浮雲のレビュー・感想・評価
全29件中、1~20件目を表示
願いかなって
第二次世界大戦中のインドシナ。
戦時中とは思えない平和、豪華な暮らし。
公的機関にタイピストとして赴任して来た
高峰秀子扮するゆき子、若い❣️
直ぐに妻ある富岡とねんごろになる。
終戦となり、富岡が先に帰国、
しばらくしてゆき子も帰国。
ゆき子が富岡の家を訪ねると妻が出て来た。
富岡と会いなじるゆき子。
奥さんと別れてないじゃない嘘つき、って。
富岡は、向こうでは別れようと思って帰国したが、帰るとずっと耐え忍んでくれていたと思い別れられないんだよ。←ずっるい言い分。
ゆき子が怒る内容は筋通っている。
富岡は妻へも嘘ついてゆき子と伊香保旅行❣️
宿近くで時計を売り資金調達する富岡。
ドリアン、マンゴスチンと話に花が咲き、
旅館の主人と意気投合する富岡。
主人には、
わっかい妻岡田茉莉子演ずるおせいがいた。
えつ、⁉️おせいとお風呂⁉️
勘の鋭いゆき子が言ったこと、当たり❣️
この男すご〜⁉️
富岡が脱いだのだけが包まれていた。
ゆき子泣く。
自分のことばかりかわいいんでしょう←当たり❣️
富岡とゆき子のやり取り。
富岡が引っ越したと葉書での知らせ。
行くとおせいと出くわす。
おせいが自分の部屋だよ、と。
足だまりだよ、と。
伊香保の旦那とも別れた、と。
富岡はいないと言うおせいの言葉を疑い待つと
富岡が帰って来た。
問い詰めるゆき子に嘘ばかり言うクズ富岡。
バラック小屋のゆき子のもとに
義兄伊達が訪ねて来た。
怪しげな宗教の教祖だと。
この男、ゆき子を犯している卑劣な奴。
そのせいでインドシナに行ったのか⁉️
ゆき子は売春婦になっていた。
新聞でおせいが殺された記事を見るゆき子。
犯人はあの陽気な旅館の主人だった⁉️
ゆき子、子供のこと、当たり❣️
心中計画も当たり❣️
富岡がゆき子と伊達の家に訪れる。
履き古した靴👞
要件は富岡妻の葬式費用を借りることだった。
お互いを慰める言葉。
ゆき子は富岡の子を堕していたのだ。
ゆき子の心の内を探ると❓❓❓
老舗旅館で富岡と逢引するゆき子。
伊庭から30万円取って出て来たのだと⁉️
生き方変えようと、富岡言うが、
お前が言うか⁉️
ゆき子、歯がゆい富岡にやけになる。
富岡は元の職場に戻るが、赴任が決まった。
屋久島だった❗️
どうしてもついて行くと、言い張るゆき子。
身体が弱っているゆき子を案じて
富岡は止めるが。
列車で何時間も乗り鹿児島着。
医者に診てもらうと、船内でも診察。
大きな船から小さな船に乗り換え到着。
富岡と一緒になることだけを願って生きて来た
ゆき子。
辺境の地でやっと二人になれたが、‥‥。
林芙美子さん原作、名作。
男二人に人生を弄ばれる女の生き方を、
フワフワ浮かぶ雲に例えたのか⁉️
時代と男の犠牲になった薄幸女性の生きた証
女性映画の名手成瀬巳喜男監督の代表作として今も語り継がれる名作。原作の林芙美子に脚本が水木洋子、そして主演が高峰秀子と日本映画史に遺る三名の女性が揃い、女性の立場から見た男女の抜き差しならない愛欲関係を率直且つ綿密に描き上げています。今回46年振りに見直し、漸くこの映画の良さを理解出来て、とても満足しました。と言うのも、若い頃の洋画偏重から日本映画の良さにも関心を持ち、フィルムセンターによく通っていた1978年に観た日本映画の傑作選(溝口健二の「西鶴一代女」「近松物語」「残菊物語」「雨月物語」「山椒大夫」、小津安二郎の「東京物語」、黒澤明の「羅生門」「生きる」、木下惠介の「二十四の瞳」、内田吐夢の「飢餓海峡」)の中で、この成瀬作品の完成度の高さにとても感心しながらも、他の名作と並ぶような感動は得られませんでした。思うに二十歳の若さからか、好きな男をひたすら追い掛ける女と浮気男の腐れ縁の内容が面白いと思えず、また愚かな女とズルい男のよくあるストーリーに葛藤や感情の激しさは薄く、大人のための穏健な映画という印象でした。それから翌年に「おかあさん」「稲妻」「山の音」「鰯雲」を観ています。特に「稲妻」の演出に感銘を受けて、一気に成瀬巳喜男監督のファンになりました。
