夏の砂の上 : 映画評論・批評
2025年7月1日更新
2025年7月4日よりTOHOシネマズ日比谷ほかにてロードショー
戯曲の映像化における“映画だからこその表現”
戯曲を映画化する場合、例えば、三谷幸喜の「12人の優しい日本人」(1991)や「笑の大学」(2004)のように、シーンがほとんど変化しない密室劇として描くケースがある。その一方で、泉鏡花の「夜叉ヶ池」(1979)のように、海外ロケや特撮を伴った大作になるようなケースもある。これは映画化に対する手法の違いなので、どちらが正解というわけではない。シドニー・ルメット監督が「十二人の怒れる男」(1957)を映画化した際、密室劇でありながらひとつとして同じ構図を用いないことを己に課したように、作品規模の大小はあれども、そこには戯曲を舞台としてではなく、あえて映像によって表現する何らかの意図が介在しているはずだからだ。
「夏の砂の上」(2025)は、松田正隆の戯曲を玉田真也監督が脚本も兼任して映画化した作品。長崎を舞台に、幼い息子を亡くした喪失感から妻(松たか子)と別居状態にある治(オダギリジョー)が、奔放な妹(満島ひかり)の姪(髙石あかり)を預かることになったひと夏の共同生活が描かれる。今作は1998年に平田オリザが舞台化して以降、幾度も上演されてきた作品だということだけでなく、2022年には演劇ユニット<玉田企画>を主宰する玉田監督も舞台で上演した作品だったという縁がある。今作に対する彼の情熱は、上演時に「僕以外の人の戯曲を上演するのは初めてです」とコメントしていたことからも窺える。

(C)2025映画「夏の砂の上」製作委員会
今作には“映画だからこその表現”が散見され、視覚的な演出が冴えわたっている。例えば、ロケ地。劇中では、繰り返し長崎の街並みを活かした坂道や階段が映し出される。登場人物たちが階段を登ったり、降ったりする姿が導く、フレーム内の上下運動は映像でないと表現できないもの。つまり、縦の行き来を実践できるロケ地を選んでいることを窺わせるのだ。また、坂の勾配を利用することで、登場人物同士のイニシアティブを可視化させてもいる。加えて、玉田監督は俳優の佇まいを信じていることも映像から感じさせる。長回しによる引きのショットと表情をとらえた寄りのショットとを併用した心理描写。それは、物言わぬ俳優の表情をとらえることで、可能な限り台詞を削ぎ落とそうとする姿勢を感じさせる由縁でもある。
脚本に惚れ込んだオダギリジョーは、本作のプロデューサーとしてプリプロダクションから参加。作品に対する斯様な俳優陣の熱は、極上なキャスティングにも表れている。また、彼の妻を演じた松たか子や彼女の不倫相手の妻を演じた篠原ゆき子は、細やかな言葉のニュアンスを表現して妻同士の苛立ちを実体化させていて見事だ。さらに、小さな役ながらも姪のバイト仲間のひとりを演じた花瀬琴音は、東京出身で九州地方との縁が無いにも関わらず長崎言葉の表現が素晴らしかった。思い返せば、彼女は映画デビュー作「遠いところ」(2022)で沖縄の言葉を操り、現地の人々からも“うちなーんちゅ”だと勘違いされるほど言葉の表現に長けていた。そういった意味で「夏の砂の上」は、俳優を観る映画でもあると言えるだろう。
(松崎健夫)