サウルの息子
劇場公開日:2016年1月23日
解説
2015年・第68回カンヌ国際映画祭でグランプリ、第88回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞したハンガリー映画。アウシュビッツ解放70周年を記念して製作され、強制収容所で死体処理に従事するユダヤ人のサウルが、息子の遺体を見つけ、ユダヤ教の教義に基づき葬ろうとする姿や、大量殺戮が行われていた収容所の実態を描いた。1944年10月、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所。ナチスにより、同胞であるユダヤ人の死体処理を行う特殊部隊ゾンダーコマンドに選抜されたハンガリー系ユダヤ人のサウル。ある日、ガス室で生き残った息子と思しき少年を発見したものの、少年はすぐにナチスによって処刑されてしまう。サウルは少年の遺体をなんとかして手厚く葬ろうとするが……。ハンガリーの名匠タル・ベーラに師事したネメシュ・ラースロー監督の長編デビュー作。
2015年製作/107分/G/ハンガリー
原題:Saul fia
配給:ファインフィルムズ
スタッフ・キャスト
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2016年12月31日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
あらゆる瞬間に息が詰まりそうになる。特に冒頭から延々と続く長回しで、人々がガス室へと送られていく様子、感情を枯らした人間がその手で無慈悲に扉を閉める無駄のない流れ作業は、本当にこの世の地獄と呼ぶにふさわしい。しかし本作の真の衝撃は、それらのアウシュヴィッツ=ビルケナウの生々しさよりも、すべてが干からびたはずのその地に僅かばかりの感情の雫が滴りおちるところにあろう。「あの遺体は息子ではないか?」というサウルの思いは半ば妄信、あるいは狂気に近いものがあるが、それでも絶望的な状況で生じた精神構造として、彼の最期の意志であり、尊厳であり、彼が突発的に織り成しすがろうとした物語性とも言えるのかもしれない。本作はかくも人類が体験した悲劇から一つの「個」を抽出し、限定的な視点を通してその全体像を捉えようとする。それを伝える技術力、チームワーク、意志の力もずば抜けている。決して万人向けとは言えないが、『シンドラーのリスト』と並んで語り継がれるであろう一作だ。
2023年3月14日
Androidアプリから投稿
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ある意味でゾンダーコマンドであるということは、メンタル的には一層の負担だったのではないかと推測します。
つまり、予期はあったのかも知れませんが、ふつうの被収容者であれば、長い長い移送で疲れ果てた体に温かいスープやコーヒーを与えられる前にシャワーを浴びるだけだと騙されて(時を移さずに)抹殺されてしまうところ、ゾンダーコマンドは、彼・彼女らの死体の処理に任務として当たるが故に、自らの行く末も、自ずと理解させられてしまうわけですから。
パルチザンと後に合流することによって生還できる可能性を、サウルがどの程度に信じていたかは、残念ながら作中からは窺い知ることができませんが…。
しかし、そういう境遇にあって、サウルがなおユダヤ少年の正規の葬送にこだわったのは、生還の見込みの限りなく薄い中で、自分がここ(収容所)で生きたことの「足跡」というのか、「証」というのか、そういうものを残したかったからではないかと思われてならないのです。評論子には。
そう思うと、観終わって、本当に重い、重い、重い一本になってしまいました。評論子には。
2022年8月21日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
次々とガス室へ押し込まれていくユダヤ人の人々。 そして、その死体処理作業をやらせられるゾンダーコマンドという部隊に配属されたユダヤ人の男たち。 その一人である主人公のサウルは、「死」だけに囲まれたこの地獄の中で、偶然出くわした「息子の死」に何を見たのか…。
ホロコーストは、紛れもなくヨーロッパで実際に行われた「人間の行為」だ。 これ以上の悪夢はあり得ないと言い切ってもいいが、それが映画の中で追体験、いや、実体験できる作品である。 詳細に当時の事を調査した上で脚本が作られているのだろう。 とにかく凄まじい。 言葉に窮する、というのが初見後の感想だ。
最初から最後まで、主人公の顔にフォーカスしたまま展開は進んでいく。 この手法が使われたのは、我々観客にできる限りリアルな映画体験をしてもらうためだと思う。
作品の中心に据えられるのは、絶望的な状況の中で思考停止に陥っていると思われるサウルの表情。 その際、サウルの顔以外の背景は、リモート会議の画面のようにボカされている。 わずかに見える裸の死体や死体処理作業の動きが、逆に生々しい。 そして、様々な作業音、ドイツ人看守の怒鳴り声、悲痛な鳴き声、叫び声、うめき声、赤ん坊の声…。 後ろがはっきりと見えない分、背景音が恐ろしい。
絶望的な状況の中でも、息子の遺体を弔うことに執着するサウル。 その危険で無謀な行動を、助けようとしたり咎めたりする部隊の仲間たち。 彼らもまた、わずかな希望に縋ろうとする余裕すら持てない状況にある。 それが、はっきりとわかる。 非常にリアルだ。
息が詰まるような展開を追ううちに 、だんだんと気づき始める。 この作品は、わが子を想う親の愛情を見せようとしているわけではないのだと―。
サウルが執拗に弔ってやろうとした子供が、実は彼の息子ではなかったとしても筋は通る。 本物の地獄の中で、人間が正常な感覚でいられるはずはないのだ。
際限のない無意味な作業は、心理的な負担が極めて大きく、先の大戦でも捕虜に対する拷問に使われたと聞く。 その作業が、「同胞のガス室への誘導と、殺害後の死体処理」なのである。 しかも、次は自分がガス室送りになるという恐怖の中での作業となれば、さらに絶望的だ。
生身の人間が、幻想と思い込みに取り込まれたとしても無理はない。 目の前の悪夢から心を逸らし、自分を保とうとするのは、自然な心理反応だろう。
本当に言葉がなくなる。
幸いと言った方がいいだろうか。 映画では、臭いだけは感じられない。
それでも、ここまでこの異常な空気感が画面上から伝わってくるのは、技術うんぬんを越える製作者たちの執念のなせる業ではないか。 ネメシュ・ラースロー監督は、非常に大きな仕事をやってのけたと思う。
2022年4月4日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館
ガス室に送り込まれる人々の息づかい、絞り出される声、閉められた鉄扉を叩くこぶしの音、飛び交う単語、怒鳴り合い。
人間を大量に抹殺して行く収容所で、ガス室に誘導し、遺品や遺体を処理するのも彼等の仲間。抵抗すれば殺される。僅かな糧で寝ることすらままならない"対独協力者"。
目の前で殺された見知らぬ少年の遺体を、なんとか手厚く葬りたい男の思いは、生きることを許されない絶望の中の祈りのようなもの。