最初のシーンは昭和21年の初冬、敗戦から1年以上経って漸く本土に引き揚げてきた幸田ゆき子が向かうのは、3年前の仏印(インドシナ)で一緒の職場で出会い知り合った農林省技師富岡健吾の東京の家。後から分かる妻と離婚して待っていると期待したゆき子が最初に挨拶を交わすのは、母親と妻邦子のふたり。そこで富岡の着替えを待つゆき子が2人の馴れ初めを回想する。タイピストとして赴任した初日、不愛想な富岡に戸惑うも、次のシーンで2人が行くのが闇市の裏町通りからの連れ込み宿。戦時下とは思えない平穏でエキゾチックな仏印の居間と古びて薄汚い内地の部屋の対比で分かる、2人の関係と置かれた状況描写の巧さと無駄の無さ。異国では自信に満ち溢れ女性を蔑視する嫌な男だった富岡が、敗戦国日本ではうだつが上がらず妙に物分かりが良くなっている。温暖で開放的な異国の地で男女の関係になってしまったゆき子と富岡の出会いと再会が、この冒頭の約20分で簡潔に巧妙にモンタージュされている。しかも、この富岡という男の嫌らしさを決定付けるのが、仏印の事務所で働く現地の女中が富岡に注ぐ怪しげな視線のワンカット。表向きは女性に興味がない仕事人間に見せかけて、実は無類の女性好きな富岡に、何故幸田ゆき子は夢中になり騙されたのか。結婚を口約束したのは、現地で二人の関係を継続させるための男の詭弁ではなかったのか。
この幸田ゆき子の過去をワンカットでフラッシュバックしているのが衝撃的だった。それは東京の親戚を頼りに義兄の留守宅に入り込み布団とマフラーを拝借したゆき子が、再会した義兄の伊庭杉夫とラーメンを啜りながら会話する場面です。伊庭から性被害を受けていたゆき子は、富岡に裏切られた失意もあって(元どおりの娘にして返してもらいたい)と言う。ゆき子はこの一生消えない心の傷を抱えたまま富岡と出会い、自分から人を愛することで記憶を消し去りたかったのかも知れません。しかし、その一方的な愛は叶わず、どう生きて行くのか思案中に啜るラーメンの味は、決して旨いとは感じない。仕事も決まらず、行きずりに出会ったアメリカ兵の情婦になるゆき子。敗戦直後の貧困からその身に堕ちた女性の歴史の事実。そのお蔭で一寸したおしゃれが出来る最低限の生活になった時、心配した富岡が訪ねてくる場面では、工面したお金を渡そうとするが、もう遅いわと言う。連れ込み宿では手切れ金として渡されたお金を拒否したゆき子は未練を残したままで、今度は機嫌を取る男の狡さに辟易する。ゆき子の富岡に抱く愛には、お金の価値が最優先でないことが分かります。この小さい炬燵に当たりながら交わす会話には、ゆき子の本音と悟り、富岡の下心と偽善が良く表れている。それでも出て行った富岡を追い掛ける幸田ゆき子の一途さは変わらない。心と身体のバランスが崩れた女性をさり気無く表現したシーンです。
そして、千駄ヶ谷駅で恋人同士のように待ち合わせしたゆき子と富岡が思いついた伊香保温泉に流れ行く展開で、2人の関係を更に暗転させる脚本の構成は(序破急)の破にあたり、女性にだらしない富岡の本性がここで露になります。宿泊費に困った富岡の時計を高額で譲り受けた上に、宿の面倒も世話する飲み屋「ボルネオ」の主人向井清吉。その善人の持て成しを裏切る形で清吉の若妻おせいと関係を持つ富岡の身勝手さが救われない。しかし同時に、この時代の温泉が男女混浴の風俗にも驚きを隠せない。これは古来より続く性に開放的な日本の文化なのだろうか。翌日の朝湯に向かう富岡に連れ添うとするおせいと、疑念を抱き同行しておせいに遠慮させるゆき子の、この3人のやり取りと微妙な心理描写の細かさ。成瀬監督の演出が見事です。石階段の行きと帰りの使い方の映画的な表現もさり気無く巧い。2人で東京に戻った後のゆき子の家で会話する場面では、富岡の欠点や悪いところを鋭く指摘するゆき子の言葉が次々に出てくる。恋愛とは相手の欠点を許せるかどうかで決まるとはいえ、富岡の見た目と内側の隔たりは大きい。それは男女関係で言えば、相手を騙しやすいことにつながる。ここで富岡はおせいと恋仲になったことを正直に告白するが、きれいさっぱり分かれてきたと付け加える。そして次のカットが家出したおせいを探し求め、ゆき子宅を訪ねる清吉と、富岡の家を訪ねて引っ越したことを初めて知るゆき子の短い説明ショット。富岡の葉書から高瀬という人の住所を探し辿り着くが、この高瀬という名字がおせいの旧姓だったというオチのゆき子の驚き。ここで下心をもったままおせいと別れたと嘘を言った富岡の狡猾さが浮き彫りになる。それはおせいと富岡の同棲の過程を描写しない省略による効果でもある。観客の視点をゆき子の視点と一緒にさせて、ゆき子の心理に観る者を惹きつけるから、同棲の痕跡を確かめるように部屋を見回すカットも生きる。それだけでなく、このシークエンスでは、ゆき子の体調が思わしくないことと妊娠したことが分かります。富岡にどうするか相談するために訪ねたら、別れたはずの若い女性と一緒に生活している衝撃。だが、ゆき子の人の良さが、富岡の置かれた立場を理解します。妻の病気が悪化して、仕事も転職したばかり、おせいも正式に清吉と別れた訳でもなく、そこへ我が子を身籠ったゆき子が現れる。富岡の自業自得とは言え、愛する男が惨めに見えるゆき子は根は優しい女性です。
