時計じかけのオレンジのレビュー・感想・評価
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キューブリック節・「狂気」と「正しさ」の集大成。
◯作品全体
キューブリック監督作品に多く共通する部分として、「狂気」と「正しさ」が関連して語られる点がある。本作の公開前におけるキューブリック監督作品で見てみると、初映画作品である『恐怖と欲望』は孤立した戦場で自分を見失う若者が、『突撃』では不当な銃殺刑を言い渡される兵士とそれを強行する上層部が、『ロリータ』では少女に固執する主人公が、『博士の異常な愛情』では極端な選民思想を訴える博士が登場する。いずれも狂気をまとったような仕草や表情の映し方が非常に印象的で、カメラ目線の異常な目線や、FIXのカメラによる登場人物との独特な距離感が心の中の暗い部分をまざまざと見せつける。
それだけでもインパクトある作品たちなのだが、その「狂気」と併せて語られるのが「正しさ」の在り処だ。
先に挙げた作品の登場人物たちは支離滅裂な狂気ではなく、それぞれがもつ正しさを示すために常識から逸脱した行動を見せる。例えば『突撃』では、命令無視をした部隊への懲罰として銃殺刑を言い渡す上層部の「正しさ」と、何も悪いことはしていない、部隊員の一人である兵士の不服という「正しさ」がある。上層部は上層部で無謀な突撃を指示する「狂気」を内包し、兵士はそれに抗えずに死と直面して精神崩壊する「狂気」がある。作品の世界ごとに存在する「正しさ」と「狂気」。その並立と不協和音の応酬が、キューブリック作品にはある。
前置きが長くなったが、本作はその「正しさ」と「狂気」の表現がより鋭く尖っていた。今までの作品でじっくりと研ぎ澄ませていたその鋭利な表現に、ただただ打ちのめされた。
アレックスが抱える暴力は、暴力を超えて狂気の沙汰だ。一方でそれを抑止しようとする政府の「正しさ」の治療もまた、狂気でしかない。終盤ではその狂った「正しさ」の恐怖から抜け出すアレックス。ただ、その経験を経てもアレックスの頭にある暴力とセックスの景色は、やはり「狂気」だ。そんな行き場のない「正しさ」と「狂気」は一見すると滑稽でSFチックな光景なのだが、狂気を孕んだアレックスの目線や表情、そして「正しさ」に治療されたアレックスを見る周りの人物たちの目線や表情は、心の底からゾッとする。練りに練られた「正しさ」と「恐怖」の応酬とその映し方に釘付けになった。
一朝一夕の「狂気」と「正しさ」の表現ではない。長年培ってきたキューブリック印の「狂気」と「正しさ」の集大成と言える、濃厚な作品だ。
◯カメラワークとか
・冒頭のOPで真っ赤な画面が長く映される始まりは『2001年宇宙の旅』の真っ黒な画面が長く映される冒頭と重なった。何も映されない、始まらない恐怖。いろいろ映されるよりも画面から目を逸らせなくなる。
・一点透視の画面の整然とした空気感。本作以前から一点透視の画面はあったんだけど、『2001年宇宙の旅』から長めの尺で使われてる気がする。そっちの方ではガランとした空間の「静寂」みたいな印象だったんだけど、本作だと「嵐の前の静けさ」みたいな、ちょっと不気味な印象がある。
・「嵐の前の静けさ」で関連して浮かんでくるのが、音楽の使われていないカットの静けさも不穏だった。作家の家と猫屋敷に乗り込むまえの空気感とか。後者は警察に電話した家主が受話器を置くカットで一拍おいてアレックスが奥のドアを開ける。作家にワインで眠らされるシーンも、会話の中で一拍静けさがあって、スパゲッティに突伏する。こういうテンポ感が本当に凄い。
・ナンパした女とセックスするシーンを早回しで「ウィリアム・テル序曲」流すの、何回見てもすげえってなるなあ。ギャグっぽいシーンでクラシック流すのは結構ある気がするんだけど、本作ではクラシック音楽が物語に絡んでくるから突拍子のないものではないし、色気を一切なくした滑稽さの演出として、なんというか、会心だなあと思う。
◯その他
・グロテスクなものに対する耐性はかなりある方なんだけど、治療で目を強制的に開くところは何回見ても直視できない。見てるこっちが涙出てくる。
・看守長がいいキャラしてるんだよなあ。『フルメタル・ジャケット』にも繋がりそうなあの感じ。
・この作品を今見ても古臭く感じないのは、どの世代にも属さないアレックスたちの衣装とナッドサットを使って話してるところが大きいんじゃないかなと感じた。それぞれの時代の作品でヤンキーとか不良を描こうとするとそれぞれの世代でのそれを意識したデザインになっちゃう。シャツの着こなし方とか髪型とか、その時代の口調とか。その点、衣装では世代を見定められないし、ナッドサットもどの世代でもない。でも今でいう「ネットスラング」っぽい感じの、内輪向けな流行語を使ってますよっていうのがどの世代にもある「若者の舐め腐った感じ」の演出にすごくマッチしてる。
