黄金の馬車

劇場公開日:

解説

18世紀の南米スペイン植民地を舞台に、イタリアからやってきた仮面劇の一座のヒロインと彼女に恋する総督を軸に展開する恋のさやあてと宮廷の陰謀劇を、舞台と現実をないまぜにして描く人間喜劇。「大いなる幻影」のジャン・ルノワール監督作品で、88年に復現された版での日本初公開。製作はフランチェスコ・アリアータ、脚本はプロスペル・メリメの一幕戯曲を翻案したルノワールとジャック・カークランド、レンツォ・アヴァンツォ、ジュリオ・マッキ、ジネット・ドワネルの共同、撮影はクロード・ルノワールが担当し、音楽はヴィヴァルディほかを使用。出演はアンナ・マニャーニ、オドアルド・スパダーロほか。

1953年製作/フランス・イタリア合作
原題または英題:Le Carrosse D'or
配給:フランス映画社
劇場公開日:1991年1月26日

ストーリー

総督フェルディナン(ダンカン・ラモント)の支配する南米のスペイン植民地、そこへ総督の取り寄せた黄金の馬車と一緒に船にのってやってきたのはドン・アントニオ(オドアルド・スパダーロ)率いるイタリアのコメディア・デラルテ(即興仮面劇団)一座に、そのヒロイン、カミーラ(アンナ・マニャーニ)に恋して同行している騎士フェリペ(ポール・キャンベル)を加えた一行。一座は早速興行を始めるが、全く受けず、観客の注意は客席の中の人気闘牛士ラモン(リカルド・リオリ)にばかり向けられる始末。怒ったカミーラがラモンを挑発し、やっと大喝采をとるが、あがりはほとんどなかった。しかしそこへ宮廷で舞台を演じないかという総督からの使い。カミーラをすっかり気に入った総督は彼女を大舞踏会に招待するが、一方面白くないのは今まで寵愛を受けていた侯爵夫人イネス(ジゼーラ・マシューズ)そしてまたカミーラの心を失って絶望したフェリペは軍隊に志願すると彼女に別れを告げる。が今度は闘牛士ラモンが新たにカミーラに言い寄り始めるようになる。そんな中、カミーラに黄金の馬車をやる約束をしてしまった総督に、公爵らはそんなことをするなら罷免を訴えると息まく。しかしそこへ突然カミーラが現われ侯爵夫人イネスと猛烈な恋のさやあてを演じ大混乱となる。カミーラは黄金の馬車に乗って帰るが、ラモンが彼女を熱心に口説いている時、軍隊からフェリペが帰って来る。更には詫びを入れるため総督まで現われ、3人がはち合わせ、ラモンとフェリペは決闘を始めてしまう。ドン・アントニオはカミーラに逃げようと言うが、彼女は「私は残る」と動じない。ラモンとフェリペは逮捕され、総督も罷免だろうと噂される中、大司教がカミーラと共に宮殿に黄金の馬車で乗りつけ、彼女が馬車を教会に寄付し、来たるミサで歌うので皆を招待したいと告げる。歌い踊るドン・アントニオ一座の中にカミーラが駆けつけ大団円となるが、既に彼女を取り囲んでいた男たちの姿はなく、舞台の上にしか自分の人生はないことを知ったカミーラは一抹の寂しさを覚えるのだった。

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映画レビュー

3.5たくましさ

2024年2月21日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:VOD

舞台と映画とリアルが混ざっていく不思議な感触の世界だが、それがファンタジックな夢のような世界ではなく、妙に生々しい、肉体を感じさせるものになっているのが面白い。

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ouosou

5.0ルノワール監督の演劇へのオマージュの素晴らしさと完成度の高さに、祝福を!