後半は再び伊庭杉夫が現れて、戦後の荒廃した社会不安から派生した新興宗教を扱っているのがユニーク。人の弱みに上手く付け込んで、楽して金儲けする杉夫に1万円を工面してもらうのは中絶費用だった。その病院で痴情のもつれからおせいが清吉に絞殺された事件の紙面が目に入ってくる。そこで富岡の元を訪ねて、ゆき子の感情が爆発する場面がいい。出産か中絶か悩んだゆき子は富岡の無関心に呆れ果て、彼の心にまだいるおせいに女として嫉妬しながらも憐み、ひとりの女として富岡の男としての不甲斐なさを責め立てる。この嘆き泣き崩れる悲痛なシーンにインサートされるのが、長屋の中でままごとに興じる子供たちのショットです。ゆき子の本当の願いに寄り添い、女の幸せとはを可視化した表現のモンタージュ、それによって今現実に生きて苦しむゆき子の感情を深く描き出します。これこそ映画ならではの表現と言えるでしょう。
しかし一転、仕事に行き詰まり落ちぶれて妻邦子を亡くし、大日向教の教祖杉夫の世話になっていたゆき子を訪ねて葬式代2万円を借金する富岡。その彼を思いやり見送るゆき子のショットから物語はテンポを加速させ、舞台も南洋に近い屋久島に向かい、ふたりの道行きのような道づれを描きます。ゆき子が選んだのは、ひとり身になった富岡を無理やり自分にもう一度向かせること。それは大日向教の杉夫の大金30万円を横領して温泉宿に逃亡し、そこで自殺を仄めかす電報を打ち富岡を呼ぶという、かつてのゆき子からは想像できない悪徳の行動でした。一緒になりたいゆき子と違う道をお互い進もうとする富岡に妥協点はありません。しかし、杉夫がゆき子を探し出そうとしていることを知って仕方なく新天地の赴任先屋久島まで付いて行くことになる。長旅の疲れからか途中の鹿児島の宿で倒れてしまい不安が過ぎります。当時の医療技術のレベルの低さを想像すると、寝たきりで家で長期療養するのは珍しくなかったので、最後の流れは理解します。ゆき子が元々身体が弱いのは妊娠した時から描かれていたし、中絶もけして上手くいった訳でもない。当時の栄養状態も現代と比べて悪かった。ゆき子の悲劇は、好きな男と一緒になりたいがために、無理に大胆な行動に出て、自分の身体を労わることが無かったからでしょう。問題は、最後遺体を前に泣き崩れる富岡の姿です。妻がいながら占領地の職場でゆき子と関係を続け、内地に戻れば事情が変わったと身勝手に棄て、縒りを戻すかに見せて若い人妻と同棲して死に追いやり、そして屋久島で短い期間なら一緒にいてもいいという無責任さ。結局この富岡という男は、ひとりの女性も幸せにしていない。そんな男の涙になんて、誰も同情は出来ないでしょう。ここは原作と違うようですが、富岡の涙でゆき子を送りたかった映画としての終わり方を選んだようです。
不倫男を愛し追い掛ける薄幸なゆき子と、時代の波に乗れず不安定な生活でも女を渡り歩く富岡の結局は離れられない女と男の関係。この女性作家の厳しい視点で描き通した脚本を、成瀬監督は女性心理に集中して演出し、主人公幸田ゆき子の悲劇を見事に映像化しています。脚本を読んで主人公の破滅的な生き方を演じれるか躊躇したという高峰秀子の演技は、それまでの長い芸歴と女性として美しく魅力に溢れた30歳の年齢から、一つの集大成的な名演を遺しています。最後の死に化粧を施されたゆき子の美しさ。時代と男の犠牲者としてのゆき子を演じ切った高峰秀子の名女優たる存在感が素晴らしい。そしてこの高峰の演技に呼応する森雅之の演技もまた素晴らしい。日本映画では男優の演技に不満を感じるのが時にありますが、富岡の嫌らしさと狡さを見事に表現しています。おせいを演じた岡田茉莉子の鮮烈な美貌と強かな役作りも良く(何とこの時21歳!)、加東大介、山形勲の脇を固める俳優陣の充実度の高さにも感心しました。
採点は文句なしの☆5個が相応しい完成度と思います。ただ描かれた内容の好みから個人的に評価しました。それでも、「稲妻」と「あにいもうと」に加えて、成瀬巳喜男監督の凄さに敬服した愛すべき名作には違いありません。
全くハマらず。
えっ、名作と言われてるらしいので観たけど、マジですか? わたしには良さが全くわからず…。 富岡がなんかする度に、「なんだこいつ。」と口走ってしまった。終始イライラ。 事あるごとに、すぐに死ぬ死ぬとか言う2人にもイライラ。どうぞどうぞ、って感じ。 ダメンズに捕まった女の一生、としか思えなかった。 くっついたり離れたりしてるウダウダがまたやたら長く感じる。 時代的に顔にも流行り廃れがあるんだと思うけど、富岡の見た目もなんか好きになれず。それが大きいのかな。最後の方でリンゴ食べてる時にクチャラーだったのもほんとにヤだった。 当時では、言い方古いけどトレンディドラマ的な扱いだったのかなぁ。とか思った。 濡れ場が無いのに、やたら想像させようとする感じだけ出してたなぁ。 昔の千駄ヶ谷駅とか見られたのは面白かった。 あと、こんな昔から屋久島の事を月に35日雨って揶揄してたんだーって思った。