映画で魂を統治せよ、そんな世界はいらない
スタンリー・キューブリック監督作品。
不朽の名作だ。
本作の主人公・アレックスが暴力と無秩序が蔓延る社会で、不良少年から善良な「社会」人になるために、懲罰から治療へと向かう。それは魂の統治といっても過言ではない。その統治において採用される治療法が、映画鑑賞である。目を瞬きができないように固定器具で見開き、バイオレンス映画やポルノ映画をひたするみる。そして映画におけるイメージと現実世界を「連係」させ、現実の暴力とポルノに吐き気を催させる。治療手段に映画を取り入れるメタな視点と危険性の指摘に驚きつつ、この「連係」は重要な概念である。
例えばアバンクレジットで赤と青のショットを連係させて別の色のイメージを産み出していたり、「雨に唄えば」のような陽気な音楽と暴力に満ちた映像を連係させて不穏なイメージを想起させる仕掛けをしている。このように物語における鍵となる概念とともに映画とは何か、イメージとは何かを問いかける重要な概念なのである。
治療による連係によってイメージは創出できたが、倫理観は育まれない。
かつての懲罰では内省による改心、それによる倫理的な行為が目指されていた。しかし心を治療し終えたのなら、正常であることが暗黙の了解になってしまう。だからアレックスの社会復帰後の行動原理も分かる。
物語の終盤では、アレックスが暴力とポルノに回帰する。これは退行とも解釈できるが、善く生きるために、生権力を握らされず私たちが社会を統治するためには、肯定的に受け止めなくてはいけないのではないだろうか。暴力とポルノを社会から、一個人から抹消するためには、本作のような魂の治療が必要になってくる。しかしそれは倫理観を醸成することはない。ましてや連係によって別様の暴力やポルノをイメージさせることだってあり得る。だから暴力やポルノを懐柔させながら、社会に組み込む遊びの仕掛けが必要だと思うのである。
今なお我々はこの映画に追いつけずにいる
ミルクバーのソファからじっと画面のこちらを凝視する青年アレックス。その表情はまるで観る者をことごとく目で切り刻んでいるかのようで戦慄が走る。奇想天外で、挑発的で、人を思い切り不快な気持ちに陥らせる場面も多い本作には、今見ても常人には真似できない色彩、美術、衣装、カメラワーク、すべてにおいて時代の20歩くらい先を突っ走ってる凄みが満ち満ちている。公開45年を超えた今もなお、我々はこの映画に追いつけずにいる。
クライマックスでに突きつけられる「社会」へのアンチテーゼも鋭く突き刺さる。ただ、当のキューブリックは、自身が脅迫状を受け取ったのを機に「家族の安全が保証出来ない」として強気な態度を変え、73年に英国内の上映を禁止した。その後本国では長らく上映が叶わなかったと言われる。「博士の異常な愛情」ではないが、凄まじい爆弾を作り出したことに最も思い悩んだのはキューブリック本人だったのかもしれない。
評価しない
若い頃に観たときは、耐え難い暴力描写に
引きながらも人の本質の捉え方に驚き、
その他のスタイリッシュさに惹かれた
だが2024年のいま観直してみて
クソだと思った
それはきっと、現実が近づいたからだ
闇バイトとして恨みもない人の家に侵入し
傷つけ殺し奪う奴らが現実にいる現在に
こんな作品はクソだ
もう、語り継がれなくていい
有名なだけ
有名なやつなのでとりあえず観てみようと思い視聴
最初から最後までひっかかるような気持ち悪さが続く物語と映像
胸焼けしたかのような時間が続いた
面白いとかつまらないとかそういう作品ではなかった
芸術的なのはわかったが、芸術というのものは万人受けするものではない
皮肉や社会風刺、メッセージ性も強く感じたがいかんせん芸術性が先にくるので真芯で捉えること無く、ほのめかすような描写やセリフがばかり
映画というより映像芸術と感じた
物語などは置いておいて、半世紀近くも前の作品なのに観たことないようなカメラワークや描写・演出が多々あったのでそこは楽しめました
そこも映画というより映像芸術ならではなのかなと
0044 なーんか生理的にキツイなあ
なんて時代だ
月にまで足を踏み入れているのに
地上の秩序崩壊には誰も無関心だ。
ワタシにはおパヨのユートピアとそう変わらない1作。
しかし第二次大戦中嫁さんを暴行された事実を元に
原作を書いた作者は
チンピラが暴れまわる社会と犯罪者なら洗脳してしまう
社会とどっちがよい?
