました。あえて例えるならば全然作風は違いますが、まるでゾンビが出てこない『ランド・オブ・ザ・デッド』。それくらいスクリーンから投げつけられるメッセージが辛辣でずっしり重いです。
何気に貧富の差のコントラストが鮮やかで物凄く美しいのも本作の特徴。便器から溢れる汚水までが見惚れるくらい美しい。これは撮影監督のホン・ギョンピョの手腕でしょうか。本作、オスカーで結構な数のノミネートがあると思います。さりげなく下ネタもエゲツないので全然デート向きじゃないです。
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