悲惨な最後だよなあ
高岡もゆき子も、シナリオで読んだ印象と異なる部分があった。高岡は想定よりも腹の立つ言い方でゆき子を言いくるめ、口をすぼめた言い訳のような物言いが多かった。 二人の関係も、シナリオではもっと緊張感が走っているという印象があった。映画では、二人で居る時は、ある種の安定感みたいなものがあり、むしろゆき子が独りでいる、または、高岡を巡る人物たちと対峙している時の方が、より高い緊張感があり、恐ろしかった。ゆき子は、おせいや邦子の前で冷徹な表情を見せる一方、高岡の前では感情的で、既に考え尽くして疲れ切っているようにも見える。高岡の前であえて「悲劇の女」を演じているようにも見えるのだ。 このゆき子の性質から高岡の困惑が伝わってきて、割と二人の関係がフェアなようにも思えてしまう。(無論、中絶についてはゆき子が完全に不利であるが) また、伊庭の宗教の様子は、動きが加わることで想像以上に、面白く映っていた。ゆき子高岡の悲惨な状況との対比で、物語に抑揚がつけられていた。
駄目な女ね
上岡龍太郎作詞のマヒナスターズの曲が呼び起こされる。 こういう女性像は、男性視点で作られた都合よい虚像なのか、女性固有の情念なるものかはさておき、日陰に身をおかなくてもよい今日においては、描き方は変わるのだろう。言動はどう考えてもダメ男なんだが、それでも引力のある森雅之が好演。
戦前からのアプレガール♥
この原作や映画が戦前であるなら、少しは評価出来ようが、アプレゲールが百科騒乱の1950年代。朝鮮戦争が始まり、日本の復興が早まる。ある意味、『漁夫の利な特需景気』の時代。
新しい女性の生き方を描いたと過大評価するが、女性が男に食い物にされる女性の黎明期の様な話。男の為に、性の仕切りを低くした女性の顛末。この波は何一つ反省する事無く現代に続くが、何故かこう言ったストーリーがもてはやされる。
1949年に『情婦マノン』と言う男女関係を描いたフランス映画があるが、凄まじい男女関係を描いた映画だった。我が亡父はその映画の話は良く話してくれた。しかし、この類の映画を『アプレガールは不道徳だ』とディスっていた。後に情婦マノンは鑑賞したが、情婦マノンの方が毒々しい男女関係だった。この映画には笑いも危機感も緊張感も不条理すらない。戦後メロドラマの元祖なのだろう。
鹿児島から安房、宮之浦まで3時間で行ける。10時発だったら午後一番で着く。映画に出てくる様な船ではない。屋久杉の島ですよ。放浪の末の旅路の果ては普通『鹿児島』だろう。
出鱈目そのもの。
僕には最後だけが笑えるし、ザマァ見ろって思ったが、不謹慎だね。賢明に一生懸命に生きて欲しい。これからの女性には。こんな映画見て心動かさないで。
ヤルセナキオ‼️
この「浮雲」は成瀬巳喜男監督の最高傑作と言われてますが、成瀬巳喜男監督のフィルモグラフィーの中では極めて異色の作品だと思います‼️成瀬巳喜男監督といえば1951年の「めし」以降、平凡な市井の人々、わびしい夫婦の日常をゆったりとしたタッチで微笑ましく描いた作風をお家芸としていたと思うのですが、この「浮雲」はかなり残酷です‼️容赦ないです‼️どうしようもなく煮え切らないダメ男と、それと知りながら彼を愛し続けていくことで、次第に堕ちていく哀れな女の生態を哀切に冷徹に描いております‼️戦争中の南方で知り合った二人は帰国後もズルズルと関係を続ける。女はアメリカ兵のオンリーとなるし、男は仕事がうまくいかないし、その上温泉宿の女将と同棲したりするし、女も義兄の囲い者になったり、挙句の果ては二人で屋久島に流れていき、病で女は死んでしまう・・・これも人間、これも男と女、これも愛、胸にナイフが突き刺さるような映画ですね‼️スゴいです‼️男の小ずるさを完璧に表現した森雅之さんの至芸、女の哀れさを演じる高峰秀子のつまらなさそうな所在なさそうな表情と演技‼️ウマいです‼️南方に始まり、焼け跡のボロッちーホテルや汚い小屋、長岡温泉、ラストの屋久島と次々と舞台を変え、浮雲のように漂いながら繰り返される二人の会話の悲しさ、切なさ、愚かさ、そのピッタリ合った呼吸が見事ですね‼️しかもコタツに入りながらとか、ローソクの灯の下でだったりとか、そのシチュエーションもミョーに印象に残ってます‼️登場人物全てが不幸のどん底にたたき落とされる悲しい映画なのですが、女たらしのぐうたら男が、女の亡骸を抱き、嗚咽するシーンで締めくくる、成瀬監督の心憎い演出‼️救いがないようなラストですが、逆に観ている者もこのラストで救われたのではないでしょうか⁉️女は命を落とすことで、ようやく男の心を本当に摑むことができたのですから