と問いかける。
答えられるほど俯瞰的な目線はもってないなあ。
70点
往年の名作に対する映画素人の感想
私は全く映画に詳しくなく、本作も「昔の有名な作品」ということしか知らない、ジャンル・監督・事前知識0の状態で視聴した。
見終わってから「???」の状態で映画のあらすじを読んで、「これ近未来SFだったんだ…」と理解。
教養がなさすぎで全然内容を理解できなかった…と視聴後落ち込んだが、SFか…たしかに週刊ストーリーランドみある…と後から思ったけど内容に関してはそのくらい浅い感想しか出てこない…。
寓話物かな?と思ったがオチが童話のようにきれいについているわけではなく、ラストで少しゾッとする。近未来SFと認識した後から考えてみると、すごく納得のストーリー展開だった。
しかしわかりやすいストーリーや、複雑な内容でもわかりやすいテーマがある作品に慣れてしまっている現代人には、2時間強離脱せずに見続けることがしんどいかもしれないとなんとなく思った。
でも決してつまらなくて途中で離脱するようなことはなかった。
なにしろ画面が見ていて飽きなさすぎる!
この監督の作品は他に見ていないので、詳しい方にとっては周知の事実なのかもしれないが、舞台・小物・服装などどれもセンスが爆発しており本当に70年代の映画なのかこれはと感服していた。カメラワークも全然古い感じがしない、むしろ新鮮だった。画が映え映えなため、特に前半は食い入るように画面に没入してしまった。
デザインや画作りは、自分の創作でも参考にしたいと思うくらいに素敵だった。
I'm singing in the rain,Just singing in the rain. 暴力の豊年祭じゃわっしょいわっしょい🥁🎼♪
半ばディストピアと化した近未来のロンドンを舞台に、暴力に明け暮れる青年アレックスを待ち受ける運命、そして叛逆を描いたSFサスペンス。
監督/脚本/製作は『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』『2001年宇宙の旅』の、巨匠スタンリー・キューブリック。
第37回 ニューヨーク映画批評家協会賞において、作品賞/監督賞を受賞!✨
原作はアンソニー・バージェスの同名小説(1962)。20世紀最高の映画のひとつとして数えられる、超有名な作品である。しかし、その知名度とは裏腹に内容はかなり難解。この物語を通して一体何を伝えようとしているのか、正直よくわからない。そもそもタイトルからして「時計じかけのオレンジ」なんていう意味不明なものだし。てっきり梶井基次郎の「檸檬」(1925)みたいな作品かと。…まあ当たらずといえども遠からずではあるんだけど。
物語としては昔ながらの因果応報もの。悪行の限りを尽くす青年アレックスがその罰を受け破滅の一途を辿る、というわかりやすい筋書きなのだが、ただそれだけのものとしてこの映画を受け止めると全く見どころはない。第一、このアレックスとかいう悪党は最終的に破滅も更生もしない。それどころか「またやったろうやないかい!😏」という不敵な笑みを残すのである。
このラストシーンからもわかるように、本作はイソップ童話のような教訓物語ではない。もっと別の意味が隠されているようだ。
最もわかりやすいところでは、本作はロボトミー手術について扱った作品であるといえるだろう。「治療」と称して人間の脳みそをいじくりまわし、アレックスを廃人同然へと追いやった「ルドヴィコ療法」はどう見てもロボトミー手術のメタファー。その非人道性に対して否定的な態度をとっているという点で、『カッコーの巣の上で』(1975)と同様のメッセージを発していると言える。
