ビューティフル・デイ 劇場公開日:2018年6月1日
解説 「ザ・マスター」「ウォーク・ザ・ライン 君につづく道」などの実力派俳優ホアキン・フェニックスと「少年は残酷な弓を射る」のリン・ラムジー監督がタッグを組み、第70回カンヌ国際映画祭で男優賞と脚本賞をダブル受賞したクライムスリラー。トラウマを抱え、暴力を恐れない元軍人のジョー。年老いた母と暮らす彼は、行方不明の少女たちを捜し出す報酬で生計を立てていた。そんな彼のもとに、政治家の娘ニーナを捜してほしいとの依頼が舞い込む。しかし見つけ出したニーナは、怯える様子もなく人形のように感情を失っていた。やがてニーナはジョーの目の前で再びさらわれてしまい……。ラムジー監督の前作「少年は残酷な弓を射る」も担当した「レディオヘッド」のジョニー・グリーンウッドが、今作でも引き続き音楽を手がけた。
2017年製作/90分/PG12/イギリス 原題:You Were Never Really Here 配給:クロックワークス
スタッフ・キャスト 全てのスタッフ・キャストを見る
× ※無料トライアル登録で、映画チケットを1枚発行できる1,500ポイント をプレゼント。
2018年6月10日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会
幼い頃に受けた虐待、戦場体験によるPTSD、慢性的不眠症、等々、日々朦朧としながら暮らす主人公、ジョーだが、生業にしている失踪者捜索を邪魔する刺客が現れると、一気にやる気が沸点に達し、相手をハンマーで殴り殺してしまう。その緩急の落差が最大の見せ場とも言える。ホアキン・フェニックスが疲れ切った表情とボリューミィな肉体を時折鏡に写しながら演じる夢遊病者のような人物造形は画期的だ。噴出する血液の量も半端ないクライム・サスペンスは、同時に、現実と幻覚の境目を取り払い、観客を全く別のジャンルへと運び去ろうとする。境目の判断は人それぞれ。映画の醍醐味を存分に味合わせてくれる、上半期を代表する1本だ。
2018年5月31日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会
久方ぶりのリン・ラムジー監督作のお目見えである。彼女の独特の浮遊するような映像感覚や色彩に飛んだ心理描写は相も変わらず健在。しかもどれを取ってみても一筋縄ではいかない。全てを可能な限り映像言語で伝えようとするため、時に重要な描写をあっさりと省略したりも。だが、そこで生まれる変則的かつソリッドなテンポとリズムこそが、本作の緊張と焦燥感の溢れる「鼓動」を形作っていくのである。 さらに時系列を無視するかのように、過去の幾つかの出来事が記憶の洪水のように主人公の胸にこみ上げる箇所がある。原作小説ではわかりやすく記述してある事柄でも、本作ではほんの数秒のフラッシュバックで差し込まれるのみ。一見すると不親切にも思える演出だが、ここでもホアキンとラムジー、音楽担当のグリーンウッドが巻き起こすケミストリーが観客をなんとも不思議な境地へ誘ってやまない。難しく考えず、作品世界を泳ぐように楽しみたい一作だ。
中年男と少女、ニューヨーク、売春宿、選挙活動とくれば『タクドラ』か?いやいや、『レオン』か? どちら風でもなかった。リン監督から現代の男性に贈るメッセージのようだった。 別にカッコ良くなくていいんじゃない? “オレはやってやるぜ‘’とか‘’背中で語る切ないオレ”みたいなヒーローイズム、もう要らない。 女性(弱い者)と心を通わせて愛を知るなんて、付き合っていられません。男も女も自分のことは自分で解放しよう。 主人公は、父親の虐待によって強い男性像を刷り込まれ、戦争を体験し、生々しい暴力を生業にしてきた。肉体と心が乖離してしまった彼は不眠症と自殺願望に苛まれている。 かつて、父親が彼や母親に対して使ったハンマーで、力まかせに殴り殺す。苦しみと悲しみを吐き出すように。 主人公が自殺せず、なんとかこの世に留まっているのは、母が人生の重石(おもし)になってくれていたからだ。 その母に重石をつけて湖に弔ったとき、変わるチャンスが訪れた。 権力者に利用されている殺し屋刑事は、敵と言うよりむしろ自分に似た存在だった。