望んでも手の届かない理想的な家庭への思いが…
小津安二郎監督の 「俺に出来ないシャシンは溝口の祇園の姉妹と 成瀬の浮雲だ」との有名な言葉を ある方からこの“映画.com”で教えて頂き、 「めし」「山の音」に続いて この「浮雲」を再鑑賞した。 内容についてはかなり記憶も薄れていたが、 改めての鑑賞では、 廃退的な主人公の生き様にも関わらず、 何故か作品の世界に引き込まれてしまった。 小津のコメントは、もちろん作品の完成度の ことはあるのだろうが、 それだけに留まらない「俺に出来ない…」の 意味が少しは分かったような気がした。 この作品にしろ、 溝口の「祇園の姉妹」にしても、 小津が描く主人公達とは、 その置かれている状況自体が 違っているように感じる。 表面的にも、 家庭という形が初めから無いか、 あっても有名無実化している2作品の 主人公達に比べ、 小津の取り上げる主人公達の家庭は、 人間関係の上でも経済的にも安定しており、 その上での、苦悩・葛藤・喪失感への 家族の心のひだを細やかに小津は描く。 一方、溝口と成瀬の 上記の2つの作品の登場人物は、 ギリギリの生活からの やむを得ない選択の毎日から 安定した家庭を望もうにも手が届かず、 でも、その中で理想の家庭を希求してもがく 人間像という点で 前提そのものが大きく異なることが、 「俺に出来ない…」発言に繋がっている ようにも想像した。 今回、連続鑑賞した成瀬3作品の主人公達に 共通して感じたことは、 望んでも手の届かない理想的な家庭への 思いだったが、 それを登場人物を通じて繊細に描く演出に 長けた成瀬巳喜男は、 やはり日本映画の代表的な監督の一人 のように感じる。
二人の情念のさまよいを、見事に描ききった作品。
小津監督が「俺には撮れん」とおっしゃったことが有名な映画。 小津監督の映画は『東京物語』『早春』『秋日和』しか鑑賞していないけれど、確かに、この映画は小津監督には撮れないと思う。小津監督の様式美に合わないと思う。『早春』にも不倫は出てきたけれど、グダグダさが違う。 コメディチックな要素のある小津監督作品。 この映画では…。描かれていることが廻り回ってブラックコメディだとしても、それは、自分の心を、普段の生活を覗き見て出てくる、シニカルな笑い。 成瀬監督作品初鑑賞。 評価の高い作品と聞く。だが、初見では、高峰さんを見る映画かと思った。 高峰さんの映画も『二十四の瞳』しか観ていない。だから、その役柄のギャップに驚き、こんな情念を表現なさるんだと食いついてしまった。 そして、その高峰さん・ゆき子を際立たせる男が二人。 一人は富岡。世の中を斜めに見ていっぱしのことを言うが、結局、流されるだけで、何も生み出さない。演じる森氏の映画は『羅生門』『雨月物語』しか観ていない。『雨月物語』でも不実な男を演じていらしたが、キャラクターが全く違う。『雨月物語』の源十郎は不実の中にも、源十郎なりの”実”を見せるが、この映画の富岡は陰キャラで厭世観をばらまき、”実”の中に”不実”を匂わせる。 もう一人はゆき子の姉婿・伊庭。行儀見習いに来た、妻の妹・ゆき子に手を付け、その後も悪びれずに、ちょっかいを出す。戦後の時流に乗って、インチキ宗教の教祖になるという陽キャラで即物的な男。演じる山形氏の映画は『地獄門』しか観ていないが、こちらもキャラクターが全く違う。『地獄門』では清廉潔白で、袈裟がこの人の妻であることを誉と思うような御所侍を演じていらした。『地獄門』の主人公・武者盛遠がどうやっても、武もふるまいも、性格もかなわない人物。なのに、この映画での伊庭は…。このギャップ。 役者って、すごいなあと身震いさせられる。 情念。 「おせいに勝った」みたいな、ゆき子の台詞。 人が必死になると釣られて、バーゲン会場でとにかく何か手に入れなければと争う人々を思い出してしまった。粗悪品か、本当に自分にふさわしいものかを吟味することなく、とにかく手に入れることに価値がある的な。 ゆき子にとっては、それでも、周りの男の中では富岡と、選んでいるつもりなのだろう。伊庭は論外。逃れて、インドシナに赴任すれば、同僚の加納が部屋に忍んで来る。ならばと、富岡を選ぶ。インテリゲンチャに憧れる気持ちはわかる。ところが、帰国すれば、日本の惨状は。富岡が、苦労しそうな妻を見捨てなかったところは評価したいけれど。ゆき子にしてみれば、裏切り。 見捨てられた口惜しさと、自分の方が女としては上と思いたい気持ち。自分の存在価値を確認したい気持ち。「一人になると日が長うなりますわ」とは、小津監督の『東京物語』の中の台詞だが、恋に破れても同じであろう。自尊心が低い人ほど、一回でも自分を認めてくれた人・ものに縋りつく。 