別のレイヤーからもこの映画について考えてみる。
「暴力」と「セックス」、そしてそれらとは対極にあるようにも思える「芸術」を愛するアレックス。これが何かというと、完全に「人間」そのもの。よく犯罪者のことを、「人でなし」とか「人非人」とか言いますが、暴力性と支配欲こそがヒトという種が持つ最大の特性であることは、昨今の社会情勢を見れば明らか。誰よりも人非人であるアレックスこそが、誰よりも”人間”なのだ。
そんな彼を閉じ込め、矯正しようと試みる刑務所はシステムやイデオロギーの比喩。甘言を弄してヒトに近づき、映画や音楽をプロパガンダに用いてその脳をハックする。そして最終的に踏まれようが唾を吐きかけられようが全く抵抗することの出来ない、従順な仔羊を作り上げてしまう。
アレックスは吐き気を催す邪悪そのものなのだが、彼がどうしようもない腑抜けに仕立て上げられ、徹底的に虐げられる様を見ていると何故かフラストレーションが溜まってしまう。地の底まで追い詰められた彼が最後の最後で死の淵から甦り、カメラに向かってニヤリと笑う姿にスカッとしたのは自分だけではないだろう。
本作のテーマは人間という「個」とシステムという「全」との戦い。微力な個が全とぶつかれば、ぺしゃりと押しつぶされるというのは火を見るより明らか。しかし、だからこそ徹底的に痛めつけられた彼が不敵に笑うラストシーンが示す叛逆の兆しに心が掻き立てられるのだ。
もう一つ、本作にはキリスト像や牧師の説教など宗教的なモチーフが多く登場している。このことが示しているのは、この物語が神学的な意味を含んでいるということだろう。
神学者アウグスティヌスに端を発する信仰に対する「自由意志」の解釈は、16世紀にはルターvsエラスムスのレスバに発展するなど、キリスト教の歴史において大きな意味を持つ事柄である。
アレックスがルドヴィコ療法により奪われるのは自由意志。「右の頬を打たれれば左の頬を差し出しなさい」を地で行くアレックスはまさにクリスチャンそのもの。しかし、神への服従を自分の意志ではなく強制させられたとしたのならば、果たしてそれは信仰といえるのか?本作はそこに深く切り込んでいる。
原作者アンソニー・バージェスの宗教観については全く知らないが、彼は『ナザレのイエス』(1977)という映画の脚本にも携わっているようだし、キリスト教に対し何かしらの意見や主張があるのだろう。本作にもそれは色濃く反映されているように思う。
多彩な読み解き方が出来る本作。さすが名作と言われるだけある!…と感心するところもあるのだか、正直言ってかなり退屈した…というか、なんかあんまり起伏がなかったので眠たくなってしまった😪
キューブリックらしい構図のカッコ良さ、特にオープニングのこちらを挑発的に睨みつけるアレックスのクローズアップからぐーっとカメラを引いていっての、あのバーの全貌を映し出すロングショットには痺れた!その後のトンネルに長い影を残すアレックスたちの映し方も最高にかっこいい。
…まあでも、そこのカッコ良さがピークだったかも。言ってる事もちんぷんかんぷんだったし。最初AIが字幕作ってるのかと思うほどに意味不明な文章で完全に脳みそが「?」となってしまったのだが、あれは「ナッドサット言葉」というあの世界独特の言い回しなんですね。後半になってくると大体何言ってんのか分かるようにはなるんだけど、前半は本当に理解不能で、それも睡魔を促進させた要因だった。
世間的な評価程には楽しめなかった、というのが正直な感想。とはいえ、最低過ぎる『雨に唄えば』(1952)パロディシーンや、真相に気づいた老作家の渾身の顔芸には大爆笑させてもらったし、なんだかんだで満足しております!