鎮痛剤を飲ませ、手を握り、歌を歌った。主人公(男性)の心に宿る共感力が見えた。 そんな主人公とは対照的に、少女は冷静に一撃で急所を斬っていた。 血だらけの指で手づかみで食べながら、ナイフとフォークを持ち直す仕草に、彼女(女性)の本能的な理性を感じた。 彼女が、売春宿の顧客のニーズに応えた薄手のキャミソールから、自分の意志で選んだジャケットに着替えたとき、主人公も鑑賞者も前に進む。 今日は良い天気よ。そだねー!それだけでいいね! ストローでズズズっと吸う音で終わり!こんな潔いラスト、見たことない。 男性像・女性像をステレオタイプにしない。一つの物語としてさっさと終わらせたところがミソ。リン・ラムジーは生ぬるいところがない。 You Were Never Really Here。不快な感情は、本来の自分から乖離しているというシグナル。自分のシグナルがしっかり機能していることを知って、本来の自分に戻ることを進めよう。
2023年2月24日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル
1 本作の描いたものは何か? この映画は、(恐らくは)イラク戦争帰りの退役軍人である主人公が少女を救出する話である。それだけ取り上げれば、スコセッシの「タクシー・ドライバー」を想起するところで、実際に主人公の戦争によるPTSDと裏腹の空虚感は、同作のデニーロと共通しているようにも見える。 ただ本作の場合、空虚なのは主人公ばかりではない。彼と死闘を演じる殺し屋もまた、空虚感を漂わせているのである。救出される少女だって殺人を何とも思わない点で、やはりこのニヒリズムを共有している。どうやら「タクシー・ドライバー」とはかなり趣が異なっているらしいのだ。 とするとこの映画は、いったい何を描いているのだろうか? 2 BGMから読み解く監督の意図 映画が始まって間もなく、主人公がホテルを出てタクシーに乗り込むと、車内にはこんな内容の曲が流れている。 <俺を起こしてくれ 君のその温かさで俺を目覚めさせてくれ> そして映画の半ば過ぎ、知事の送り込んだ殺し屋が主人公に撃たれ、瀕死の状態になったシーンに流れているのはホリーズの"The Air I Breathe"で、次のような歌詞である。 <ときどきボクは呼吸できる空気さえあれば他には何もいらなくなる> その後、死んでいく彼が主人公と手を握りあいながら歌うのは、シャーリーンの"I've Never Been To Me"。 <甘い生活を追いかけ、男から男へ渡り歩く私は楽園にいた でも、それは自分自身ではなかったの> ところで、この映画の原題は"You Were Never Really Here"(あなたは本当はここにいなかった)である。 これをBGMの歌詞と対比させてみれば、本作のテーマは「自己=現実感を喪失した現代人の空虚」だということが浮かび上ってくる。 監督はここで現実感を喪失した現代人が、心ここにあらず決して充足できない空虚感や喪失感、社会全体に蔓延するリアリティの欠如感覚を描いたものと思われる。 とすると、ベトナム戦争の退役軍人の心の空虚さが生む軋轢を社会問題として抉った「タクシー・ドライバー」とは、ずいぶん距離のある作品ということが分かる。そもそも時代が違うのである。 3 テーマとスタイルの斬新な組み合わせ 監督は上記のリアリティの欠如感覚を、きわめてリアルな手触りのある映像や音響で描く。 冒頭、ひと仕事を終えた主人公が、ホテルでその証拠品、写真やネックレス、携帯電話等を手慣れた仕草で事務的に処分するシーンは、実にクールである。 その後も突然殴ったり殴られたり死体が転がっていたりというシーンが、ろくに説明なしに展開していくさまは、ハードボイルド映画そこのけではないか。 リアル感覚の欠落、喪失をきわめてリアルに描く…それが監督の意図であり、新しさだろう。しかし、この空虚感の行く末が仮想的な自殺だけだとしたらつまらない話だし、恐らくそうはならないはずだ。少女が「今日はいい天気よ」と言ったその後を描いてほしかった。その意味でテーマの追求の仕方が物足りないと思わざるを得ない。