惰性とその中にちらつく相手への愛おしさと。怒り。富岡にだけでなく、こんな人生になってしまった運命への怒り。ごく平凡な関係をうらやましがる様。愛・恋なんて言葉では説明しきれない様々な気持ち。 女一人で生きていくことの難しさ。家を借りるのも、”会社”に勤めるのも、まだ”保証人”が必要な時代。姉婿と関係を持ってしまったら、故郷も頼れなかったのかもと思う。とはいえ、戦後のドタバタの時期。『砂の器』のように、経歴詐称だって、その気になればできた時代? でも、ゆき子はもしかしたらの希望を捨てきれずに、富岡との縁を完全には断ち切れない。 そんな女の、その時々の心情を表現する高峰さん。馬鹿な女と思いつつも、愛おしくなる。 そんな女に見込まれた富岡。 初めは拒絶するようなことをいうところが、責任を取りたくないと防御しているようで、今の二股・三股男の手口と同じで腹が立つ。 思っていたよりもひどい、帰国後の日本の現状で、妻を捨てられなかったように、目の前にいる困っている人を袖にできない。その場しのぎの短絡的な手助けや言葉が結局、その人を苦しめることは考えればわかることなのに。言い訳を連ねて、相手のせいにするかと思えば、自虐。最低男なのに放っておけない。 そんな色悪を見事に演じて下さる森氏。富岡がメフィストフェレスのように影を体現してくれるから、ゆき子が際立つ。 そして、この二人だけだと底なし沼に沈んでいく様子だけで、見ているのがつらくなるが、程よく、伊庭がかき回してくれる。 メロドラマはそんなに観ていないので、この映画が日本で一番かどうかは何とも言えない。 反対に、メロドラマをそんなに観ない私だが、気が付けばリピートしている。 おせいの存在とか、二人に関わっていく登場人物もいるが、ドラマチックに盛り上げるようなエピソードがないにも関わらず、最後まで見せてしまう。 リマスターの映像の質なのか、この映画の高峰さんの、岡田さんの肌のきれいなこと。高峰さんの肌は、きめ細かく柔らかそうだ。岡田さんのは若くてプリプリしている。高峰さんが大事そうに来ている毛糸のカーディガンの手触りのよさそうなこと。光と影の使い方に唸ってしまう。 そして、いろいろな解説でも読んだ”視線”の使い方。 インドシナでの食事の場面。メイドが後ろを通った時の視線だけで、二人の関係をほのめかす。 一目ぼれとはこういうことかと、富岡とおせいの出会いで思う。それを横で見ているゆき子の表情・視線にもゾクゾクする。 富岡が来るまで、旅館の別の客を見ているゆき子。ここも胸を締め付けられるシーンだ。 ラスト、病床から富岡とお手伝いさんを見ているゆき子。何を思うのか。胸を締め付けられる。 他にも、他にも。キリがない。 視線が交わらない小津映画では絶対に表現できない。 不倫というより、グダグダな二人の腐れ縁を描いた話。好き嫌いが分かれそうだ。 安易なリメイクでは、このような完成度にはならないと思う。 映画としての見せ方は、たぶん映画通や映画に関わる人々には教科書なのだろう。 そう考えると、評価が高いのも頷ける。
男女の機微
まず二人の出会いのシーンで喰らってしまった。 富岡(森雅之)が退場する時に入れ替わりで侍女が入ってくる。去っていく富岡に視線を送る侍女をカメラが正面で捉え、次に去って行く富岡の方を向くゆき子(高峰秀子)を写し、ゆき子の視線は富岡から彼に熱い視線を送る侍女へと移る。 わずか数秒の流れるような視線の動きを捉えたカメラワークでこうも語ってしまうのか、と感嘆してしまった。 また小道具の使い方が巧妙で、ゆき子の年齢を会話のやり取りで明かした上で、後にゆき子にちょっかいを出す同僚が「香木の研究をしててね」と懐から香木を取り出して嗅いでみたり、宿泊先で富岡の着替えだけが風呂敷で包まれていたり、その他ちょっとした視線の動きなど、演出が絶妙だった。 男は関係を断ち切れずにたまに寂しくなっては女に会いに行くが、女の方がその気になると男の方では引いてしまう。色気と気品のある森雅之だからこそか、どこまでも煮え切らない二人のやり取りに見入ってしまった。 全体を通して暗く重苦しい雰囲気だが、山をバックに二人で歩くシーンや船の出航のシーンなど明るく抜けの良い画面が挟まれたり、家を出入りする時にすれ違う狭い路地で遊ぶ子ども達の姿など二人の関係や生活との対比で一層眩しく映った。また、ゆき子の兄の新興宗教のシーンや、加東大介演じる飲み屋の主人との掛け合いがコミカルでスパイスとして効いていた。 しかし、ラストシーンのあまりの暗さにはズシっと来るものがあった。
とても面白かった