いつか観なくてはならないと思っていた作品をついに観終える事が出来、謎の達成感が湧いている。これほどの有名作品、面白いとか面白くないとか以前に、やっぱり観ておくべきですよね♪
この後アレックスはアメリカに渡り、「ジョーカー」と名を変えバットマンと死闘を繰り広げるのだった。物語は『ダークナイト』(2008)へと続く。…ごめんなさい嘘です。
余談だが、あのチンポのオブジェクト、日本の豊年祭で祀られる御神体みたいで良いですよね。いやおめでたい㊗️わっしょいわっしょい!!イン・アウト♂イン・アウト♀
巨匠が魅せる迫力の映像世界!
キューブリック監督は自分の作品に満足してたんでしょうか?
難解な「2001年宇宙の旅」とか、公開禁止になるこの作品とか、かなり好き勝手をやらせてもらえた監督だと思います。
最近ではディレクターズカット版みたいな形で公表することもできますが、当時は難しかっただろうに、こうして公開できるのですから。
映画通みたいな人たちがこの作品を絶賛しているのをよくみかけます。確かにおしゃれで芸術的な感じはします。通が好みそうな・・・。
いつだったか忘れましたが、最初に見たとき(映画公開時は知りませんので、ビデオで見た時です)にはホンっと衝撃でした。あまりにもストレートな暴力描写にホラー大好き人間の自分も大感激したのを覚えてます。 で、久々に見た今回ですが、やっぱりすごいです! 暴力シーンの派手さはもとより、その見せ方も実に生々しい。最近のCGに頼った嘘くさい映像とは大違い!まさに本物の迫力って感じです。
そして、それに合わせた音楽の数々!クラシックの名曲から「雨に唄えば」・・・。さらにスローモーションがあったり、早回しがあったり。また、衣装から部屋の内装まで現実離れした芸術的なおしゃれ映像が満載です。 訳の分からない言語での会話ってのもありました。
近未来という設定でしたから、1970年代の公開時期を考えれば、現代を想定しての話だったと思われますが、まだ追いついていない。今でも近未来として、新鮮に見れる感じがします。
そして作品事態は、全編、暴力の嵐と考えます。
若さから来る力任せの暴走した暴力。
更正という偽りの正義を振りかざした洗脳という精神的な暴力。
手の出せなくなった弱者に対するリベンジ。
自らの欲のために他を蹴落とす事しか考えない、常に存在する政治的な暴力。
実際にこの作品が持っている奥の深さってのは自分にはよく理解できてないかもしれませんが、全然古臭さを感じさせないこの作品にびっくりです。
キューブリック監督ってホンっとすごいと改めて感動した一本でした。
完全なる暴力肯定の世界観
感想
この作品でます注目するところは、劇中の社会設定と美術装飾全般である。
写真家でもある監督のきびしい設定要求に制作側が見事に応えている感がひしひしと感じられ、当時最先端のポップカルチャーと前衛芸術をエスプリの効いたセンスでまとめ上げた、決して明るい未来とは言えない殺伐とした世界を創造していて、現実的な社会科学の水準は映画制作当時よりも低く、同時に経済状況も悪化している貧富の差が激しい近未来の閉塞観に満ち溢れた世界を見事に現出させている。
21世紀の今現在、鑑賞しても、シチュエーション的、モード的、また、映像的なものを含め、古さを全く感じさせない。映画自体の完成度合いが高く、特筆に値する。
次は原作と脚本である。原作者が危険な本と喧伝した理由が、主人公達不良グループの人間性が極端に暴力に偏っている事。また、そのような人間に対して反社会性を矯正する治療と称して、人間性を根本から否定し、破壊する心理的拷問と、極致的な名を変えた暴力の応酬を行う、人間の精神破壊がテーマとなっている。
キューブリックは原作の要点を押さえ、映画脚本をよりデフォルメしているため、さらに強烈な印象を作り出す事に成功している。不良グループ内だけで共感されるスラングを会話に多用して不気味な存在感と雰囲気を増大させている。英語の意味と発音に韻をふんだスラングなので英語に精通していないと深く本意を理解できない。外国人にしてみると、その訳の解らなさがまた恐ろしく感じる。
