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2017年の日本公開時に見逃していたが、ナ・ホンジン監督が原案・製作を務めた「女神の継承」(日本公開は2022年7月29日)について本作との関連を言及していたので、参考のため最近鑑賞した。世界平和統一家庭連合(旧称は世界基督教統一神霊協会。以下は旧略称の「統一教会」とする)の霊感商法や政治家との関係が連日報じられる今、この「哭声 コクソン」で描かれていることは、実は統一教会のようなカルト教団の活動とその影響についての暗喩なのではないかと思い至った。その理由を以下の4つのポイントで説明したい。
【1. 皮膚がただれて変貌した人間が家族を虐殺する】
劇中では新聞やテレビの報道で、健康食品に混入した毒キノコの成分が皮膚の湿疹や精神錯乱などの症状を引き起こすことが示唆される。
カルト宗教にはまると「人が変わってしまう」とよく言われる。外見が激変し家族を殺してしまう村人たちは、カルトにはまって自己を見失い、家族に経済的・精神的な負担をかけて破産や一家離散といった犠牲をもたらす信者の暗喩ではないか。
【2. 祈祷師の除霊ビジネス】
村の警官ジョングは、娘に殺人犯たちと同じ湿疹が出て人格も変わったことから、義母のつてで祈祷師イルグァンを呼び、娘にとり憑いた悪霊を抹殺する儀式のため請求された高額の費用を支払うことに同意する。イルグァンいわく、山奥に住み怪しげな祭壇に村人たちの写真を多数並べている“日本人”(國村隼)の正体は悪霊だという。だが、イルグァンと日本人はいくつかの共通点から仲間であることが観客に示唆される(日本人が「燃やした」と言った祭壇の写真多数をイルグァンが保管している、白い褌をはいている、標的の人間をカメラで撮影するなど。さらに削除されたエンディングは、道端のベンチに座る日本人をイルグァンが運転する車に乗せ、遠くに走り去っていくという、2人が仲間であることを明示するシーンになっている)。
さて、霊感商法の手口は、信者本人や家族に悪霊がとり憑いている、先祖のカルマのせいで不幸になっているなどと言い、原因を取り除き幸福になるためと称して壺などの高額商品を売りつける、というもの。カルトに限らず詐欺の手口でも見られるが、相手の不安をあおってより信じ込ませるために架空の敵の存在を吹き込んだり、仲間に“敵”を演じさせたりすることもある。こうした類似点から、イルグァンらの除霊ビジネスはカルト教団の活動の暗喩として解釈できるのではないか。
【3. 日本人が“聖者”であり“悪魔”である理由】
映画の冒頭で聖書の一節が引用される。復活の奇跡を信じられず霊を見ていると思った信者たちに、イエスは「私の手や足に触れてみよ。この通り肉も骨もある」と告げる。この言葉は、ラスト近くで助祭イサムが洞窟の奥で遭遇する、死んだと思われていた日本人の口から発せられる。一瞬映る日本人の手の平には聖痕も確認される。この時、日本人はみるみる変貌し、まさに悪魔の姿になる。
統一教会はキリスト教をベースに1950年代に創設された新興宗教であり、聖書の教え、キリストの言葉を説く団体だ。聖なる存在を自認しながら、その一方で霊感商法などにより信者を食い物にする“悪の面”も持つ。統一教会ではまた、「日本はサタン(悪魔)の国である」と教えられるという。本作のよそ者の役に、ほかでもない日本人俳優を起用したのは、この教義とのつながりを示唆するためではなかったか。
【4. 警察上層部やマスコミの“不在”】
物語の時代設定は明示されていないものの、登場人物の何人かはスマートフォンを使っているので、少なくとも2007年以降の話だ。ひとつ気になったのは、これほどの惨殺事件が続発しているのにも関わらず、村を所管する警察署の上層部(日本でいうなら県警本部とか警視庁とか)から応援が来ることもなければ、マスコミが殺到する様子もないこと。情報伝達手段が乏しい昔の僻村ならいざ知らず、SNSも普及した現代に、これほど虐殺が相次ぐ村が国家権力や世間から無視され続けるなんてことがあり得るだろうか。
ストーリーを単純化するためにそうした要素を割愛した、という見方もあるだろう。だが、本作を統一教会的なものの暗喩とするなら、別の解釈ができる。それは、献金や寄付、あるいは信徒を国家権力内部や大手マスコミに送り込む形で、警察やマスコミに強い影響力を持つようになり、反社会的・非人道的な活動についても干渉させない、報道させないよう圧力をかけていることを示唆しているのでは、というものだ。安倍晋三銃撃事件後、少しずつ統一教会の霊感商法による被害者の話や、政治家への献金といった実態が報じられるようにはなってきた。だが、与党自民党の国会議員をはじめとする政治家多数に献金や選挙協力で関係を築いてきた統一教会に対し、かつてオウム真理教に行ったように宗教法人の解散命令を出すなど、有効な規制をかけられるかどうかは不透明だ。
以上、私見が長くなってしまったが、「哭声 コクソン」を鑑賞済みの方も未見の方も、時間があればこんな視点を頭の片隅に置いて観てみてはいかがだろうか。