ネタバレ! クリックして本文を読む
こういう事かな、と自分の中で納得している部分のメモ。正解かどうかわからないけど、「わからない!」と騒ぐ方は、むやみに☆1を付ける前に、こういう見方もあるのかくらいの参考として読んでいただきたい。
ラウはかかわった人の望みをシンプルに叶えるだけの存在。死を望んだら死をもたらす。ラウを息子と勘違いしたおじいさんの命を奪っているのは、それを望んでいたからだと理解できる。
ならば鶴田真由を倒した(気絶?死んだ?)のは何故なのか?あの時点で鶴田真由が何をしてて何を望んでいたかわからないけど、追っていたのは蝶、蝶は柑橘類等に卵を産む。鶴田真由が実を取っていた木に蝶が卵を産んで、それに近寄る存在(鶴田真由)を消したいと思ったら、ラウはその願いを聞き入れるのでは?
少年たち4人が死んだと聞かされるシーン。死んですぐ葬式というのはあまりにもせっかちすぎると思うがそれは演出上の問題だとして。歌を歌っていた少年の後ろで滝がさかのぼる。ラウが海なら、その元となる川を象徴するものは少年の形を取る……ということ?しかしこの少年もラウも水の化身のようなものだから、見る人にとっては同じ存在に映るのかもしれない。(観客ははっきり違う存在としてみている)
少年4人の命を欲したのは誰なのか?描かれていないが、例えば川魚とか?
最後の海の上を走るシーンは、キリストの奇蹟をほうふつとさせる。そういえば「淵に立つ」でもキリスト教的モチーフが垣間見えた。
害する事も「他の存在が望んだからそれを叶えただけ」と見るならば、そして海=ラウをそのような存在として見るならば、スマトラの津波や東日本大震災の津波も、「だれかが望んだことを海が叶えただけ」なのだろうか?
映画にはダイレクトにはそれが誰かは描かれていないが、実社会を眺めると、そういう存在がいるという考え方もあるかもしれない。陰謀論ではなく、キリスト教での原罪に近い考え方。あるいはガイア理論か。
こじつけようとすればここまで出来るような作りをしているが、監督が詳細を明言していないのはあえて明言を避けているように思える。それを明言する責任を、「見た人がそれぞれ感じれば」という言葉で逃げているようにも思える。
そういう描き方は好きではないのだけど、そういうスタイルでも良いと思うならそういう人が見れば良い。
見たいのは答えのない謎かけではなく、これを作りたかった、これを訴えたかったという監督の「覚悟」なんだよな~それがイマイチ感じ取れなかったので☆3。