主演のマルコムマクダウェルは当時無名に近い舞台出身の新進気鋭の俳優であった。そのエキセントリック且つ、二重人格者的演技は全世界に衝撃を与えた。アレックスはこの俳優でなければいけない。というより、この俳優しかいない。
真面目に何でも真にうけてしまう人は、この映画を観ない方がいい。真に受けるとあまりにも危険で恐ろしい。
映画を観終わった後、なんとも言えない後味の悪い気分になるが、時間が経つと再び怖いもの観たさで観たくなる中毒性の高い映画である。
⭐️4.5
犯罪者の更生を皮肉った傑作
初めてこの映画を見た時の衝撃は忘れられない。
もっとも繰り返し鑑賞した作品で、私の部屋には今でも映画のポスターが貼られている。
常識を逸脱した暴力欲求を持ち、それを抑えることが出来ない主人公アレックス。
仲間と共に不条理な暴力行為に明け暮れていた。
金など持っていないだろうホームレスを襲う。
適当な家に押し入り、『雨に唄えば』を口遊みながら、ステップでも踏むように、住人を殴り、レイプする。
女を使って対立するグループを誘い出し、ボコボコにする。
など、もう、やりたい放題。
そこには『痛い目にあいたくなければ金を出せ』みたいなチープなやりとりは存在せず、ただ、ただ、無慈悲な暴力が加えられる。
そんな日常を繰り返す中でとうとう殺人を犯すアレックス。
仲間の裏切りもあり、彼ひとりだけが逮捕、収監される。
刑務所の一般的な更生プログラムを課した程度で社会復帰させれば、同じことを繰り返し、新たな被害者が出ることは明らか。
では、アレックスをどうやって更生させるのか?
政府は『減刑』をエサにアレックスにルドヴィコ療法を提案する。
しかし、それは療法という名の『トラウマの植え付け』だった。
アレックスの好きなルードヴィッヒ(ベートーヴェン)の曲を流しながら、目を逸らせないように瞼を固定し、暴力行為の映像を見せ続ける。
最初は音楽と映像を楽しんでいたアレックスだが、何度も繰り返されうちに苦痛を感じるようになる。
ベートーヴェンの音楽と暴力映像が完全にリンクしたアレックスは『ルードヴィヒは悪くない』と叫ぶ。
治療は終了し、暴力とルードヴィッヒの曲に対して『強烈なトラウマ(嫌悪感)』を抱え込まされたアレックスは釈放される。
しかし、家に帰っても親に冷たくあしらわれ、彷徨い出た街で、昔、自分が暴力を振るったホームレスから暴行を受ける。
トラウマからなんら抵抗出来ないアレックス。
助けを求めた警官(アレックスの元仲間)からもリンチを受ける。
まさに因果応報。
アレックスは自分が行っていた不条理な暴力をその身で受けることになる。
警官たちから開放されて、雨の中、森を彷徨ったアレックスは、そうとは知らず、自分が襲ったことのある作家の家に助けを求める。
作家は政府の行うルドヴィコ療法に反感を持っており、報道でアレックスのことを知っていたため、家に招き入れる。
しかし、アレックスが風呂の中で口遊んだ『雨に唄えば』を聞いてアレックスが自分を襲った犯人だということに気が付く。
作家は食事を提供し、アレックスから『ルードヴィヒを聴くと死にたくなる』ことを聞き出す。
アレックスたちの暴力が原因で作家は車椅子生活になり、妻は病気にかかり亡くなっていた。
作家はアレックスを殺して恨みを晴らし、かつ、政府にダメージを与える方法として『治療が原因の自殺』を思い付く。
薬で眠らせた アレックスを2階の部屋に閉じ込め、大音量でルードヴィッヒを流す。
案の定、アレックス窓を突き破って自殺をしようとするが彼は死ななかった。
シーンは変わり、病院のベッドに寢かされているアレックス。
医者たちが暴力や性的な絵を見せても、平気なアレックス。
トラウマから開放され元に戻ったアレックスは押し寄せるマスコミに笑顔で応える。
暴力やレイプなど過激なシーンが多いが、映画の主題は『更生』だと思う。
人に暴力を振るっただけでは死刑にはならない。人をひとり殺しても(例外はあるが)死刑にはならないことが多い。
では、ふたり以上殺したら?
死刑判決(もしくは仮釈放無しの無期懲役)が下される可能性は格段に上がる。
人をひとり殺して刑務所に入り、釈放されたのちに再び人を殺し、死刑になる犯罪者は実際にいる。
そんなことが起これば、ふたり目の被害者の家族が『なぜ釈放したんだ』と思うのは当たり前。
では、再犯の可能性のある犯罪者をどうするのか?
