夏の嵐
解説
オペラ的な要素とリアリズムを融合した絢爛豪華な時代絵巻。19世紀後半、オーストリア支配下のベネチアで出会った伯爵夫人と美しい青年将校。青年に恋をした伯爵夫人は、彼のために軍資金を横流しする。一途な愛を貫く伯爵夫人を演じたアリダ・バリは、ハリウッドでも活躍し、「第三の男」の恋人役で知られる。青年将校役は、ルキノ・ビスコンティの初監督作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で流れ者の主人公を演じたマッシモ・ジロッティ。
1954年製作/119分/イタリア
原題または英題:Senso
オペラ的な要素とリアリズムを融合した絢爛豪華な時代絵巻。19世紀後半、オーストリア支配下のベネチアで出会った伯爵夫人と美しい青年将校。青年に恋をした伯爵夫人は、彼のために軍資金を横流しする。一途な愛を貫く伯爵夫人を演じたアリダ・バリは、ハリウッドでも活躍し、「第三の男」の恋人役で知られる。青年将校役は、ルキノ・ビスコンティの初監督作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で流れ者の主人公を演じたマッシモ・ジロッティ。
1954年製作/119分/イタリア
原題または英題:Senso
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2020年4月24日ヴィスコンティ監督作品の中では、退屈せずに面白く鑑賞できる作品
映像も美しくセットの美術も衣装も絢爛豪華で目が楽しいことこの上ない
終盤の戦争シーンも迫真性が半端ありません
しかもカラー
画面は明るく鮮明、彩度も高い、レンズの味が映画を観たという満足感をもたらしてくれます
1954年製作、翌1955年の日本公開作品
当時日本ではほとんど評価されなかったという
1955年は日本共産党が武装闘争方針の放棄を決定した年であり、新左翼誕生の原点の年でもありました
つまり政治の夏の嵐が熱く吹き荒れていたのです
ですから、本作のようなブルジョア貴族階級の惚れたはれたの不倫物語など観たくもないという時代であっただと思います
舞台はイタリアで伊墺戦争を背景にした題材
そうと言われても日本人には馴染みがありません
冒頭に1866年とテロップがでます
つまり日本で言えば幕末
主人公のリヴィア伯爵夫人を徳川方の大きな藩の奥方様、ロベルト侯爵は新撰組の隊長、オーストリア軍は長州の倒幕軍、フランツは長州藩士、舞台は京都
序盤のフェニーチェ劇場は、京都四条河原町の南座
オペラは歌舞伎
そんな具合に置き換えてみると、するする筋書きが頭にはいります
お話は西鶴一代女みたいなものです
詰まらぬ男の手管にのせられて、気がつけば色恋に溺れて、身分を忘れて転落してゆく女の物語
洋の東西を問わず同じです
本作を観て「面白かった!良かった!」なんていうと、公開当時の日本ではブルジョア趣味だ!自己批判しろとなじられたのでしょうか?
良い世の中になったと思います
「夏の嵐」
身体の芯の熱いものが理性を吹き飛ばしてしまう
そんな映画を素直に評価できる幸せな世の中です
原題は「官能」
それを「夏の嵐」とつけた日本の配給会社の宣伝マンのセンスはさすがです
2021年11月7日
映画 #夏の嵐 (1954年)イタリア映画
鑑賞
古い女性像を描いた作品なんだろうなと思った。
金持ち夫の庇護下にありながら、理想に燃えて反乱闘争に奔走する従兄弟に恋焦がれ、しかし、その従兄弟を流刑したイケメン将校に恋をし、溺れる。
#ルキノ・ヴィスコンティ 監督作品らしい作品
恋焦がれた将校に騙されていたことを知った公爵夫人が軍に偽装除隊を通報して、男が銃殺される展開が衝撃的で、愛憎が表裏一体であることを突きつけられて怖い。
オーストリア軍中尉ファーリー・グレンジャーが、公爵夫人を虜にして大金をゲットするプロセスの演技と描写が巧み。観客からは騙してるのが良く見える様に、かつ夫人が騙されるのに説得力ある様に演じている。除隊後売春婦と酒の耽溺した暮らしの中、いきなり彼女に訪問されて、公爵夫人に階級差に復讐するかの様に悪態をつくところも、なかなかに良い。
また、イタリア・オーストリア戦争の時代、19世紀後半の貴族の特権的な暮らしや扱いにはビックリ。公爵夫人というだけで、戦地の通行も自由で、敵軍からも丁重なもてなしを受けるのだ。そして、冷たく美しい街の石畳とそこを引き摺るかたちで歩く公爵夫人のスカート
。汚れてしまわない?逆に、何とも贅沢なこと。
全体的には、ルキノビスコンティが何を描きたかったが今ひとつ掴めず、落ち着きが悪い。人間の、特に貴族の堕ちていく様に甘美な魅力を感じてる?それとも、歴史的必然として貴族階級の破滅していく伯爵夫人の姿に、自分を重ねてみている?それとも、庶民階級の若いハンサムボーイとの愛欲に溺れて破滅する貴族夫人に自分を重ねている?正直、良く分からなかった。