河(1951)

劇場公開日:

解説

「大いなる幻影」「獣人」のジャン・ルノワールが自らインドのガンジス流域に赴いて撮り上げた独立作品で、ケネス・マケドウニー製作の1951年色彩作品。昨年ヴェニス映画祭に出品され、「羅生門」についで1等賞をとった。「黒水仙」の原作者ルーマー・ゴッデンの半自叙伝的な同名小説から、ゴッデンとルノワールが共同脚色した。撮影はジャンの甥クロード・ルノワール、音楽はインドの原住民音楽を使用している。主演は新人のパトリシア・ウォルターズ、トーマス・ブリーン、エイドリアン・コリー及びインド人ラーダら。以下「赤い百合」のノーラ・スィンバーン、「黒水仙」のエスモンド・ナイト、「黄色いリボン」のアーサー・シールズらが助演する。

1951年製作/アメリカ
原題または英題:The River
配給:ユナイト日本支社=松竹
劇場公開日:1952年6月24日

ストーリー

インドを貫通する大河ガンジスの流域に当たるベンゴール地方に、製麻工場の支配人をつとめる英人一家が住んでいた。父母(エスモンド・ナイトとノーラ・スィンバーン)の元に6人の子があり、1人を除いて皆女の子だった。長女のハリエット(パトリシア・ウォルターズ)は今年14歳、夢見がちな文学少女で、工場主の娘で18になるヴァレリー(エイドリアン・コリー)と米印混血娘のメラニー(ラーダ)と3人組の仲良しだった。メラニーは、その生涯の大半をインドに過ごした米人ジョン氏(アーサー・シールズ)がインド女に生ませた娘で、西欧的な教養も身につけたインド娘であった。ある時、この平和な生活の中に、ジョン氏の甥で第二次大戦で片足を失った米将校ジョン大尉(トーマス・ブリーン)が入ってきた。はじめてみる白人の青年に、3人の少女は各々心を奪われた。ハリエットやラーダはその心を言い表わせぬまま、ヴァレリーだけが大胆に彼に近付き、それを傍らから眺めるハリエットらはひそかに心を痛め続けた。腕白なハリエットの弟は、ある時街の手品氏の真似をして毒蛇をからかい、その牙にかかって死んだ。肉親を失い、恋する男の心を得られぬ悲しみから、ハリエットはガンジスに身を投げたが村人に救われ、ようやくジョン大尉も彼女の心を理解したかのようであった。しかし春が来て百花一時に乱れ咲く頃、ジョン大尉は3人の少女をそのままに帰国、ハリエットの家にはまた1人妹ができた。そしてガンジスの黄色い水だけは、そのような人生の銷事も知らぬげに悠久の流れをつづける。

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映画レビュー

5.0サタジット・レイの『大地のうた』を生むきっかけ

2024年3月20日
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マサシ

4.0清々しくステキな映画

2024年3月11日
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鑑賞方法:VOD

作り方がうまい、よくできてる!と思った。いろいろな要素が詰まっているけれどバランスが絶妙で、見やすくしかも力強く伝わってくる。軽快で個性的なセンスが新鮮で、映画の古さを感じない。(現地人の言葉が翻訳されていないところも◯。)

ハリオット役の個性的な風貌と、少しクセがある演技もよかった。もし彼女がふつうに美少女でクセもなかったなら、これほど個性を感じる映画にはならなかったと思う。
ハリオットやジョンの場合のように、自分の思うようにいかぬ状態や、予期せぬ惨事や失敗とうまく付き合うのは難しい。
しかし、そういうことがあるのが当たり前なのだと…それぞれに難アリ…それが人生のデフォルトなのだ、そう思えば、少し気が楽になり、また続けようという気になる。そういう気持ちにさせてくれる。

河は同じように流れ、そこでの人びとの暮らしは同じように続けられていく。その風景で始まり、その風景で幕を閉じる。
それは、そういうことだと思う。

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あま・おと

5.0「片足の人の国でも探すつもり?」

2024年1月18日
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観終わった後に、とても強い印象を残す作品。画作りも脚本も完成度がとても高い。

数多くいる登場人物。その中で特にジョンとメラニー、自分の居場所を見つけられない二人の対話がとても印象的。その一つひとつの言葉が、どれも胸に刺さる。

また、直接的ではないが戦争や植民地支配に対する反対の意思も感じられる。そうした様々なことを詰め込みながらも話が破綻しないのは、次世代を担う子どもたちに対する一貫した愛情がかんじられるからだろう。


この映画を観て思い起こされたのは、学生時代に暗記させられた方丈記 の第一段『ゆく河の流れは絶えずして…』だった。無常観が主題になっている訳では無いが、根底にそれを感じる。

この映画が作られたのは第二次大戦が終わり、イギリスからインドが独立した頃。西洋の思想が行き詰まる中で、東洋の思想に答えを求める流れの先駆けとも言えるのだろうか。

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komasa

5.0異文化の中で気づきを与えられる

2022年12月30日
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現在のお祭り騒ぎのディワリより、この伝統的なのに興味があり集中して見ていたが、米国帰還兵士ジョン(Thomas E. Breen)の心の葛藤に興味が出てきた。

息を呑むようなインドのガンジス・デルタ文化とそこで醸し出す人間ドラマで、キャプテン ジョンが第2次大戦で負傷して片足を無くしたことにより、自分を見失ってしまったが、いとこの家庭に滞在している間で、人々と関わっている間に自分を取り戻し、立ち直り米国に戻っていくというストーリー。

ガンジスがわのそばに住んでいるイギリスの家族(この映画が何年の設定か明確でないが当時はインドはイギリスの植民地。)
父親はジュートの繊維工場を経営していて、子供達(姉妹と弟)とインド人の召使たちと暮らしている。そこに近所のメラニー(Radha Burnier )の父親がアメリカの従兄弟ジョンを招く。ハリエットたちはアメリカ人、ジョンに興味を持つが片足が不自由だと気づく。

ハリエット(Patricia Walters )と姉のバレリー(Adrienne Corri )とメラニーはジョンが好きになる。

ここで大きな気づきを与えてくれる最高のシーンがある。

自分が片足になったことを受け入れられないでいるジョン。メラニーはジョンに「同意する」ことだという。受け入れると言う方が適切な日本語だろう。
ジョンは「何に」と
メラニーは「全てに」と
「自分は反逆している」と。
メラニーは「反逆も争いだ」と。
それからジョンは
「I am not stranger anymore」と
ジョンは自分は片足のジョンで生きることを受け入れることができた。メラニーの言葉はジョンに気づきを与えてくれた。

この迷いをメラニーも持っていた。メラニーは自分のことが嫌いだとジョンに言った。ジョンは不思議そうな顔をしたが、当時のインドにはメラニーのアメリカ人のお父さんのようにインド人との結婚で二つの文化を持ったメラニーのような子供を持つことは稀だったようだ。メラニー自身も自分のアイデンティティを探している時、自分を失ったジョンにあったわけだ。
例えば、メラニーの父親は「メラニーはどこに属するかわからない」と。そして「生まれなければよかった」と言う。

メラニーは「私は生まれている。いつか自分がどこの属するか見つける」と言う。

自分を受け入れられないで「争い」をする。例えば、ある人は自分が老いていくことを受け入れられなくて、整形を繰り返して戦う。単純な例だがこの人は受け入れると言うことに気づかない。自分の意識にないのである。

これに言語化して気づかせたバレリーとメラニーの存在は大きい。

ハリエットが(Patricia Walters )が大人になって書いた小説をナレーターとして話しているという形にしている。

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Socialjustice