『再犯出来ないように洗脳(トラウマの植え付け)をしちゃえばいいじゃん』
というお話。
もちろん、そんな簡単な話ではない。
無力になったアレックスに意趣返しのごとく、暴力を振るうホームレスや元仲間、ルドヴィコ治療に反感を持っていて、最初は情けをかける作家ですら自分たちを襲った犯人であることがわかると、アレックスを殺そうとする。
その気持ちはもちろん理解出来るが、無力になった(更生を果した)犯罪者への仕返しをどう防ぐのか?
そもそも、加害者が更生したら被害者は泣き寝入りするしかないのか?
『元に戻ったアレックス』が再び暴力衝動を抑えられなくり、新たな被害者が出る可能性はないのか?
と考えると本当に救いがない。
きっと結論はどこにも無いんだろうな。
暴力というアプローチだけに観る人を選ぶ作品かもしれないが、政府(巨大な権力)による人格操作の怖ろしさを描いた傑作だと思う。
我々現代人も、政府に管理されたテレビなどのマスコミによって、未然に犯罪を犯さないための洗脳(社会悪の刷り込み)をされているのかもしれない。
めっちゃキューブリック感
家とか、洋服とか今見てもすごいオシャレで、そういう意味でのビジュアルと人間の怖さの表現がいかにもキューブリックって感じ。
話し的には好きじゃないけど、確かに衝撃は凄かった。
アレックスの演技がヤバい。ほんとに頭イカれてる人にしか見えなかった。
不謹慎な笑いの頂点
色々アレな作品だけども、これはコメディだな。とにかくいろんなシーンで笑っちゃうし、スタイリッシュなんでめちゃおもろい。
個人的にスローモーションで川に仲間を叩き落とすシーンがとにかく大好き。顔芸がおもしろいからな。
あと、運動会でよく流れる曲をBGMにして高速セックスシーンも、女性はこれ絶対嫌いだろうなあとか思いながらもゲラゲラ笑ってたな。
それと、前半にばかり注意が行きがちだけど、後半は社会への風刺が利いてていいね!
など、とにかくおもしろい作品。おすすめです。
(個人的に、あの作家の顔芸と男性器の戦いが好き。あと、レコードショップにマジカルミステリーツアーと原子心母が飾ってあったのは良かったぜ!)
この映画を観てから「ジョーカー」を観たかった
こう言う映画は苦手だけど、
午前十時の映画祭のラインナップに入っていて、
それなりの評価と映画史的に重要な作品なので、
勇気を出して観て来ました。
ビジュアル的には流石にキューブリックで、
レコードショップとか主人公の住まいのインテリアとかが
なんかカッコイイのよね。
で、暴力シーンやレイプシーンに最初は引いてしまうけど、
中盤からちょっと様子が変わって
直接的な暴力よりも、有る意味もっと怖い世界へと
話が展開して行くのよね〜
若い人に解りやすい例だと数年ぶりに新作が放送される
アニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」の世界観、
あんな感じの洗脳とか管理社会とかに興味のある人には
楽しめるかも〜〜
で、月に8回程映画館に通う中途半端な映画好きとしては
不謹慎ながら観ているうちに
暴力シーンなのに
ちょっと笑ってしまう様な作りになってる。
大きな大きな、ある芸術作品で
金持ち女性のお口を攻撃する暴力シーン!
酷いシーンなのにバカバカし過ぎて笑ってしまう〜
一周回って、なんという恐ろしさよ〜
この世の中にはどうしようも無いけど
一定程度は「反社会的」な人間はいる
だからと言って、
すべての人間を洗脳、管理する社会はとても、とても危うい〜〜
この映画を観てから「ジョーカー」を観れば良かった。
暴力というもののもっと違う何かが観えたかも〜〜
@お勧めの鑑賞方法は?