2023年3月15日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

何たる素晴しき映画だろうか!!! 映画に夢中だった若い頃以来、久し振りに映画を観て興奮し、何とも言えない感銘を受けました。ジャン・ルノワール監督作品では、これまで「どん底」「大いなる幻影」「獣人」「ゲームの規則」「南部の人」「河」「フレンチ・カンカン」しか観ていませんが、その中で名作の誉れ高い「大いなる幻影」「ゲームの規則」に匹敵する作品に出会えるとは、本当に幸せです。 イタリアのコンメディア・デッラルテのコロンビーナを主人公にしたこの作品は、当初予定のルキノ・ヴィスコンティ監督から引き継ぐ形で、イタリアの映画プロデューサーからジャン・ルノワール監督が依頼されたようです。その時のルノワール監督の条件は、まだ一般的ではなかったテクニカラーで撮影することと、ライブ録音であったと言います。コンメディア・デッラルテとは、16世紀から18世紀にかけてヨーロッパで流行した仮面劇団で、役者は類型的な特徴を持つキャラクターの役柄を固定化してました。映画の最初の公演では、パンタローネとかアルレッキーノをドン・アントニオ座長が紹介します。このアルレッキーノは道化師や軽業師を演じ、原色のまだら模様の衣装は道化師のスタイルの起源とされている。と知ったかぶりに書くのは、この演劇一座の旅から旅の公演興行の時代再現の見事さ、衣装デザインの独創性、公演舞台の裏表の面白さ、子供たちの未完成な曲芸の可愛らしさなど、大衆演劇の粋を極めているからです。原色が鮮やかに映えるテクニカラー映像が素晴らしい撮影は、ルノワール監督の甥クロード・ルノワール(他に「河」「恋多き女」「フレンチ・コネクション2」)が担当しています。マリア・デ・マッテイスの赤と黒が美しく印象的な衣装から貴族たちの華やかなドレスまで、全て個性的です。イタリアの劇団がラテンアメリカのスペインの植民地に流れ辿りつき演劇公演するお話のこの演劇映画は、何故か英語で撮影されました。これは英語圏市場を目的にした制作の事情の様です。それでもヒロイン コロンビーナのカミーラが舞台ではイタリア語で歌います。イタリア人のスペインの植民地での演劇を英語で語るフランスの監督の映画の国際色の豊かさ。ルノワール監督の国に拘らない、何と異色でも違和感なく創作されている包容力でしょう。音楽はヴィヴァルディの「四季」などの時代にあったバロック音楽を使い、映像より主張しない丁寧な配慮が為されていました。 主演のアンナ・マニャーニの素晴らしさはいうに及ばずですが、他の役者たちも安定した演劇演技をみせて、それぞれが味があります。座長アントニオと秘書マルチネスのいい存在感。古典演劇へのオマージュを、舞台に入っていくカメラから映画の世界観で展開させ、後半の山場ではカミーラが第二幕の終わりを告げ、そしてクライマックスの大団円で完結させた脚本構成の完成度の高さ。ラストシーンにアップになる、真紅の緞帳をバックに佇む黒衣のカミーラの神々しさ。一幅の絵画として表現されたルノワール監督の最高のショットです。 内容については、言葉で簡単に説明できない複雑なものを表現している。風刺あり、皮肉ありの女性の心理ドラマとしても面白く、女優が演じることの幸せについての考察も深い。でもこれは観て感じる映画の大傑作であると思います。理屈は後からでいい。ルノワール監督の偉大さが分る、本当に素晴らしい作品でした。

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Gustav

1.0ジャン・ルノワールのファンの皆様、ごめんなさい

2021年1月22日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

この映画の評価として、 フワンソワ・トリュフォー監督からの 絶賛を始め、 各サイトに投稿された方々の評価も 著しく高いものがある。 しかし、 私はこの作品には全く乗れなかった。 基本的にこの映画のジャンルは喜劇 なのだろうから、 あまりリアリティにこだわる必要はない のかもしれないが、 全くという訳にはいかない。 また、私は喜劇でも、 社会風刺や人生観の示唆の観点は必須で、 もしそうでないなら徹底的な ナンセンスギャグでなくてはならないと 思っている。 しかし、私はこの映画には、 それらの要素を感じ取れなかった。 何故、総督・人気闘牛士・騎士という 各界有力者3人もの男が、充分な説明もなく 劇団ヒロインに夢中になるのか、 それも己の大切なキャリアを放棄してまでの 入れ込み設定は現実離れ過ぎる。 馬車の教会寄進の落ちもお手軽過ぎるし、 劇中劇の設定も、 他の優れた同様の映画作品を 凌駕することはない。 昨年来、戦前戦後の映画を集中的に 観賞したが、その中でも デュビュデュエの「舞踏会の手帳」、 カイアットの「裁きは終わりぬ」 エルンスト・ルビッチの「私の殺した男」や 「生きるべきか、死ねべきか」 等は、素晴らしい作品だった。 ユーモア満載の作品も含め、全て、 人生や社会を深く洞察した名作だった。 しかし、 ジャン・ルノワール監督の他の作品にも、 同じような共感は得られなかった。 「どん底」は 黒澤作品を上回ることはないし、 「大いなる幻影」は 両将校の友情と別れの描写が クライマックス過ぎて、 この後のジャン・ギャバンの 逃亡エピソードが 付け足し的に見えて締まらない。 「ゲームの規則」の恋愛ゲームと 権利による事件隠蔽の内容には、 ニキータ・ミハルコフの 「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」 にある、 やはり一カ所に集まった同じ群像劇での、 人生への深い検証の姿勢が有るわけでも 無い。 私の若い頃は、 ジャン・ルノワール監督と言えば、 映画界のビッグネームの一人として 認識させられていたが、 昨年来、 それ以上に優れた監督作品の発見が続き、 ルノワール監督はすっかり 重要では無くなってしまった感がある。

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KENZO一級建築士事務所

5.0圧倒される!

2020年10月26日
iPhoneアプリから投稿

大監督ジャン・ルノワールに圧倒される。 どんな男にも御せないカミーラという女性。私たち鑑賞者もまた彼女を御せないまま物語は進む。 その鑑賞者に向かってカミーラが、一部始終を話そうとする「語り」の意志。 この巧みに作り上げられた世界は、我々の生活に直接響くものはないのだが、彼女の意志を我々はじっくり見ておく必要があるのだ。 ヨーロッパの爛熟した貴族感覚では、「お辞儀」は形骸化しているように見える。 一方、演者がカーテンコールで行うお辞儀は生きている。観客に向けたお辞儀は、祝福の歓び・感謝・礼儀であり、神の前に膝を折るに等しい。 めくるめく精神の嵐が、肉体の上を吹いてこそ、初めて人間は作られるようだ。めくるめく嵐の中で、人間の根っこは太くなる。 こんな大名画をプライムビデオで無料で観られるとは。いやはや、当時の貴族も真っ青な贅沢である。

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Raspberry