冒頭の引き揚げシーンからラストまで、どのくらいの年月を描いた話なのか、思い返しても判然としない。とにかく最初から最後まで、ひと組の男女がひたすらお互いを行ったり来たりする様子だけ。他には劇中一切、全く何も描かれない。 1955年に公開された映画なので当然ながら、人間の等身大をはるかに超えたバカでかいスクリーンで見られることしか想定されていない。そういう風に設計された映像を現代でも映画館で見られる贅沢。 富岡の、女に対してのみ威力が発揮される超絶クズ仕草。ゆき子(雪子?由希子?)はわかっていながらそれでも食らいついていく。その気持ちの強さを表現する高峰秀子の表情と言葉と佇まいに、見ているこちらの心が全部持っていかれる。
日本映画オールタイムベスト第3位。
成瀬巳喜男監督の戦後の日本映画を代表する作品。 林芙美子の原作。 大変な波瀾万丈の恋愛映画である。 仏領インドシナ(現在のベトナム)に始まり、東京、 そして日本の南の果ての屋久島へと転々と舞台が 移る。 戦後最大の流行作家・林芙美子のストーリーテリングは、 悲劇を喜劇のようにアップダウンさせて、 人間の好奇心を痛く刺激する。 これでもか、これでもか、女を不幸のドン底に突き落とす。 《ストーリー》 戦時中の1943年、農林省のタイピストとしてインドシナに 渡ったゆき子(高峰秀子)は、農林省の技師・富岡(森雅之)と出会う。 冨岡は妻帯者と知りながらも2人は恋仲になる。 冨岡は妻と離婚すると約束するが、戦後東京に戻ったゆき子が、 冨岡宅を訪ねると、妻が応対。 妻とは別れていないと分かる。 失意のゆき子は米兵の情婦になる。 しかし冨岡と再会したゆき子は、またも簡単によりを戻す。 妊娠したゆき子はかつて貞操を奪われた義兄(伊藤雄之助)から、 金を借りて中絶をする。 冨岡とゆき子の腐れ縁。 側から見ると、賢い上に生活力もあるゆき子が、 女にダラシない富岡に 何故惹かれるのか?とても不思議に思う。 観客は馬鹿なゆき子に、ヤキモキして、 同情したり怒ったり忙しい。 これが流行作家と映画監督の手練手管か。 大体に冨岡は妻の葬式代を愛人に借りるような男。 ちょっと子綺麗な女(岡田茉莉子)を見ると、眼が爛々と輝く。 そんな身持ちの悪い男(森)を忘れられない女・ゆき子。 この「浮雲」は日本映画を代表する映画だという。 (日本映画のベストテンの上位に必ず入っている) 高峰秀子さんは、週刊朝日に連載していた「わたしの渡世日記」を読んでいたのと、 2010年没ですので、それなりに知っています。 (本当に賢い信念の人という印象) 成瀬巳喜男監督は殆ど知らず、この映画で作品を初めて観ました。 森雅之も生存中は殆ど知らず、最近観た「羅生門」の武家、「白痴」の主役。 今作と幅広い役を演じる演技派ですね。 戦前戦後の世相も珍しい。 ゆき子の元軍人の義兄は「踊る宗教」を主宰してボロ儲けをしている。 (踊る宗教?って何? ………………これ、本当にあったらしい) 森雅之はゲスな上に、付き合う女が3人とも不幸になる・・・ という凶運の持ち主。 なんと夫(金子信雄)を捨てて森を追って上京した岡田茉莉子は 金子信雄に嫉妬から刺殺されてしまう。 森雅之の妻は病死する。 ゆき子(高嶺)も、また・・・。 …………肺結核に罹患します………… そして屋久島ではもう起き上がることも出来ず、 病いに臥せってしまう。 屋久島は雨の多い事では有数の土地。 寝床の外はウンザリする程の、雨また雨。 原作者の林芙美子について触れます。 芙美子は行動力のある女性で、戦時中にはボルネオや中国へ慰問に行くやら、 パリ留学するやら、ロンドン滞在歴もあるのです。 男と女の腐れ縁をただただ追っている本作品。 なぜか微妙に面白いのです。 演歌の世界の暗い情念・・・と同じに惹かれるのでしょうか。 日本人の私小説のルーツでしょうか。 《花の命は短くて苦しきことのみ多かりき》 林芙美子が好んだこの言葉。 映画のラストに大きく書かれて、終わります。 自分を「花」に喩える度胸。 大した女性です。 ゆき子も林芙美子も、花の命は短かったです。 林芙美子のこの原作。 芸術性もヘッタクレもあったもんじゃないです。 林芙美子は大変な流行作家で仕事を抱え込みすぎて、 働き過ぎ・・・過労で亡くなったようなものです。 ウィキペディアを読むと実生活の森雅之も 大変な女たらし・・だったらしい。 当時の庶民の楽しみが林芙美子のリアルな小説。 翻って考えても、なぜこの映画が凄い名作なのだろうか!? ゆき子の男運の悪さ、 こんな男を愛さなければ・・・ 理性で解決出来ない男女の仲。 確かに面白いけれど、 日本映画を代表する一本・・・ そう言われるとちょっと首を傾げてしまいますね。
花の命は短くて
