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この作品における「クラゲ」の立ち位置がとても秀逸だと思った。
生きているのか死んでいるのか分からない。見た目からは想像できないような猛毒を持つ。それなのに人を引きつけるような魔力がある。
これがそのままマモルが持ち、ユウジが獲得しつつあった「怪物性」の象徴になっていた。
この象徴がそのままメタファーになることで、クラゲとそれぞれの登場人物の関係性の変化が「怪物性」への向き合い方の変遷になっている。物語終盤、マモルの父が海に向かおうとしているクラゲに触れて刺されるところなんか物語序盤の父と子の面会室のくだりそのままだった。
父、上司、同僚、とクラゲに刺された(刺されかけた)彼らのことを考えると、マモルが向けていた敵意や排他的な意思がそのまま物語上のクラゲによる被害の大小になっていたようにも思えるそう考えると、物語中唯一姿が映らないクラゲの被害者である彼女はマモルが持つ「家庭」への敵意とも解釈できる。
ここで考えなければならないのが、他でもないマモル自身がクラゲを淡水へ馴染ませようとしていたことだ。クラゲが「怪物性」のメタファーだとするならば、マモルは「怪物性」と向き合いそれを不自然であるとしながら淡水という名の「社会」に馴染ませようとしていることになる。もしマモルが本当に「怪物性」を「社会」に馴染ませようとしていたのなら、それはきっと失敗してしまったのだろう。まるで物語中、ユウジがマモルからの指示が嫌になって水槽を倒してしまったように。
頭の中でまとめながら書いているから混乱してきた。
つまり何が言いたいかと言うと、物語内の「ユウジ&シンイチロウ(マモルの父)とクラゲの関係性の移り変わり」がそのまま「マモルが「怪物性」と向き合い失敗するまでの過程」の比喩になっており、それを俯瞰的に見る観客がメタ的に「怪物性」の存在と触れ合うという構図がこの映画にはあるのではないかということだ。