きみの鳥はうたえる : 映画評論・批評
2018年8月14日更新
2018年9月1日より新宿武蔵野館、ユーロスペースほかにてロードショー
疲れを知らない青春の無為な日々がこの上なく魅力的に、みずみずしく描かれる
「海炭市叙景」「そこのみにて光輝く」「オーバー・フェンス」と、バブル末期に自死を遂げた佐藤泰志の小説を映画化し続ける函館のシネマアイリスは、現在の邦画界でもっとも瞠目すべき仕事をしているといってよい。
新作「きみの鳥はうたえる」は、まず原作の舞台となった1970年代の東京を現代の函館に置き換えた脚本(新鋭の三宅唱監督が自ら手がけている)が秀逸である。佐藤泰志の作品には、アメリカン・ニューシネマ的な敗者の自己憐憫、70年代的な鬱屈した青春像へのこだわりが強く感じられる。しかし、三宅唱は、あえて、そこに固執することなく、今を生きる、もっともアクチュアルな青春映画の可能性を再定義しようと試みるのだ。
主人公の僕(柄本佑)は失業中の静雄(染谷将太)と共同生活をしている。僕は同じ書店に勤める佐知子(石橋静河)と付き合い始め、三人は夜ごと、酒を飲み、クラブで踊り、ビリヤードに興ずる。
この映画では、ひと夏という季節を背景に、徹夜で遊び呆けた三人が、明け方、薄明の澄んだ大気に包まれるように街中をふらつくシーンが何度か現れる。ネオンが煌めき、始発の市電が走り始める函館の街の情景の美しさと、ただ、彼らがだらだらと歩行するシーンが際立って印象に残るのだ。日本の青春映画で、疲れというものを知らない筋肉の弛緩や、泡沫のように一瞬で過ぎ去っていく無為な日々が、これほど生き生きと魅力的に、みずみずしく描かれたことはなかったのではないか。
三宅唱は、とりとめのない身振りや表情、断片的に飛び交うダイアローグを通じて、この三人の間で醸し出される親和力、関係のゆるやかな変容を繊細に掬い取っている。その力量はなまなかではない。
柄本佑の一見、ノンシャランで軽佻浮薄なようで、暴力性を秘めた豪胆で太々しい存在感は圧倒的だ。カラオケで絶唱し、クラブで一人踊っている石橋静河が、時おり垣間見せる困惑と歓喜に満ちた表情がすばらしい。
(高崎俊夫)