ストーリー:なぜかモテモテの官吏は、日本に帰ってからも行く先々で美女を我が物にし、幸福を吸吸い尽くす。 犠牲になっていく女性たちが本当にかわいそう。 女優の演技力と美しさを堪能。 今週の気付いた事:クリネックスティシューの段ボール箱
南国で出会い、雨降る島で永久の別れ
高峰秀子と脚本の力がとにかく素晴らしかった。ゆき子=高峰秀子のセリフの一つ一つが最初から最後までリアルでシャープで男全般に対する皮肉と本心、普遍的。一方の富岡もゆき子に嫌みばかり言うクズ男だがどこまでも優しい。第一印象だって悪かったのに二人は出会ってしまった。子鹿のバンビのようにかわいらしいゆき子。一人で生きていける強さを持っているのにゆき子はひたすら富岡を追う。富岡もむげにしない。ゆき子がどんな男とつきあおうとどんな暮らしをしていても、ゆき子を拒むことは一切ない。優しさと腐れ縁の連続。二人は離れない。 高峰秀子、本当に凄い。娘時代の彼女はおんなじような役(親思いの健気な娘)ばっかりやらされていて本当に気の毒で可哀想だと思った。だからこのような作品にオファーされ堂々と演技するチャンスを与えられたのは女優として最高の幸せで彼女も肝が据わっていたんだと思う。この役をできる女優は今の日本にはいないでしょう。
むしろ憎しみ合っているかの男女。
近頃の恋愛映画もどきに幻滅して30年振りの再見。 愛し合うどころか憎しみあっているかの男女。 しかし離れはせず、世間との断絶を選び、もがく程に泥沼に堕ちる男女。 恋愛は悲劇だとする切実。 今の時代も実際そうなのではないのか。 ほっこりしてイイね、な恋愛映画なんて。
とにかく高峰秀子と森雅之の演技力は半端ない
男が女を愛するには責任と義務が生じる それは頭では分かってる けれども、成り行きで気がつけば深い仲になってしまっている 女だってこんな男と付き合ってもどうにもならない それは分かっているのに逃げない 気がつけば追いかけている 浮雲のようにあてどもなく漂い流されていく 千切れて別れてはまたくっついていく 理屈でない、だらしなく生きる楽さが互いに欲しいのだ いつしかそこに強烈なリアリティーを感じるようになった、自分も大人のはしくれになったということか 幸子が富岡をなじる言葉のひとつひとつにリアルで聞き覚えのある男性も多いはずと思う とにかく幸子は何度も泣く しかし富岡は泣くことはない そんな真面目な男ではない だがラストシーンで初めて泣くのだ 浮雲は流れ流れて行き着いた最果ての地で山にぶつかり雨となったのだ とにかく高峰秀子の演技力は半端ない 仏印での清純な女性からやさぐれたパンパンまで見事に演じてみせている 森雅之もまた彼が演じる富岡兼吾という男が漂よわせる空気をこれ以上ないリアリティーで感じさせる名演技だった 監督の演出も的確で過剰ではなく流麗なほどにスムーズに物語が進行する 日本映画の傑作のひとつ
恋の道行き
一組の男女の恋の道行きを画いた作品。男の価値観と女の価値観に温度差があるため、微妙にボタンの掛け違いが起こる、このアンバランスさは傍からみても不細工であるが、でもその不細工さはまさに理屈ではなく感情のおもむくままであり、ある種の羨ましさが残った。
離れられない男女の成れ果て
成瀬巳喜男監督による、終戦前から直後の混乱期、男女の不倫の哀しさと成れ果てを描いた映画。林芙美子原作。予備知識があまりなく、観るまで、二葉亭四迷の「浮雲」だと思っておりました。
成瀬巳喜男氏、2作目の観賞でした。初見は『歌行燈』でした。こちらに比べると、ずいぶん重くて心にのしかかるストーリーでした。森雅之氏は以前、『白痴』(黒澤明)で観てすごく印象的でしたが、この人って「目」で演技しているような気がします。
観ていて腹が立つほど、ええ加減な口先だけの無責任男に何故、惹かれるんだろう? でも、女性の方がゾッコンという気がしますし、悲しいかな、「この男に惚れる」のも、理屈抜きで、わかってしまうところが怖かったです。ずるいのも卑怯なところも女好きでどうしようもないところ……すべてを知っているのに、離れられない、離れてもまた巡り会って追い掛けてしまう、結びついてしまう、女のサガなのか。ダメ男なのに、女をぱっと引き寄せてしまうところなどは、うまく描かれていました。(富岡とおせいの目が合い、ねんごろになる予感など)性描写はないのに、身体でつながっている男女であるのは明白だったし。温泉宿で、入浴中に、脱衣籠だけが映し出されるところなどの演出もよかったです。
雨が降り続ける、湿った屋敷、屋久島で、ゆき子が病に伏してしまい、最期を迎えるシーンは本当に哀しいですが、ゆき子の死に顔が美しく、くちびるに紅を差して、むせび泣く富岡の姿にある種のカタルシスがあったかのかもしれません。
現代風にリメイクしたら、きっと、この作品の良さは出ないでしょう。
全29件中、1~20件目を表示