「映画館で集中して観て欲しい〜」
向き不向きがある
とにかく性描写が気持ち悪すぎる。
それだけで無理なのだが、これまた多すぎる。
あんなに描く必要は無かった。無いのをわざと大量に描いて徹底的に嫌悪感を煽ってる。それが手法なんだろう。
サイケな部屋をかっこいいと思える人には響くかも。私はおもちゃ箱みたいで好まない。
これを未来のしつらえと捉えるか60年代のチープな家具、内装と捉えるか。
日本ではヨーロッパ企画がチープにSFものをやるけれど、それの手作り感を無くした感じに見えてしまう。
登場人物みんな、アンドロイドみたい。
昔はこういう映画が無くて斬新だったのだろう。
残忍性マシマシ
マーダー、アレックスがシャバに出る為に、西遊記の輪っかをつけられるような話です。
シナリオは当時にしては新しいように感じる。
序盤のサブリミナル的な恐怖の演出はすごい。
猫飼いの女をチンポの置物でどつく時の演出は、驚きそのもの。
なんであんな置物あったんだろう?
劇中の作家の顔芸で笑ってしまった。
21世紀の人々へ贈る西欧版ウェストサイド物語
古典的なウェストサイド物語よりもより一歩踏み込んで、もっと壮大に全人類とは※そもそも人間とはなんなのかというテーマに挑み、世界を舞台に挑戦状をたたきつけたような作品です。
タブーを恐れず、人間の残忍さを描こうとした実験的な作品のようにも思えます。
そして、終始、西欧の香りさえしました。
今観ても古臭さはありません。
そもそも善人とは何なのでしょうか、真面な人間というものは誰が決めるのでしょうか?
知識人や政府役人や、コロナ感染で実態が顕わになってしまった例えば日本で言うのならば、医師会であるとか、彼らの方が真の意味で病んでいると思うのですが。
人は皆、誰もが時計じかけのオレンジ
20年以上も前に見て以来の視聴。キューブリック作品は、その頃、まとめて見ていたが、若造だったので面白さが理解できていなかった。今回、久々に見て、記憶に鮮烈に残る作品だと感じた。
まずは、優雅で楽し気な音楽と暴力、色彩の融合の感覚が異色だ。ロッシーニの「どろぼうかささぎ」「ウイリアムテル序曲」の軽快、「雨に唄えば」など喜劇的なメロディに暴力や性的シーン。シェラザードやベートーベンの第九、威風堂々等。暴力を振るう若者グループの自己陶酔感を優雅・楽し気に表現していた。その暴力の様も、旋律やリズムに合わせて行われ、醜さと美しさが同居している様が見て取れた。人は美と醜、善と悪を併せ持つ。アレックスの左目のまつ毛は醜、右目は美を表しているのかもしれない。
性も暴力も、人間の根源的な力が間違った形で表出されたもの。普段は、法や習慣、人間関係によって抑え込まれている。でも、その歯止めがなくなったらどうなるか?
主人公の若者グループは、親も宗教も学校の教師にも敬意を覚えていない。彼らは、仲間うちで盛り上がれればいいのだ。リンチ、強盗、レイプ、3P、目を覆うばかりの暴力。矯正施設に入れられるも、表面だけの回心。未来の若者が、どうなっていくのかを予言したかのような部分だ。これは、資本主義世界の未来なのだろう。
矯正施設から早く解放されるための、新しい強制的な治療。暴力や性、第九を聞くことに対して吐き気が生じる。ここで、治療する側の医師や研究者も、主人公と同様、十分に暴力的であり、治療が成功したかをチェックする側も暴力的に描かれていた。こちらは、社会主義的な世界の未来を示している。
アレックスは、解放されると、自分が暴力を振るった仲間、被害者たちから復讐される。昔、酷い目に合わせたから当たり前にも見えるが、描き方は、やはりスイッチが入ったかのように、暴力的であった。
人間には、どうやら暴力のスイッチが隠されているようだ。(→時計じかけのオレンジ)こいつには暴力を振るってもいいと思うと、暴力的になれる。戦争も然り、優生思想、優越感政治的な思惑、権力維持も然り。それが、現代~未来の社会においては、増えていくと言っているかのようだ。
しかし、人間を強制的に罰則等で暴力ができないようにしても、それは確かに本当の道徳、人間の善には結びつかない。自由な選択の中から選びとるようでないと。それは、十分にデザインされた社会でないと、恐らく難しい。無軌道な自由の中では、この作品中の主人公たちのようになってしまうのではないか。自由でも、強制でも上手く行かない世界の難しさ。
善や美以上に、人間は暴力や性に魅了されやすいのかもしれない。現代の映画作品群を鑑みると、そう感じてしまう。そんなブラックなメッセージを読み取った。
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